第046話 孤独な音色 * ハルネスヴァーレーン〈ジル〉
ジル目線。
―――― ハルネスヴァーレーン宮殿内。とある屋敷にて。
鬼気迫る。というのは圧倒的な波動のような感情をぶつけてくる様を言うのだろう。
浸食する闇を追い払うように荒々しく、高揚する想いに時折歯を食いしばり、乱れる体は若きあの頃と変わらない。
一心不乱に奏でるその激情のような音色と一体化して、私の知らないところまで行ってしまわれるのではないかという想いに駆られる。
狂気の沙汰かと思うほど荒れ狂う、これほど想いを込めて鍵盤を弾くシェーンシュテット閣下を見たのはいつぶりだろう。
何かが始まる。始めようとしている。この音色を聴けば一目瞭然だ。
目を閉じて、閣下の心情を探す。たまにかすかに撫でる高音に本心があるのか、怒涛のように波打つ低音が閣下の決断なのか。
本当に閣下をお支えすることが出来ているのか。演奏としては素晴らしい。だが、この音色の裏側に私は見なくていい不安を感じてしまう。
一人で抱え込み、音にぶつけるしか出来ない閣下は、哀れで見ていられない。
この閣下の私的で閉鎖的な空間に出入り出来るのは、今や私のみだ。
閣下が一介の貴族だったなら音楽家になって、この空間、いやもっと大きな舞台で大勢の拍手喝さいを浴びていたはずだろう。
微妙な感情が耳を通じて情景として目の前に表せるくらい、繊細にかつ大胆に、描ききる奏者など閣下以外、私は知らない。
長年付き従い、この自分だけに許された特等席はとても光栄なことだが、『自分だけ』という勿体なさに何とも言えない虚しさを感じる時がある。
しばらくして、最後の一音を撫でるように弾き終えた。
私はいつものように一人拍手をする。反響するこの空間でも、やはり一人の拍手でしかない。
「始められるのですね」
閣下はこちらを向かず、演奏の余韻に浸るようにただ鍵盤を見下ろした。
「ジル」
「はい」
「もし、わしの立場が悪くなるような状況となれば、振り返るでないぞ。
お前は変な忠誠心があるからな。そういう時は潔くわしの元を去るのだ。わかったな」
「何を仰います。閣下」
弱気な発言などあまりされないが、かなり心を乱されているようだ。
「…変な話をした」
ふと微笑むとこちらを見た。
「そうそう、お前の末の息子も噂の士官学校に行ったそうだな」
突然何を言い出すのかと思ったが先程までとは打って変わって、私の前だけの、いつもの寛いだ笑顔に安心した。
「そのようです。会うこともままなりませんのでどのようにしているのかも噂で聞く程度で、何を考えているのかさえさっぱりわかりません。
最近は親に盾つくような態度が目につき、腹立たしい限りです」
それは本音だ。
何かと世間の噂ではもてはやされているようだが、あやつは無口で何を考えているのかさっぱりわからん。
上の兄達は全うに育ったのに、あの子だけはどこか親を馬鹿にした態度を取っているように思える。
他の学校を一切受験せず、反対した学校のみに絞って勝手に受けたかと思うと、四六時中家にいることのない私以外の賛同を得て通うようになり、学校では下賤な平民とつるんでいると聞く。
自らの意志を通すための狡猾さは持ち合わせているところが実に腹立たしい。
それに、最近もあったな。軍事パレードの選考会には当然残っているようだが、先日の外出許可日にこちらから召集をかけたのにもかかわらず、分家の仕事を『急用』と称して手伝いに行き、結局こちらには一切顔を出さなかった。
確かにルフランは重要な拠点の一つでもあるため、結果的に分家からは『自分の息子に彼を欲しい』など最上級の褒め言葉を駆使した手紙と、更に相応のお気持ちが使者を通じて強引に手渡されたが、家督である私の命令に反するような態度が全く気に食わない。
あんな息子などくれてやると言いたいところだが。
「問題が多いほど可愛く思えるものよ」
「可愛いなど…一切ありません。今度会った時にでもあの仏頂面を叩きのめしてやりたいくらいです」
「ハハハ!羨ましい、実に羨ましい!」
散々笑うと、一呼吸おいて閣下は目を細めて唐突に声を落としてつぶやいた。
「……わしは、間違っておるか?」
揺らぐ瞳に、自ずとにじみ出る疲労と年齢を感じた。
私は肯定するしかない。
「いいえ。たとえ間違っていたとしてもお供致します、最期まで」
すると、また鍵盤に向かい、弾き始めた。
心を整理するように、音階を確かめるような弾き方だった。
顔を見上げると、一際大きく掲げられた絵画が圧倒する。
採光に長けた建物の造りで、硝子から取り入られた降り注ぐ自然光がその絵に躍動感を与えており、この空間を支配しているようにさえ感じる。
何を模して描かれたのか、芸術に疎い私には一切理解できない。
あの正体が何であれ。
無駄なことは考えまい。ただこの美しい音色に耳を傾けよう。
何も考えず、ただ寄り添い突き進むのみ。
閣下の本心など、探しても無意味だ。あの激情の裏側を垣間見るなど、恐れ多いのだ。
知るべき時になるまでは、誰もおいそれとこじ開けることなどできない。
閣下自身も、本心はつかめているかもわからない。
世界は、黒と白だけでは描けないことは知っている。
あの絵画のような、混沌とした配色が紡ぎだした賜物であろう。
私が世界に色を加えることはない。
閣下にとって、私はあの絵画を淡く照らす光のような存在でありたいと思う。




