サイコパスとキチ○イ
カズキの部屋は黒い遮光カーテンとガムテープで窓を塞いであって、昼間であろうと決して外の光が入り込むことはない。そんな暗い部屋の中では、無数のヒキガエルが鳴き声を上げていた。
「そろそろ卵がかえるかな」
彼は十ある水槽の中から、卵が残っていた水槽を覗き込んだ。そこには、今まさに生まれたオタマジャクシが、両親の周りを泳いでいる。それを見て、にやり、と笑いながら、彼はその水槽に手を突っ込む。引き上げた手には、オタマジャクシたちの父親が握られていた。
「次世代を残せたね。良かったね。そして、さようならだ」
ヒキガエル片手に携帯用万力を取り出すと、彼はカエルを入念に捻りつぶした。にじんだ血液が床に敷いたブルーシートに落ちて、鈍い音を立てる。カエルの内臓がすりつぶされると、辺りには酷い悪臭が漂うが、不快な匂いを嗅ぐたびに、むしろ彼の歪んだ笑みは無邪気なものに変わっていった。
彼は一通り楽しんだ後で、すり潰した肉片をオタマジャクシの居る水槽に捲いた。オスの死骸をヒキガエルのメスが食すところを見ると、彼は最高の多幸感に包まれるのだ。
「次はどいつが楽しませてくれるだろう」
泳ぎ回るオタマジャクシを見ながら、彼は水槽にふたをした。
***
ようやく残業から解放され、すっかり夜の闇に包まれたアパートの自室で、タケルはよだれを垂らしながらケージを覗き込んでいた。ケージの中には何か黒い物体がカサカサ動いているようだった。
「今こそ収穫の時だ」
そういうと彼はケージの中から黒光りする虫――ゴキブリを取り出し、それを口に放り込んでくちゃくちゃと咀嚼した。実にクリーミー。たまらず卵も口にした。
「これこそが陸のキャビアだ」
この世のものとは思えないほどの珍味であることが分かると彼はすぐに、ご飯の上にゴキブリとその卵を乗せ、そこに醤油を掛けた。今日からこれが俺の得意メニューだ。
再就職してから一人暮らしを始めたものの、持前の食欲と、実家暮らしの頃と変わらない金銭感覚から膨大なエンゲル係数に家計を圧迫され、彼は金欠に参っていた。ある夏の夜、寝ている時に肌をかすめた黒い虫は、彼にひらめきをもたらした。そう、食材はすぐそばにあったのだ。家庭内のゴキブリが一般に不潔なものであるとみなされていることは、彼の強い食欲の前では問題にならなかった。計画はすぐに実行された。ケージにゴキブリを数匹捕まえて入れ、使い古しの調理油を垂らしてやるだけで、それはたやすく殖えていき、収穫の時まで長くはかからなかった。
明日は揚げ物も試してみよう。彼の口元から笑みがこぼれた。
次の日、ゴキブリの調理について考える彼は、玄関のインターホンが鳴ったことで現実に引き戻される。彼は人との関係を極力断ってきたから、前に来客があったのはいつだったか、と思案した。扉を開けた先に立っていたのはアパートの大家だった。
「ちょっと、高野さん。あなた今月の家賃が、まだ振り込まれてないみたいだけど」
毎月末には口座に入金していた彼だったが、今月はゴキブリの様子を気にしすぎたために、すっかり失念していたのである。まあ、何ということはない。食事をゴキブリ主体にしたことで、彼の貯蓄は増えつつあった。消費が極端に減った彼にとって、今ある手元の金でも十分に払える額だ。
「すいません、入金し忘れていたようで。丁度、すぐにお支払いするんで、持ってきますね」
タケルは部屋に戻って、財布を探した。もはや彼にとって金はゴキブリの飼料を購入するための対価でしかなく、財布を持ち歩くことすら億劫になっていたのだ。ゴミが散乱した部屋では、財布など埋もれてしまっていて見つからず、苛立った彼は、いよいよゴミをかき分け、投げ捨てるようにして探し始めた。
やっと見つけた財布には数枚の万札が入っていた。数えるのも面倒なので、札をすべて取り出して、大家に渡す。
「お待たせして申し訳ない。これで足りますかね」
大家は訝し気に受け取った額が足りているのを確認すると、手元の封筒にしまった。顔を上げた時には、さっきまでの怒った雰囲気はなくなって、いつもの温和な大家に戻っている。
「いやいや、こちらとしては毎月しっかり入金してくれる高野さんみたいな人は助かりますよ。はい、これ釣り銭。これからもよろしく願いしますね」
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
大家の言葉は、遠回しな釘刺しだ。去っていった後ろ姿は、金を回収して満足しきっていた。そんな現金な大家のことが、彼は嫌いだ。嫌いだが、彼の薄給では他に住む当てはない。タケルはため息をついて、玄関の戸を閉めようとした。しかし、その扉が閉まる寸前、黒い影が外へと飛び出していったことに気づく。
「ゴキブリが逃げ出してる」
部屋に駆け入ると、そこには自らが投げてどかしたゴミ袋の奥に、倒されて口の開いたケージが転がっていた。焦りで頭が真っ白になる。ゴキブリはもう床一面を覆い、床自体が黒く蠢めいているようだった。
冷静になれ、彼はそう自分に言い聞かせて大きく深呼吸をした。思考の霧がゆっくりと晴れていった。ゴキブリが外へ逃げ出せば大騒ぎになる。それを避けたいという意味での焦りこそ残っていたものの、ゴキブリを長く飼い続けているうちに感覚が麻痺してしまったためだろうか、部屋一面が黒く覆われているということに不快感は覚えなかった。それどころか、この状態の部屋こそが自分の本来あるべきところである、とさえ思えた。
彼はもはやゴキブリを拾ってケージに戻そうとはしていなかった。そうではなく、ゴキブリを逃がさないように外に出て、ホームセンターで柵を買ってきた。本来小さい子どものいる家庭で、子どもが外に出ないように設置する扉つきの柵だ。それを玄関からちょうど見えないくらいの位置に設置し、隙間を養生テープで厳重に目張りした。そして、柵の外に居るゴキブリを内側に掴んで移動するという、骨の折れるような作業を夜中まで続けたのち、彼は柵の内側で眠りについた。掛け布団はもはや必要ではなかった。
朝、タケルは口の中をゴキブリが這い回る感覚で目を覚ます。そんな生活も一週間が過ぎると、これ以上ないほどに居心地良く感じるようになるものだ。口に入ったゴキブリをそのまま咀嚼すれば、朝食のために調理する必要も、食器の必要もない。
ゴキブリは彼にとって、掛け替えのない友達だ。彼は生命の維持のために老廃物をゴキブリに与え、対価として一部を捕食する。ゴキブリは種全体の繁栄のためになら、仲間の死体でも食するが、もはや彼とゴキブリは、捕食者、被捕食者という立場を超えた共存関係を築いていた。
気づけば、ゴキブリは彼の話す言葉を理解しているようでもあった。
「さあ、今日も仕事に行ってくるよ。外は敵でいっぱいだから、あまり外に出ないように」
彼の言葉に応えるためか、ゴキブリ達は一斉に羽音を立てた。扉を閉じたあと、駅に向かう彼の背中には、卵付のメスゴキブリが張り付いていたが、彼は気づくことなく通勤する。そのゴキブリは気まぐれに、道端に降り立った。そして、それが運の尽きだった。動きが鈍っていたために、カエルに捕食されてしまったのだ。
「ああ、そんなものを食っちゃいけないよ。いくら外に出てはしゃいでいるからって、ゴキブリなんかを捕食しちゃしけない」
そう言いながらカエルを拾い上げた男は、カズキだった。ヒョロッとした体格、異常な小さい身長、目の下の隈は陰鬱な性格を表しているようだった。彼はじめじめした日、カエルの散歩に行く。こうして時折、外に出してやることで、より健康的なカエルに育つのだ。そんな健康的なカエルを出来るだけ残虐に殺すのが、彼が唯一得られる快楽だった。
「しかし、今のゴキブリは活きが良かった。そこらの野良じゃないな」
彼は数えきれない生き物を殺す中で、生命の良し悪しともいえるものを感じ取れるようになっていた。そんな超常的な感覚が、あのゴキブリには生命力が溢れている、と告げていた。
「なんてブリーダーなんだ。俺以上に生命を輝かせる人間が居るなんて。それもゴキブリなんていう、おぞましい生物を」
青年、宮川カズキは、生まれて初めて他者への畏敬の念を抱いた。そして、同じく歪な趣味を持っている同士としての、多大な興味も。カズキは、ゴキブリの飼い主を探すことにした。まだ飼い主をどうこうする考えはないが、単純に飼育環境を見てみたい、と思ったのだ。
あの活きの良さを見る限り、外に放されてから間もないだろう。飼い主はまだ近くに居るはずだ。そう考えたカズキは、そそくさとカエルを拾い集めて移動用の虫かごにしまうと、辺りの人間をじろじろと観察し始めた。普段なら他人の目を憚ってとてもそんなことが できる彼ではないが、飼い主を探りたいという思いがそれを上回ったのである。周囲の通行人からは、彼の奇行に訝しみの視線が向けられ、中には急いでその場を立ち去るものもいた。
しかし、その立ち去ろうとする人間の中の一人に、まぎれもない”飼い主”である証拠がついているのを彼は見逃さなかった。その肥満体系の男の背中には、茶色い斑点が、先ほどのメスゴキブリが産み付けたに違いないであろう卵が付いていたのである。カズキは急いでその男を追いかけると、肩を叩いて薄気味悪く笑いながら、小声で話しかけた。
「せ、背中にチョコレートついてますよ」
振り返った男は当然ながら高野タケル、その人である。この時、カズキにとってタケルは見知らぬ男であったが、タケルにとってのカズキはそうでなかった。
「この声は」
その聞き覚えのある不快な声に振り返ったタケルは、カズキの顔を見るや否や、殴り飛ばした。軽いカズキ吹き飛ばされ、道路の縁石に頭を打ち出血する。周囲の人間はカズキのひどい不審ぶりから目を背けており、関わってこようとする者はいなかった。
「な、何でいきなり殴ってくるんだよ」
「覚えていないのか。私の顔を。お前のカエルに商品を食い殺された昆虫ショップの店長だ」
「なんだと。お前があの時の店長か」
カズキは、未熟なブリーダーであった頃に、カエルを脱走させたことがある。その異常な生命力を誇るカエルによって、タケルが育て上げた虫たちは皆殺しにされたのだ。損害は莫大で、その責任を負うことになったタケルは、現在の落ちぶれた生活に身を落としたのだ。
「あのせいで俺は社会的地位を失った。忘れていたよ、私がゴキブリを飼育し始めたのは、復讐するため。やっとの思いで見つけた貴様は、さらなるカエルを仕上げていた。俺はゴキブリという最低最悪な害虫で、貴様を葬るために研鑽を積んでいたのさ」
「クソ野郎、気がくるってやがる。カエルに食い殺されたのは、虫の管理が悪かったてめえのせいだろうが」
「黙れ。もう遅いんだよ。卵は既に孵化し始める――貴様の口の中で」
「なんだとっ」
気づくと、カズキの口の中を、ゴキブリが這いまわっていた。タケルは殴った際に、口の中へと卵を放り込んでいたのだ。ゴキブリを吐きださなければ、とパニックに陥ったカズキは、手に持っていた移動用の虫かごを落としてしまう。
「ほう、こいつが貴様のカエルか」
「しまった」
カエルはカズキの口から溢れるゴキブリに飛びつき、その口内へと侵入していく。圧倒的すぎる不快感により、カズキは失神してしまった。
「自分で育てたカエルを喉に詰まらせて死ね」
放っておけば窒息して死ぬだろうカズキに、とどめを刺すべく首を捻って追い打ちをかけたタケルは、その場でゴキブリの成虫に腹を食い破られて絶命した。
***
一か月後。
「また口座に振り込まれてない」
大家はマスターキーを片手に、タケルの部屋へと向かった。
「キャー、なにこれ」
タケルの部屋は奇妙な柵が目立つものの物が少なく、閑散としていた。ただ一つ異様だったのは、おびただしい量の虫の糞のようなものが散乱していたことだけだった。だが当の虫は見当たらず、どこかの隙間から逃げ出したのかもしれなかった。
タケルは行方不明ということで、退去手続きは自動的に行われたが、滞納された家賃及び清掃費用については泣き寝入りだった。しかし、まともに考えれば、もともといつ逃げ出してもおかしくなさそうな人だった、と大家はそう思い直した。大家は金のために多少問題のある人物も受け入れていたが、見直そうと心に誓った。
数か月後、奇妙にも恐ろしいニュースが世間を駆け巡った。知能を発達させたゴキブリとカエルの軍団が大量発生し、人間を襲い始めたのだ。生物学者ですらこれらの生物が短い期間にどのようにしてここまでの進化を遂げたのか解き明かすことはできなかった。二つの勢力は互いに争いながらも人間相手には結託して襲いかかり、後には骨も残らない。瞬く間にこれらが地球を覆い尽くし、人類は絶滅した。
二種族の争いは今も続いている――かつての主の記憶を保ちながら。