第005話 小さな反抗 * レイモンド村〈ミネア〉
ミネア目線。
春の日差しが暖かかった。窓の近くに据えられた椅子に腰をかけてカーテンも閉めずに外を眺めた。
揺らめくそれの合間から元気に走り回る子供の声を聞きつつも、遥か遠くの薄っすら色づく山の峰に視線を定めた。
もう踏むことなどない彼の地に思いを馳せるのは、何年振りだろう。
数年前とは全く違う気持ちで向かい合っている。
別の物語が始まった、と言う言い方がいいのかもしれない。
彼の地に続く情景に、わたしの姿などはない。
こぼれそうな笑顔で隣国の門をくぐり、めいっぱい手を振るリュカ。隣には無愛想な男ロクシアがいて、その先を進めて歩く。
リュカはロクシアの後を追いかけて走ったが、もう一度振り返って大声でこう言うのだ。
『ミネア!ありがとう!』
自分はそれに応えて、大きく手を振って返す。
そんな想像をするだけで、心がいっぱいになり微笑まずにはいられなかった。
リュカと出会って数年だとは思えないくらいの思い出が出来た。余韻に浸りながら、この数年は短いようで長い気がした。
そう、年をとるに従って季節の移り変わりも早く、息子、ジョイの父親のハミエルが生まれたのもつい最近の事かと思うくらいだった。
ハミエルがリーアと結婚してからは特に、何にも追われることがない生活をしていたため、いつどんな形で人生の終わりを迎えるか、関心事と言えばその程度のものとなっていた。
リーアは村の中でも名家の娘で、見た目や体裁を重んじる性格であったため、嫁としての勤めを果たすことに強い拘りを持っていた。
わたしにとってもそれは有難いことで、気弱で少しだらしないところのあるハミエルにとってもこれ以上無い妻と言えた。
だが、人間とは我侭なものでこの自由でのんびりした日常も、裏返せば単調で色褪せたものにしか映らなくなる。
年をとる度に人間関係が希薄になり、会合などに参加することも徐々に減っていった。
そもそもわたしはこの村の出身ではなく、この年になっても他人の話についていけないこともあったため、余計に会合から足が遠のいたのかもしれない。
別に自身の過去を振り返って悲しみに浸るような性格でも無いし、逆に色々な趣味を持って楽しげに暮らす方でもない。
この幸せな毎日に不満があるわけではないのだ。
ただ、「単調」と感じることすら勿体ないと感じながらも、正直なところ、何とも言えない虚無感は払拭出来ずにいた。
このまま老いて人知れず死ぬ事は自然の摂理で受け入れることが出来るが、
今まで妻として母として、女としての役割を十分果たし、毎日家族のために没頭した日々を過ごしたが、忘れられないことは一つだけあった。
それはある裏切りを懺悔する気持ちだ。
そして、あの近くて遠い、隣国側に聳えるあの山の移り変わりを見ながら、彼の地を踏むことすら叶わず、この命が燃え尽きていくのは心惜しい気がした。
この村で今や誰も知るものはいないが、わたしは小国エシュルグレ出身の、上流階級では名の知れた踊り子だった。
街から街へと旅をする生活で故郷など懐かしいと思ったことはないのだが、彼の地だけは忘れることが出来なかった。
昔ほどの強い思いで切望している訳ではない。
その点では年を取るのも悪くないと思えたが、まだ目を閉じるとかつての思いがチリチリと胸の焼けたところを傷めつけ、いつまで経ってもこの想いは消えないということを悟った。
彼の地はそこにあるのに、この身が滅びたその後にしか辿りつけない。
虚しいような何とも言えない思いに囚われ始めると、いつも窓を閉め、視界から色あせた過去の景色を遠ざけた。
リュカが来る前、何の予兆か、日々の生活で思い出すことも少なくなったが、若い日の刺激的な毎日が頭を掠めた。
何年も思い返さなかった、あの時愛した人も、今は何を思い、どう過ごしているのだろうか、と。
「人種」の壁に苛まれた大雨だったあの日。
「国」という壁で隔たれたその後。
そして今は「時間」という壁が迫っている。
多分、あの時決断した答えも間違いではない。
この村で過ごした平穏で長い時間と、温かい家族に囲まれている、今がその答えの一つだとも言えるから。
そんなある日、単調な日常を一変させた出会いがあった。それは流れ者のリュカとロクシアとの出会いだ。
村人ではないと一目で分かる綺麗な青い瞳の子供に、軍人のような鋭い瞳の男。卑しいはずのこの子供は、立派に文字を読み、男はどこか高貴な印象を受けた。異様な二人連れだった。
理由は分からなかったが、男は如何にも無口そうな口でポツポツと語った。『この子を連れて、隣国エーベルハルトへ行く』と。
この情勢上、隣国への渡航など許されるはずが無いことは男も十分理解しているようだったが、王都の辺りから旅をしながら目指して歩いて来たと言うではないか。
その話からしても単なる冷やかしでないのは明白だった。
どこか冷ややかな目は嫌いな軍人そのものだったが、奥底にはもっと深い、信念のようなものが宿っているかに思えた。
子を守る親のようだとも思えたが、隣国に行くという強い意思がそう見せてるのかも知れないとも取れた。
わたしはどちらにも共感できた。
子を思う親の気持ちは当然理解出来る、そして、自分に何の足枷も無かったなら、何より若ければわたし自身もそうしたかった。
本当は、彼の地を目指して、もう一度、あの人に会って、あの日のことを懺悔したかった……。
あの地に置き忘れた若い日の面影を辿ってみたかった。
死を目前にしたこの年で、エーベルハルトと言う国を結んで生まれたこの出会い自体、妙な因果に思えた。
迷った末に、当然村人から反感買うことは分かっていたが、流れ者の彼らに手を差し伸べた。
人生最期の反抗だと腹を括ったのだ。
この短い命、多少の我侭は許されよう。
この体ではあの壁、更にもっと先の彼の地へ行くことなどできようもないのだ、と。
色々と波乱を巻き起こし、結局は、嵐のように去って行ったリュカを思うと、何本かの選択肢がある中で、自分が引いたその一本が正しかったか、今でも分からなかった。
ただ、これだけは間違いはない。
リュカという子に出会えたことは、運命の神様に感謝しなければならない。
娘が欲しいとずっと思っていたわたしにとってリュカは唯一の娘であり孫であり、大切な我が子同然だった。
言いたいことを言い、心と心でぶつかり合える子。
そして、母親を知らないリュカも、母や祖母のように慕ってくれていたことも嬉しかった。
だからこそ、この村で安全に幸せに暮らして欲しかった。けれど、リュカには出会う前から一緒に行動していた大切な人がいた。
そう、ある日突然失踪したロクシアという軍人風の男だ。
嫉妬からではない。何故、あの可愛い女の子を男として育てあげようとしたのか、こんなに慕っているリュカを何故隣国へ行くと言いながら見捨てたのか、その男の気持ちが理解できなかったのだ。
だが、信じたかった。あの男に裏切って欲しくなかった。
素直に言うと、置き去りにした過去と、リュカが重なって見えたからかもしれない。
泣いていたリュカを夜毎宥めたあの辛い日々を思い出しては、ロクシアのことを憎んだ。
けれども、彼がどんな男であろうとリュカにとっては大切な人に違いないのだ。
リュカの思いに反してこの村に引き留めたとしても、幸せになることなどないことは分かっていた。
だから、自分を精神的にも支えてくれた、命の次に大切だったあの短剣をリュカに託した。
今日も日課のように、手元を離れた彼の短剣に手を合わせた。
どうか、リュカを守ってあげて。そして、切望していたあの国へ導いてあげて。
「婆ちゃん。入るよ」
突然ジョイが部屋に入って来た。思いに耽っていて、部屋のノックが聞こえてなかったのだ。
「おや、どうしたの」
「これ」
入り口に立ったジョイは熟した果物を籠に下げていた。
この時期に収穫出来る実を籠いっぱいに持ってきたのだが、その事実より、持っていこうと思ってくれた気持ちが嬉しかった。
「ありがと」
「いや、頼まれただけだから」
ジョイは兄弟の中でも一番ハミエルに似ていたから、それが照れ隠しだと容易に推測できた。
「嬉しいわ」
今までこの部屋にわざわざ来ることなどなかったのだが、リュカが遊びに来るようになってから、よくここに来るようになった。
渡された籠を机に置くと、ジョイもその実を摘んで立ったまま食べた。見つめる先は、この部屋からよく見える隣国の山肌だった。籠の中身に手を付け小さく笑って言った。
「そこの椅子にでもお座りなさい」
見透かされたと感じたのか少しジョイは動揺したが、素直に椅子に腰を掛けて暫くは無言で食べた。
辛抱強く待つと、暫くしてから口を開いた。
「リュカが、学校に合格したらしいんだ」
「そうなの」
感情を悟られないようにジョイに返した。
「あたなも負けてられないわね」
「そうかも。俺も、悲しいだけの物語にはしたくないしな」
「………」
どこまで理解しているのか。ジョイは小さく笑った。
「強くなるというのは、力だけではないのよ」
「あぁ。受け入れることも、強さだと思う」
すると、ジョイは精悍な顔つきで突然向き合った。
「だからさ、婆ちゃんの物語。
俺はあれから考えたんだけど、彼女は、間違ってなかったと思うよ。…俺は、そう思う」
「え?」
ジョイはニカっと笑って、心を決めたように音もなく席を立つと、扉を閉める前に小さく早口で言い残した。
「じゃ、これ置いていくから、ゆっくり食べてよ」
ゆっくり扉が閉まり、また部屋は一人だけになった。
まだ日も落ちていない光が降り注ぐ部屋から、まだはしゃぐ子供の声が聞こえてくる。
『間違ってなかったと思うよ』
心がじんわりと温かくなった。
何故かはっきりとは分からなかったが、まだわたしが存在している気がした。
この村で家族を守り必死で働いてそして老いたわたしが、まだ必要とされ、生きているのだと思えた。
年老いてから起こした小さな反乱は、そういう意味では大きな成果を果たしたと言えよう。
手元には、ずっとを支えにしてきた彼とを繋ぐあの短剣こそはないが、やっとわたしには必要がなくなったのだと思えた。
そして、心で呟いた。
わたしの人生分まで、あなたはしっかり生きなさい。
納得出来るように、しっかり生きるのです。リュカ。
涙を拭いて、ウキウキする心のままに椅子を揺らした。
次回からリュカ学校編の予定です。