44話
朝。
カイルに目が覚まさせたのは何か苦味を感じさせる匂いだった。
視界に真っ先に移ったのは何かの飲み物をカップに用意している最中のミラ。
ネグリジェ姿の彼女の胸元からは肌の色が見える。
まだカイルが起きたことに気付いていないせいか、ひどく無防備だ。
「それは……」
「あ、起きた?」
「はい」
「これね、ダンテが苦い苦いって言いながら良く飲んでたの」
「それは、何故でしょうか」
飲んで見たいと思う。
彼女が苦いと言いながらも何度も飲み続けたその何かをカイルは自分でも体験してみたいと感じた。
思い返してみれば、カイルはダンテの事を深くは知らない。
彼女はいつも自分の過去の深い部分を見せようとはしなかった。
いつでも彼の前では完璧な女性で、精神的な弱みは決して見せなかった。
今思えばそれは心の闇とかそれに関する部分かもしれない。
ミラは笑いを堪えるので精一杯と言った様子でカイルを見る。
「これね、あの子が大人っぽい飲み物って何? って聞いてきたから出してあげたの」
ふと笑みが溢れる。
彼女にそうした可愛らしい部分があることは彼も知っている。
彼は続きを視線で要求した。
「それでね、あの子はマズイマズイって言いながら半年頑張ったの」
とうとう耐えきれなくなった笑いが漏れる。
「ふふっ、それでどうなったかと思う?」
「正直な話、飲める様になったとは思えませんね」
「あはは、貴方のためにーって言ってたんだけどね。 正解。 こんなの飲めるわけが無いって怒り出して子供でも良いもん! 拗ねて出ていったの」
カイルは唐突に妙に甘えられた記憶があることを思い出す。
あの時は涙目で大人じゃなくても良いよねと問われて困惑した覚えが彼にはある。
理由さえ不明なまま宥めるのに、大した恋愛スキルのない彼は丸一日を要した大変な思い出だ。
「少し覚えがあります。 俺は大人がどうこうなんて言ってないんですけどね。 あの時は大変でした」
「あーやっぱり……それにしても、あの子は本当に変わったのよ。 貴方に出会って暫くしてからは本当に色々変わった」
「例えば、何でしょうか」
「元々我儘なんて言わない子だったんだけど、色んな欲を見せる様になったの。 貴方に会う前はずっとブレイスから見た理想の子供を演じていた。 あの子は異常な程に賢いから、最善の選択肢を選び続けていたの」
「……俺がいなければ、こんな事にはならなかったんですね」
「貴方は悪くない。 悪いのはこの世界の方」
この考え方は間違っている。
時代に適応出来ない存在は今まで排除され続けて来た。
そして彼女の考え方は適応出来た者のそれではない。
「違う、俺がもう少し距離を取ってさえいれば……こんなくだらない感情に惑わされたりしなければ……」
「それで貴方は良いの?」
全てがひっくり返された様な衝撃がカイルを襲った。
頭だけが吹き飛んだ気さえした。
今の彼女がいなければ今の自分はなく、この気持ちさえも偽りだったという事になる。
しかし、それは我儘だ。
自分の為に他人を犠牲にしただけだ。
彼女が死ぬぐらいなら、何も変わっていない方がマシだった、そんな思いがカイルの脳内を駆け巡る。
「考えていることがすぐ顔に出るね。 ダンテも分かりやすいとは言ってたけど、ここまでとは」
「そんなに、顔に出てますか?」
「うん、たっぷりとね。 見ただけで貴方が自分を責めている事が分かったし、同じ気分になっちゃいそうな程だわ」
「すみません」
「本当に聞いてた通りね、思ってたよりはネガティブみたいだけど」
ミラは笑っていた。
ダンテと比べればどこか小馬鹿にした様な雰囲気を見せているが意図的な物である事が分かっていたせいか不快感は感じなかった。
「さて、私の屋敷では護衛らしい護衛の仕事なんてないけど……お話に付き合ってもらおうかしら」
「それは構いませんが……」
「じゃあ、決まりね。 早速だけどそれ飲んでみて」
言われた通り、カップを手に取り、口を付けてみる。
その黒い液体は、想像していたよりずっと甘かった。
しかし甘過ぎる訳ではなく、まるで自分の為だけに甘味を調整された様な味だった。
そしてこの味を彼は知っている。
「これ……」
「ダンテが貴方の為に毎日作っていたらしいそれね。 結構他の人にも振舞っていたのよ。 家内では不評だったけど」
「どの辺りが不評だったんでしょう?」
「苦いってね。 想像しにくいかもしれないけど私含めてみんな甘い方が好きだから」
想像は楽に出来た。
リュウも確か、苦味のある物より甘味のある物を好んでいた上、あの時の会議でもそうだった。
菓子を手元に置いてあり、それに付属していた飲み物はそれぞれ違う物だが見える範囲全てが甘い物だった。
「遺伝子的な物ですか、よく分かりませんが」
「かもね」
二人で静かに笑い合う。
笑い終えてからカイルは気になっていたことを聞いてみた。
「ところで、朝ですが他の皆さんは?」
他にも人の気配はある。
屋敷内に4人、庭に5人だ。
全員ミラに何かあった場合対応出来ない距離にいる。
まだ朝は早いのだが、何故もう既に定位置についているのかという疑問だ。
「私をもっと近くで護衛してた人達がみんな病気になっちゃって……早く治れば良いんだけど」
「あぁ、えぇと。 朝から皆さん何故動いていないのでしょう? という疑問で」
「動いてない? なんで分かるの?」
「その程度であれば何となく、分かりますが……」
「そんな物なの……?」
化け物を見つけたような視線にカイルは少しその心を傷つけてしまった。
しかし謝罪等がない以上、上手く誤魔化せている事になる。
「皆さん気配を消すつもりはない様ですし。 俺も今はそうしてます」
「へぇ、私は? 存在感ある?」
「近いので当然ありますよ。 離れたら分かりにくいですが」
「良かったー。 あっ、そういえば見たい放送あるから護衛さんはこっちに来て」
お淑やかを演じて歩き出す彼女はダンテとは少し違っていた。
そして彼女にはこれだけ接していて何も感じなかった。
失敗とはどういう意味なのか、それが分からない。
全く干渉されないのか、完全に上手く無力化してしまっているのか。
そのどちらかであれば、もうダンテが同じ道を辿る事は難しい。
カイルはそれに少し、不安になりつつも後を追った。




