第054話 宮殿脱出計画 * ハルネスヴァーレーン〈ヴィクトル〉
ヴィクトル目線。
『第049話 籠の中の鳥』の続きです。
驚くほどうまくことが運んだ。
クリューエという絵師によって目の前の床に転がされたあの木片が全ての始まりだった。
『出て行かれてはどうです?』
本で調べるとそれが何かすぐにわかった。城塞などで身分を証明する通行証明らしい。一部の職業の者が持つ貴重な札だそうだ。
絵師が置いていったものは、描かれた模様や細工から察するに、国境を越え買い付けを縦横無尽に行える大規模な商社が持つそれと同じらしかった。
何故絵師がこのようなものを持っていたのかはわからないが、これを使わなければ王都を出ることなど絶対に出来なかっただろう。
もしかして、あのクリューエという者は本当に神から遣わされた使者なのかもしれないとさえ思った。
これが通行証明と知ってからは、大忙しだった。
私は解き放たれた自由な鳥のように、型にはめられていた規則を表向き守っているように見せかけて、目的に到達するためには違反も厭わなかった。
籠を抜け出て、外を見たい。
この手で世の中の現実に触れてみたい。
それが私の原動力となって突き動かしていた。まず公務を精力的にこなしてから、毎晩寝る暇を惜しんで裏口から図書館に侵入し、公開されていない場所の本を片っ端から読み漁った。
地図、流行、街の暮らし、貨幣についてなど世俗的なものから、実用的なものまで。
それが本当に街の生活かはわからないが、本の中だけでも、私の知らない世間が目の前を踊りだしているように思えて危険を冒しているのにもかかわらず単調な生活よりも幾分か充実しているように思った。
だが、目的は、別に街の生活を知ることではない。
確かにそちらが主になりそうなくらい興味深いものだったが、現実問題、時間が限られている。
必要な情報だけに的を絞って効率的に吸収する必要があったため、最終的には本の並びと傾向を考え最近の世間の動向を得るものだけに絞った。
最新の瓦版は公式に得るため、執務室に届けるように言って公務の合間を見て毎日欠かさず目を通した。
精神的に思い悩んでいた毎日とは違い、肉体的な疲労など数時間熟睡すれば回復するようで、意外と私は頑丈に出来ていたらしかった。
定められた規則を守らずとも、いや、守って生活していた時よりも体調が良いのは何故なのか。
色々と自分の知らない一面を発見した。
旅に必要な物資は、別々の侍女から色々な物をかき集め、何故必要としているか推測されない程度に細かく依頼した。
意外にも社交的に目的をこなせたことに、自分自身の評価が変わりそうなほど人に取り入る器用な部分も持ち合わせているのかと我ながら驚いた。
誰に悟られることもなく支度を整えるまでに、さほど時間をかけなかった。
あらかじめ想定した手順を踏んで着々と計画を進行させた。
決行当日。まずは城からの脱出だ。
籠の中の鳥と評されたことを否定などしない。故に、ずっと育ってきた籠の中なら、誰よりも勝手を知っているのだ。
何気ない北塔と大聖堂の間にある、いつも日陰になっている薄暗い場所に造られた小さな噴水の水路だけは外に繋がっている。
これは単なる推測でしかなかったが、幼い日水遊びをしていた時に、フィリア様がふと冗談か言っていたことがあったのを思い出したのだ。
まさかそれを試す日が来るなど思ってもみなかったが、変な確信があった。
それを話すフィリア様はいつも以上に面白おかしく話していらしたので、ハッキリと印象に残っていたのだ。
本当にこれが嘘ならば、そこで旅は終わるはずだった。
しかし、『必ず一月後に戻る』と記した書置きを見られ、ずぶ濡れの状態で警備兵などに掴まってしまった暁には、恥ずかしすぎて目も当てられない。
本当に一月後帰ってきたとして、私の居場所があるかどうかも分からないが、クリューエが辛辣な言葉で預言者のように表現したことを思い出した。
『どこに行こうとあなたは、またここに繋がれ飼い殺される運命なのですから』
人に影響されやすいタイプなのか。彼の言葉もまた、それが真実かのような響きを持って心の中にすっと入ってくる。
王位継承権第一位のポジションを他に据え置ける適当な人物を見繕えるならそれでいい。
ただ、そうすることで権力の均衡が崩れ、利権が揺らぐ者が多くいるため、是が非でも私を捕らえに来るだろう。それが一番、無駄な体力を使うことなく皆が納得できる方法ということだ。それをクリューエはわかっているのだと思う。
誰もその場にいないことを見計らうと、意を決して水路を服のまま渡った。息を止め荷物を力強く抱えて、重くなる衣服で力強く泳ぎぎった。
引き返すくらいならどうにでもなれ!という気分だった。
すぐに街に出るなど、まさか、そんな生易しいものではなかった。
異臭の放つ光のない迷路のような下水路に一旦流れ出て、汚物やごみに足を取られながら側道を歩いた。どれほどの時間をそうしていただろう。
こんなところで死ぬなど考えられないと、色々な知恵を働かせて、最終的にネズミの跡を追うと光の射す通路に出ることが出来た。
考えると奇跡に近いのかもしれない。
そこは道路の脇に大きく開いた下水路だった。それが初めて見た王都だった。
眩しすぎる久しぶりの日光に、石造りの立派な街並みがそびえ立つ。想像したよりずっとお洒落で重厚な街だった。
ただ感慨にふけっている暇などない。
道からふと下を眺めて、下水路にまさか人がいるなど思いもしなかっただろう。私を偶然みつけてしまった貴族らしき者が腰を抜かすように驚いたが、奇声を上げようとする前に、反対側の道に向かって下水路から這い出て、そのまま全速力で駆けて行った。
今騒ぎを起こすわけにはいかない。
私のおぞましい恰好に、すれ違う誰もが目を見張り注目し、声を発するものまでいた。汚物と泥に塗れた状態なのだ。あたりまえの反応だろう。
だが、まさかこれがこの国の王子だとは思わんだろうと内心笑いが込み上げてきた。
急いで、調べた通りの看板を見つけ、持っていた宝石を質屋で即座に換金すると、その辺の露店であえて質素な服を選んで購入し着替えた。
脱いだ服をどうしようか考えていたら、いつも侍女がしていたような『洗濯』が出来ないかと思いつき、居住地区へ向かうと、たまたまそれらしいことをしている女性がいたのでしばらくそれを眺めた。
共同の水汲み場に、腰の高さまでの石造りの机のようなものが置いてあり、そこに服を置き、擦り合わせて水を掛け流しながら洗う手順となっているようだ。
幼子を背負った女性に「ここを使用してもよいか」と尋ねると、驚いたような顔をされて目を見開いたが、すぐに「貸してみなさい」と言われ汚れた衣服を丁寧に洗ってくれた。
後から来た女性達も珍しそうに私を見て、家からお菓子のようなものを持ってきて分け与えてくれた。
あまりここに旅人が立ち寄ることはないらしい。いい天気なので、服が乾くまでお茶でも飲んでいきなさいよと一人に言われると、すぐに何人もの女性が木陰に集まってきた。
大層上等な服をあんなドロドロに汚してしまったんだねと言われたので、私は異国から来た商人で夢中になって見聞している最中に、足を滑らせ下水路にはまってしまったのだと我ながら笑いを誘うような言い訳をすると、女性達は大袈裟な程笑い出したので、面白みがないと評される自分だったがこの件で少し自信を持つことが出来た。
やはり城内での侍女と同じく、女性は一様に話好きなのか。単純な私に対する興味からくる詮索は、社交場でいつも使う決まり文句でさらっと交わすことが出来たので、逆に国への批判や街の実情、治安や物価について色々な興味深い話を色々と引き出すことが出来た。
しかも彼女たちは聞いてもいないことまで、楽しげに話をしてくれる。旦那の稼ぎや、最近近所で起こった面白い痴話げんかの話などなど。
一生聞いていても飽きないかもしれないと思えるほど、彼女たちは皆話し上手だった。
これなら定期的に余興として呼ぶ講釈師よりも、面白いではないかと思ったほどだ。
ただ、時間も限られている。服が乾いたことを確認すると鞄に入れようとしたとき、女性は慌てて服をとりあげてキッチリと折りたたんでくれた。
いい服をそんなぞんざいに扱う物じゃないよと言って。あぁ、なるほど。服のたたみ方も初めて覚えた。
居住地区から手を振って女達と別れて、王都から抜けるまでに調達しておきたい馬と日持ちのする食料と水を揃えるため奔走してから、馬をつなげても安そうな宿屋を選んで宿泊した。
衛生状態はあまり良いとは思わない。それに壁も薄く隣の声が丸聞こえの状態で、無粋にもそこに神経がいってしまいがちだったので、あえて窓を開け放つと、夜中にもかかわらず何かとうるさかった。
これが街なのか。
宮殿ではこの時間になると木々が薙ぐ音くらいしか聞こえない。
暫くそうして夜風に当たりながら、夜の景色を眺めていた。
夜も更けているのにもかかわらず、飲んだくれて喧嘩を始めている輩も見かけた。呼び込みをしている女たちも見かけた。
私が知らないところで動く日常が、今目の前にあった。
籠の中の鳥。
そうだ。本当に何も知らなかった。街の匂いも、ごった返した建物の隙間から見える夜空も、遅くまでうるさい喧噪も。
これが我が国、ハルネスヴァーレーンの王都。
とりあえず、蝋燭を灯し、水を飲みながら明日向かうべき街を地図で確認する。
それほど大きくない街だが、ここは色々な街へ通じており利便性が高い。
乗馬の腕前は、我ながらいいと思っているから恐らく朝早く駆けて夕方頃には到着するだろう。
木片を確認して、段取りを頭の中でシミュレーションする。
ここまで来たのだ。一番厳しいとされる王都の城塞突破をしくじることは出来ない。
本当にこの木片で大丈夫なのだろうかと不安になったが、クリューエの美しい顔を浮かべると何故か行ける気がした。
何の根拠もないのだが。
そして、翌朝早朝、段取通り軽快に嘘を並べて、尋問にもスムーズに答えることができた。
何度も頭で応酬を繰り返したのだ、私は出来る『商人』になりきっていた。
単独で行動することや、服装もそれらしくないことなど色々と不審点をつつかれたが、私は平然とした顔で『こういうケースをご存じないだけでは?』と伝えた。
この世の全てを知っている人間などいるまい。私が小さな宮殿という世間しか知らなかったように。
すると、納得のいかない顔でも通してくれたので、通行税に添えて、手数を掛けた詫びに小銭を渡すと機嫌よく「悪かったな」と返した。
宮殿よりあっさりとして単純で物分りもいい。
馬具を乗せ、馬にまたがり次の目的地の街を目指した。
そう、旅は始まったばかり。
順調に王都を抜けて、
まさか、その地で彼と出くわすとは思ってもみなかったが。




