第040話 雨音 * ハルネスヴァーレーン〈ヴィクトル〉
ヴィクトル目線。
しとしとと長く小雨が振り続けていた。
私は一人机に向かって具合の悪い父上の代行をしていた。誰もいない方が落ち着くのは、誰の顔色をうかがうこともないからだ。
小さい案件を一つ一つ確認するという私の仕事のスタンスに『要領が悪い』などと陰口を叩かれているようだが、せめてその責務だけでも全うし、簡単に投げ出すことだけはしたくなかった。
それが深夜にまでわたって長く机に向かわざるを得ない理由でもあるのだが、この僅かばかりの抵抗だけが自分に残された最後の意地でもあった。
一つの小型案件用の書類に目を通すと、気になる文言が書かれていた。
≪基地建設の入札について≫
添付書類を見返すと設計図や周辺の環境等詳細に書かれているが、素人の私が見てもこれは護るための要塞ではないことが伺える。
攻め入るための拠点。
何が『攻め入られんとも』、だ。
しばらく繰るだけで戦争を見越した投資は数多く発見できた。
時代は変わろうとしているのか。
皆戦いを好むのは、懐を肥やすものがいるからだ。
父は貪欲に覇道を突き進むような人ではなかった。領土を広げて権威を誇示するなど馬鹿げている。
誰かが懐柔して、哀れにもそうなられてしまわれたのだと、今はそう信じるしかない。ただ、そうあってほしいという願望でしかないが。
書類の隅にはこう書かれている。
『入札は適正に行われており、必要性は別紙にて承認済み』
まるでお前の感情など入れる余地などないと、言われているようだ。
筆を取って書き捨てるようにサインをした。
たまに思う。
この席に座らせておくのは、サインをする人形でいいのではないかと。
私の存在は、紙の上での事実を把握して、ただ受け入れるだけ。
実体のない傍観者だ。
……事を動かすのなど、簡単なことだな。
紙切れ一枚で国は動くのだから。
世界は自分に関係のないところで動いているような、そんな気さえする。
いつもより小雨の音がよく聞こえる。耳を通して頭の中で反響しているようだ。
私は頭を抱えて机に伏して昔の事を思い出した。
レヴィストロースは、よく幼い私に難しい話をしてくれた。
一番印象に残ったのは、対戦に勝利した英雄が放ったとは思えない意外な言葉だった。
『戦いなどするものではない』
私は何故かと訊ねたが、複雑な顔を向けられただけで答えてはもらえなかった。
それに、その言葉は彼女もよく口にした。
もう、肖像画の上でしかお会いすることのない、私の尊敬する母上。
フィリア様……。
あなたが私の立場なら、どうするのか。
私はどうすればいいのか。
扉をノックする音が聞こえたので、姿勢を正して再度筆を持ち直した。
「どうぞ」
応えると、入ってきたのは驚くべきことに父上だったため、急いで駆け寄った。
「へ、陛下。一体どうされました?」
「いや、何となくお前に任せているのが悪いと思ってな」
顔色が相当悪い。会議に出席する時は決まって化粧をしているとさえ聞く。
「仕事はお任せください。大丈夫です。父上はお休みになっていてください」
すぐさま侍女に椅子と飲み物を用意させ、暫く無言のまま私は仕事を継続させた。
随分長い時間、そうしていたので無言の父上が隣にいることすら忘れかけていた。
見ると、父上は無言でこちらを見ていた。
表情はすぐれないが、落ち着いた様子だ。
「ご心配なのはわかりますが、そろそろ寝室にお戻りになった方が」
椅子に深く腰掛ける父上は、私の顔を見て力なく笑った。
「心配な……。そう言えば、私が欠席中の軍事会議で強硬派の意見を保留にしたそうだな」
ハッとして目を見た。
当然だ。どのように伝えられたかは知る由もないが、大筋は合っている。
いつかは直接伝えなければならないと思っていたのだ。
「…勝手な判断を、申し訳御座いません……!ですが」
意に沿わないのはわかっている。ただ、私は本当に父上が戦いを望んでいるのか、それが不思議だったからだ。
遠い目をして、父上は意外なことを言った。
「……お前は、強いな……」
「え?」
雨音が一層激しくなった。
それは二人だけの会話を守るように、それ以外のすべての雑音を消し去るかのようだった。
昼間でも暗いこの空間に、浮かぶ父上の顔は亡霊のように見えた。
目には何の光もない。
あの時の、絶望的な表情と同じだった。
「父上……」
「私は、弱い」
私の前で、こんなにも脆くて悲しげな瞳をする彼は、本当に父上なのかとさえ思った。
その気持ちを読み取ったのか、嘲るような表情で私に言った。
「ヴィクトル。私が惨めか?そうだろう。
だが、これが私だ。
王位に就き、色々な物を手中に収めることが出来る。
なのに、私には、何一つない。
もう、何もないのだ。
ただ、一つ。ただ一つしか要らないのに」
一つ?
それを何かと訊くことが出来なかった。
あまりにも悲痛で、掛ける言葉が見当たらなかったからだ。
そう言い残して、静かに部屋から去られた。
何の用事だったのか、結局わからずじまいであった。
ただ、それから、具合が悪くなったのか、父上にお会いする回数は極端に減った。
次の話は『第033話 少年の軌跡』の旅の続きにあたります。
次回レイの正体が明らかになる予定。




