73話
周囲の風景が動く。
それが実際は、自分が吹き飛ばされたのだと気付くのにほんのすこし、時間がかかってしまう。
ある人に私の思考の大部分を奪われていたから。
体勢を立て直そうと前を見れば、少し驚いている、そのある人が立っていた。
ここにいるような気がした、と言えばその通りでも、実際に出会って見れば、どこか運命のようなモノを感じてしまう。
今の体勢は、無防備で、他の異性には決して見せたくないような無様な姿。
お尻が地に着き、更に手で身体を支えて、上目遣い。
それでも、そういう姿を見せてしまっても嫌だとは思わない相手。
「あ、こんにちは。 カイル」
「あぁ、こんにちは」
優しい、とは言いにくい瞳が見つめてくれる。
それが心が求めていた歓びを呼ぶ。
国内は決して平穏ではないのだが、無意識に湧き出す感情を止める事は出来なかった。
「あのね、私は貴方がここにいるような気がして……」
会いに来た、と言う事が少し恥ずかしい。
今の私の頬はきっと少し赤らんでいる。
身体が熱い。
醜くない、純粋な欲望が愛という感情を望んでいる。
それを手に入れるためならば、何だって出来てしまいそうな、そんな気分だ。
「まあ確かに、俺はここにはよく来るからな」
それを聞いて、またここに来ようかな、なんて思う。
この想いを感じられるなら、彼がいなくとも無駄足にはならない。
ジャケットにズボン、あまり特別という程でもない服装が、どこか輝いて見える。
そうして見ていると、カイルの表情が不審げな物に変わる。
「どうかしたのか?」
「ううん、折角だから少し歩かない?」
「そうだな、そうしよう。 目的は?」
少し歩く事に目的地が必要、という事に少し納得行かない思いも少しあるが、表には出さない。
そういった体裁どうこうの表面に関しては幼い頃から徹底的に叩き込まれている。
最初から目的地があるとは言っていないのに、そこを取り繕おうとして、付近に女性をターゲットとしている装飾品店が最近出来たという話を聞いた事を思い出す。
「最近出来たあのアクセサリー屋! 行って見たいなぁって」
「……そんな店あるのか」
腕を掴もうとして、結局恥ずかしくて手を掴んで、笑いかける。
この笑顔は、本音100%の物だった。
また、初めての感覚だ。
彼と出会ってからもうどれだけ初めての抑え込めない感情と出会ってしまったのだろう。
それが不快感を与えてしまったりしていないかが、少し心配だ。
「うん、行こ」
仕方ないな、という笑みに、謎の自信が湧き出る。
きっと上手くいく、成功させられると、そう思う。
「で、場所は?」
「…………何処だろう?」
「ん?」
舞い上がってしまって、場所を知らない事を忘れていた。
無様だ、恥ずかしいなんてものじゃない。
せめて行ったことがない知っている場所を選ぶべきだった。
「大体の場所は分かるか?」
「ここからそう離れてないはずなんだけど……詳しくは…………」
声が尻すぼみに小さくなる。
カイルはそれ以上質問しようとはしなかった。
余計な辱めをせずに、優しく言ってくれる。
「適当に歩いてみるか」
手と手を繋ぐのではなく、今は私が一方的に掴んでいる。
本当は手と手を絡める、よくある恋人繋ぎでもやりたかった、でも今はまだ早い。
二人の仲を深めて、もっと正式に関係を表明だとか、そんな段階まで行ってから、そうしたい。
「うん」
空いている方の手で、長めのワンピースの裾を掴み、不安と緊張を見えない様に必死に抑えつつ、彼に続く。
性欲、支配欲、と言った感情が刺激される。
カイルにとって、二人きりで、彼女の側にいる事が良いことだらけだとは、あまり思えなかった。
何故なら彼女は異性を感じさせる様な、暴力的な欲求をひどく刺激する。
いつか、暴走してしまいそうで、怖かった。
仲間を殺してしまいそうで、不安ばかりだった。
「これどうかな?」
純粋無垢で、しかしダンテと比べれば少し大人らしい笑みが、すぐ顔の前にあって。
それを支配したいと、思う。
自分のモノにしてしまえば、心地いいだろうと、思う。
半分暴走しつつある理性により、彼はそう思ってしまう。
可愛らしい、もしくは美しい女を無茶苦茶にしてしまいたい。
誰にでもある種の欲で、その対象は明確に誰かに向けられるものではない。
愛という物は個人に向けられても、性欲は自由だ。
独立して、気ままに様々なヒトを含む生物、あるいは物体、もしくは状況に向けられる。
今までは、それだけだった。
性欲に、他の欲望が絡み出す。
そもそも本来、欲望とは単体で在るものではない。
実際は絡み合っている事が分かっている程に明確な存在感を示さなかっただけで、常にそうだった。
ただ何かをしたい、という欲求も、アレを食べたいだとか、あの場所に行きたいだとか、そんな欲求でさえ性欲や、支配欲に繋がっている。
誰かを痛めつけて快楽を得たい。
ヒトとして持つべき本来の望みで、これも欲望になる。
しかし、そのどれもを達成する事は当然出来ない。
だから理性を保って自身を律する。
どんなに欲望が強くなろうと、それが出来なければ、いつか彼の人生は終わる。
「良いんじゃないか?」
だから、心の底から笑ってみる。
今を楽しむ。
いつ終わるか分からない人生で、平常心を保てなければ終わりの人生で、笑う事は正しいからだ。
笑う事は無理矢理にマイナスな気持ちを抑圧する。
弱い者でも、仲間と笑い続けることが出来るなら、強者と同じラインに立つ事が出来るかもしれない。
これはダンテという圧倒的強者に追いつける可能性だ。
「そうかなーこっちは?」
「服と合ってない……気がする」
答えるたびに表情が変わって、それが楽しい。
カイルには、彼女の想いには答えてやれないが、今はこれで良いと、思っている。
こんな暗い世界で笑い合える関係は、何よりも重要だから。
「じゃあこれは?」
「さっきの奴と一緒にしてみても良いかもな、まあそっち方面は完全な素人だが」
そう言うと、ユウカは少し恥ずかしそうな顔をする。
「カイルの意見が知りたいの。 あなたの印象の為なんだからね」
まるでキスを迫る様に傾けながら顔を近づけて、途中で止まる。
指がカイルの顔に触れて、不快感がない性格の悪い笑いが放つ魅力は、彼の語彙から素晴らしい以外の言葉を失わせる程だった。
そんな、何も起こらない平和な平日だった。
しかし休息は長くは続かない。
このまま望まれるがままに事態が進んでしまえば、世界に残された安息の時間はそう長くはないからだ。




