城田さん
改めて夜見が言った。
「それでは、何方から始めて頂けますか?」
ロマンスグレーのおじさんが、軽く手を挙げ穏やかに言った。
「私が年長者の様なので、私から始めても構いませんか? 若い頃は自己紹介は緊張するものです。私くらいの年齢になりますと、それなりに場数をこなしてますので」
「成る程、確かにそうですね。ではお願いします」
おじさんは、そっと軽く礼をした。
おじさんは、城田さんと名乗った。都市部のターミナル駅近くのシティホテル(大きさ的には、都内の有名ホテルを思い浮かべて欲しい、と言った)で働いていたらしい。
若い頃に一度結婚し夫婦仲は良かったのだが子供に恵まれず、仕事が忙しくなって奥さんとの気持ちにすれ違いを生じ、その結果別れてしまったと語った。
とはいえお互いを思いあった円満な離婚で、それまでの生活に感謝の気持ちを伝え合って別れたそうだ。
数年後共通の知人から、奥さんは再婚して幸せに暮らしていることを聞いて心から良かったと思えたらしい。
おじさんは再婚はしなかった。仕事に邁進した、との事だ。仕事仲間は気の良い人達に囲まれ、たまに無茶を言うお客さんが来ることも合ったが、誠意を込めた接客を心がけたところ気に入られリピーターになって貰えた等、やりがいのある良い職場だったと話した。
つい最近定年退職したばかりだったらしい。が、早朝、独り暮らしの部屋で激しい胸の痛みを感じ……。
気付いたときには暗い川のほとりにいた、という話だった。
「退職したときはやっと肩の荷が降りた、と思ったのですが。まぁ趣味らしい趣味も無かったのでね、これから何をしようとも思っていました。……寂しい話ですが、丁度良いタイミングで今生からの旅立ちが出来た、と思っております」
城田さんは頬を擦りながら話を続ける。
「それで、ですね。仕事で、研修や出張で国内外のホテルや観光地に行かさせて頂いたのものですから、[心の悔いを無くす旅]と言われましても何も思い浮かばないのですよ」
「そうですか」
夜見が相づちを打つ。
「オッサン、時間を遡れるんだぜ。こんなチャンス二度と無いだろ、もったいねぇよ」
ヤンキーなお兄さんが口をはさんだ。城田さんは腕を組み空を見つめ、「そうですね」と言った。
「私は田舎の出身でして、……山の近くの小さな村だったのですが」
何かを思い出しているのだろう。城田さんは目を閉じ小さく息を吐く。
「あるとき、近所に大きな工場が出来まして。そうすると当然人が増え、大きな道路が出来たり、団地や学校や商店街に病院と。整備されて便利にはなったのですけれど……。父から兄に代を替わる頃には自宅も家の周りも、何もかもがすっかり変わってしまったのです」
そう語る城田さんはなんだか寂しそうに見えた。
城田さんが夜見の方に向き直った。
「あの、子供の頃に住んでいた家に行く事は出来ますか? もし可能であれば、もう一度あの景色を見てみたい。空気を感じてみたい。そう思います。それが私の一番したい旅です」
夜見は無言でタブレットを取り出し、その上に手を当てた。画面が暖かな黄緑色に光った。すると、
「うわっ、すげぇっ」
ヤンキーなお兄さんが興奮した声を出した。その声に僕も顔を上げ、驚いて息を飲んだ。
窓枠の無い窓の外の景色が様変わりしていたのだ。
空は深く澄みきった青空。遠くの山には緑が生い茂る。手前には黄緑色の田園が広がっている。空の青さと山の緑と田畑の黄緑が、目の中に飛び込んで来るかの様な迫力を感じた。
虫の羽音や、都会とは違う種類の鳥の鳴き声がする。風が吹いているのか、葉の一枚一枚、木の一枝一枝がまるで、「おいで、おいで」と言ってるかの様に優しく波打つ。
「ここが、城田さんの古里ですか?」
僕の口が勝手にささやいた。声がちょっと震えちゃったかもしれない。それくらい景色に圧倒していたのだ。
「そ、うです。そうです。山の近くに家があるでしょ。あれ、オレの家だよ!」
声と言葉の変化に驚いて城田さんの方を見ると、そこにはやんちゃそうな少年がいた。
「おじいちゃんとおばあちゃんが呼んでる! お父ちゃんとお母ちゃんもいる! オレ、行かなきゃ」
「城田さん、」
と、夜見が呼び止める。駆け出そうとした城田少年及び僕達も、夜見の方を振り返る。
「良い旅を」
夜見は頭を下げた。
「ありがとう」
城田少年は、はにかんだ笑顔でそう言うと、今度こそ光の満ちた世界へ駆け出して行った。