76話
約束の場所。
そこには少し遅れると置き手紙があった。
家にいて欲しいと、望まれた。
窓を全開にして、彼は自室で待っていた。
わざわざ玄関を通る事を想定していなかったからだ。
しかし、玄関のロックが解除される音がして。
一度別室に寄り、ナナが起きていない事を念のため確認する。
カイルの手には武器はない。
リュウからもらった血清だけを隠し持って、ただ玄関の方へ向かう。
その血清はもしも彼が暴走した際に、少しでも意思が残っていれば自力で抑える可能性を残すために用意されたものだ。
それを彼女に使うつもりだった。
最後の曲がり角、曲がれば全てが終わるかもしれない。
しかし心は高鳴っている。
今日で全て悪夢が終わって、あの時のような、日常が帰ってくるんじゃないかと、期待してしまっている。
そんな未来は成立し得ないのに、彼は期待してしまう。
角を曲がった途端、いつもの彼女と少し違う匂いがした。
彼女がいつも放つ優しい香りに加えて、恐らく香水か何かを足している。
男として、何か反応してしまいそうな、そんな香りがドレスの柔らかい衝撃と共に強くなる。
抱きつかれた。
彼女が今日着ていたのはウェデイングドレス。
まだ計画だけの結婚式の服装。
その真っ白な優しさに全身が包み込まれる。
花を模したリボンも似合っていて、今日の彼女は一段と綺麗で、美しく、可愛らしかった。
「ずっと会いたかった……!」
切羽詰まった声に、カイルは何事かと思った。
つい最近だけでも何度も会ったはずなのに、彼女はまるで久々に会ったかのような雰囲気でそんな事を言った。
「ダンテ、一体、お前の体には何が起こっている?」
カイル問い掛けに顔を上げ、言いづらそうな表情で、しかし淀みなく答える。
「分からない……今日、私はあなたに殺してもらうために来たから」
任務が達成出来る瞬間が、今訪れた。
「何故俺が殺さなきゃいけない?」
「殺されるなら、カイルがいい。 それに、そういう指示はずっと前から出てるでしょ?」
身体の震えが伝わる。
死が怖いと感じられる。
なら、彼女はまだ正常だ。
だから、血清を刺そうとして、近付ける。
「それじゃ、あなたのデシアさえ対処出来ないよ」
無視して、血清入りの注射器を刺してみるが、それだけでは効果は分からない。
そして次に発された台詞で理解する、強制的に理解させられる。
「ほら、何も変わらない」
「くそ、待て、俺がお前を救ってやる、だからもう……離れるな」
離れられない様に強く抱き締める。
彼女なら、逃げようと思えば簡単に逃げられる事は知っている。
しかし、それを知っているはずの彼は絶対にその拘束を外そうとはしなかった。
「あなたには守る者がいっぱいある。 私だけじゃなく、友達や、あの小さな女の子も」
ダンテは小さい子供に諭すように、目に恐怖を宿らせたまま説得しようとする。
「私を殺さないと、みんな守れない」
完全に黙りこくってしまったカイルに、諦めの笑顔を向けて、言う。
「それとも、みんなを諦めて私だけ守ってくれる? 出来ないよね? あなたは優しいから」
溢れた涙と、優しいと言う言葉が、響く。
ガンガンと自分の中を殴られるような痛みをカイルは感じて、胃の中の物を全て吐き出しそうになる。
しかし、自分よりも、殺してくれと自らの死を願う彼女の方が、より苦しい。
彼はこの感覚を知っている。
昔のような、つい最近の出来事。
「それに私は守られるような良いヒトじゃないもん。 あなたを好きになった時、私はあなたが私を好きになりやすくなるように、色んな魔法をかけた」
「そんな私でも、あなたは好きって言える?」
好きだと言ってくれと、泣き顔に書いていた。
そんな分かりやすいところも、好きだった事を思い出す。
今だけは、間違いなく幸せだと言える、そんな時間だった。
それを終わらせる本題を自ら切り出す。
「なぁ、俺にはもうダンテを救う事は出来ないのか?」
「うん、だけど、最後に私の心だけ救ってほしい」
これはきっと、闇と混ざりあっていない、純粋な彼女の心という事だろう。
一歩離れて、笑ってカイルの自室へと誘う。
彼はそれに従う。
そして同時に、この逢引も終わりが近くなっている事を自覚した。
殺さないと決めた。
理性的な会話も始めようと思えば幾らでも出来た。
それでも今だけは。
「こんな私でも、女の子として見てくれる?」
ベッドに背中から倒れ込み、両手を開く。
「もしもまだ好きだと思ってくれてるなら……愛を………………もう、この先も言わせるつもり?」
赤くなった顔は拗ねていた。
もう、カイルはそれ以上の言葉を言わせなかった。
2人だけの、秘密の時間。
互いに闇を忘れて、ただの恋人として愛し合う為だけの空間は、今まで会えなかった時間を埋めるかのように、長く続いていた。




