第038話 深夜のこと * 女官学校〈メイリン〉
メイリン目線。前半は10話の件についての回想です。
深夜は、無駄な思考がよく働く。
気怠い体を起こして、あたしはまたあの言葉を思い返した。
『そうだな。全くだ。ありえない。
両親もいない、故郷もない、誰もいない。お前にとってはありえないことだろう』
少年リュカの瞳は、紛れもなくあたしに突き付けられたものだった。
あの真っ直ぐな瞳が、断罪するように、あの日からずっと心を捉えて離さなかった。
あたし自身がクズ人間と思っていた人間に成り下がっていたからだ。
かつてのあたしが、今の自分を見つめているような錯覚に陥って、『お前が言うのか』と言い捨てられたようにさえ思えた。
謝っても、リュカに許してもらえないかもしれない。
いや、多分許されない。
汚れきってしまったあたしには、もうあんな綺麗な瞳を取り戻すことは出来ない。
でも、『今』を否定するつもりはない。
そうでしょ?この世の中で生き抜くためには綺麗ごとだけでは済まされないもの。
世間を知れば知るほど、色々なあきらめや裏を読むようにもなって、権謀術数など当たり前。泳ぎ切るのに必要な道具がどれほど醜く汚くても、自分で揃え、何食わぬ顔で装備した。
それが、もう今のあたしを形成している。
命さえあれば、出来ないことなどないと思える強さを、それと引き換えに得たのだから。
けれど、それは絶対に、彼を否定する理由にはならない。
『誰もいない。ずっと、一人だ』
不敵に笑った彼は、泣いているようにさえ見えた。
全てを奪い取られた、あの日のあたしみたいに。
泣いても返ってこない日常に呆けることしかできなかったあの無力な日々のあたしみたいに。
思い出したくもない、つらい過去が一瞬よみがえって必死に消した。
あの時のリュカにとったあたしの態度は、あの時自分を嘲り蔑んだ他人達と同じだったと気付いた。
屈辱の記憶は忘れていない。
それなのに、あたしは彼を知らずに、貶めていたのだ。
リュカは、本当に舞踏会で会ってくれるかしら。
そんなことをふと考えて寝台を抜け出た。
暗闇の中、手探りで衣服を整え乱れた髪を直し、窓枠に足をかけた。
「センセ、じゃあまたね」
返答はない。男って気楽なものね。行為に耽って眠りについた教官の部屋を抜け出た。
今から湯あみをして就寝。時間はほとんどない。
こんな調子だと、肌のつやもなくなってきちゃうけど、それも仕方ないか。
「メイリン?帰ってきたの?」
同室のキリエが声を掛けてきた。
「ごめん、おこしちゃった?」
「ううん。起きてたよ。早く寝な」
「湯、まだ残ってる?」
暗がりの中ごそごそと下着と簡単な服を物色しつつ聞いた。
「え?今からぁ?もう水になってるよ」
「いいの。じゃ、ちょっと浴びてくるわ」
「マジ?風邪ひくよ?」
キリエはあまり干渉しないし、物事に動じないから好きだ。それにその辺の男ばっか追いかけてるバカ女達とは違うから。
本気で傭兵になろうとして鍛えている。そんな女など、この学校に数えるほどしかいない。希少な人種だ。
あたしには彼女は誰よりも美しく、誇り高く見える。
逆に、キリエはあたしみたいな女が最も嫌いなタイプなんだろうけど、顔に出されることはない。
両手に甕を持って離れの浴場へ向かった。
本当に冷めた湯を全身に被ると、寒いが心地いい。
まだねっとりしたあの粘液が体の中にまとわりついているのかと思うとぞっとする。
すると、こんな時間に誰もいるはずがないのに、人の気配がした。
「だれ?」
一応警戒して声を掛けると、外から声がした。
「やっとメイリンちゃん帰ってきた」
シュライゼ?
こんな時間に何の用なのかしら。
そのまま入浴しながら外に声を掛けた。
「覗かないでよ」
「そんなこと言われると覗きたくなるのが男の習性なんだけど?」
「馬鹿」
「冗談はさておき」
本題があるのだろう。こんな時間にしかも建物内に侵入するなんてとんだ手練れか、身の程知らずだ。
危険を冒してまで来る理由がないとおかしい。
「突然のご報告。俺、色々しくって、退学なんだわ」
「ええ?!」
とんでもないことを言い出す。
「マジマジ。だから、ごめんな」
「ごめんじゃないわよ!!」
私は慌てて服を引っ手繰って羽織り、すぐさま外に走って行った。
彼は暗がりの中に佇んでいた。
シュライゼは着のみ着のままここに向かったのだろう。その辺擦り切れて脇腹からは血がにじんでいる痛々しい恰好ではあるが、そんなことには構ってられない。
「あんた、あたしを見捨てるっていうの?」
「…靴くらい履けよ…」
「そんなことどうだっていいわ!一緒に戦うって言ったのウソなの?!」
「うっせーな。ウソじゃないけど」
「……なら、なんでそんなヘマなんかするのよ…。
あんたもっと出来る奴かと思ってたのに、買いかぶり過ぎたようね。あんなウスラバカ連中の学校でこんなにボコボコにされるだなんて。
まぁ、そんな弱っちい男なんて要ナシだけど」
「ヒドイ言いよう。だから、ごめんって言ってんじゃん。藪つついてたら中ボス出てきたって感じ??」
どこまでもおちゃらけた男に、容赦なく蹴りをお見舞いした。
「ってぇー!怪我人になにすんの!ホント、お前の足は凶器だな!」
「うるさい!これくらいの苛立ち、受け止めなさいよ。
で、……あなた、これからどうするの?」
「そうだな、今後は資金もストップするだろうから、お仕事探し?まぁちょっとした伝手を頼ろうかと…」
「はぁ…。ホント、バカね。
まぁ、あなたが離脱しようが、あたしは我が道を行くまでだけど」
「たくましいねぇ。俺そういうメイリンちゃん超好みだったのに」
「願い下げよ。あんたみたいな、本心がどこにあるか掴めない弱っちい男なんて。リュカ君の方がよっぽどいい男だわ」
「あんなガキやめとけって」
すると、すっと手を差し出してきた。
「なによ?」
「お別れだから」
手を乗せると、彼はぐいっと体を引き寄せ、優しく抱きしめてきた。
濡れた髪と背中をなでる。優しいだけで、温度のない抱擁だった。
「孤高の姫様」
全く何を言い出すのか、彼の素性がわからない。
スパイ活動が私の専門なのに、情報網から彼は外れた存在だった。
それ故に信頼が出来た。
身のこなしも、知識も、頭脳もずば抜けていて、たまに見せる冷静な瞳がかっこよかった。
多分、それはあたししか知らない顔。
彼は二面性を持っている。
「あなたの本当の名前は何?教えて頂けないの?」
耳元で軽く笑う。
「世の中に屈するほど艶が増すよね。メイリン姫は」
「腹が立つようなお上手ね。軽口はただのフェイクかしら?謎の多い金髪の男前さん」
「俺はシュライゼだよ。人を欺き、卑怯が専売特許のね」
「そうね、本当だわ。でも……」
軽く突き放して、シュライゼの目を見た。
「目の奥に居る、あなたは好みかもしれないわね。本当のシュライゼさん」
一瞬、目が揺らいだ。
時間か。
彼はニコッと笑ってトンとあたしを突き放した。
ひどく簡単に。
感傷的になることもない。彼とあたしの間には何もない。
利害関係の上で成り立っていた。ただそれだけだったのだから。
彼は振り返らず、走り去っていく。
最後の別れの挨拶も、挨拶代りに言う次の約束さえ告げなかった。
彼が本当に存在したのかと思えるほど、気配一つ残さない、そこにただ秋風がふいただけのように。
この世は一期一会。
また会える保障などない。
さようなら、シュライゼ。去った後の景色にたった一言だけを残した。
そして、シュライゼは失踪しました…。




