第030話 あの日の女 * エーベルハルト〈シュリダンテ〉
黒い男目線。
ふとよぎる、あどけなさが残る笑顔。本当に彼女は存在していたのだろうかと時折疑うことがある。
あれは本当に女神だったとか。
……はぁ、馬鹿か俺は。
漆黒の髪に宝石のような切れ長で大きな碧眼。長い睫。すっと通る鼻に薄い唇。
背丈は女子にしては高く、鍛えられたしなやかな腕と脚は見事だが、決して無骨な感じではない。均整のとれた美しさだった。
褐色の肌は日に焼けたものだろう。日頃隠された部分は陶器のように白く、彼女の過ごしてきた過酷な日々を思い起こさせた。
『……それ以上変なことを口走るな。調子が狂うから』
まだ可愛いと呼べる年だが、『女は魔物』とはよくいったものだ。
俺のものにしたいと衝動的に思わせるような色気を感じる瞬間があった。
何度手を出したいと思ったことか。抱きしめるだけで踏みとどまるなど、俺的にはあり得ない。正直、寝台で色々な葛藤をしながら、悶々と過ごした経験は未だかつてなかった。
自分で兵士と言っていたが、あの隙だらけの状態で、男の中で過ごすのは大丈夫なのだろうか。それが不安で仕方がない。
今まで何もなさそうなのが、不思議だ。誰も放っておけないだろう。
それともあの国の男は全員見る目がないのか。
思い返すたびに、自ずとため息が出る。
今はその苛立ちをぶつけるかのように、仕事に没頭する毎日である。
俺は欲しい物は必ず手に入れる。
人間として生まれた俺たちに、永遠と呼べるものは何一つないのだと幼い時から刷り込まれているからだ。
あれほど勇ましかったお爺様もお倒れになり、今や昔の面影などないほど枯れた老木のように見えるのだから、思ったよりも時間が過ぎるのは早いようだ。
これが老いるということ、そして死んでいくということなのだと、最近ひしひしと時間の重みを感じる。
だから、俺はいつも後悔したくない。
目を閉じずとも、こんなにはっきりと女の顔が浮かぶのは、思いのままに引き止めなかったあの時の俺を、俺自身が後悔しているということなのか。
こんなことになるなら、いっそ……。
「で、どうされました?」
傍らに置いた長椅子にくつろいだ様子で座るガレンが、本を閉じてこちらを見ていたことに気付いた。
「何がだ?」
穏やかな顔つきはいつものことだが、今日はいつも以上に目が笑っているように見える。
嫌味は一切ないのだが、この有無を言わせない押しにいつまで耐えれるかが問題だ。
「いえ、最近は眉間に皺ばかり寄せてましたけど、旅から帰ってからはどことなく楽しげでらっしゃるなと思って」
これがいつもの穏やかな日常だった。
日が差し込む執務室で、ガレンと二人きりでいる。笑顔を見ると本当に心が安らぐのだ。
いつまでも続くものだと思っていたのに。
今となっては久しぶりの貴重なひと時。
俺といえば、親父の代行で大きな案件こそないものの、書類に目を通しひたすら承認印を押し続けているが、逆にガレンはのんびりと久しぶりの余暇時間を満喫している最中である。
彼の事だ。いつもは必死に仕事を熟しているのだろうが、この時間だけでもそういう顔でのんびり過ごしてほしいと思う。
今や彼も軍人という道を自ら選び、こうして中央に帰還するなどほとんどない。
管轄している地域は平穏と言えない状況のため無理やり命令という書状を出さなければ、仕事熱心なガレンが戻ってくる気配すら見せないのだ。
側近として傍にいてほしかったが、彼が選び取った「生き方」に口を挟む権利などないから、たまに彼の息抜きの時間を命令している。
ただ、呼び寄せるにも情勢を見て1か月に2度くらいあればいい方だ。
結局、肩書だけの偉そうな立場を与えられていても、俺が彼に対して出来ることは限られている。
何の疑問もなく、隣にいたあの頃が懐かしい。
「お前がいるからだろ」
それも、本当のことだ。
「嬉しいリップサービスはそれくらいにして、何があったか教えてください」
ガレンは異様に鋭いところがある。
俺自身、隠し事が隠しきれない性分ではないはずだが、出会ったころから彼はそうだった。
見抜く力に長けているのか。彼には色々とばれることが多かった。
あまり素直に返答するのも腹が立つので、筆を傍らに置いて伸びをして言ってやった。
「そうだな。お前の幼馴染に会った」
ドキッとはじかれたようにこちらを見たガレンは、少し曇った顔をした。
何があったのか事情は知らないが、あまりいい別れ方をしていないようで、ずっと連絡をとりあっていないようだ。
「……何か言っていましたか?」
「いいや、お前の事は何も聞かなかった。だが、お節介かもしれんが、一応レビンにお前の近況を伝えておいた。順調に出世してるってな」
「それで?」
「そうですか、と言ってたよ」
苦い顔をしたまま、ガレンは窓の外に視線を投げた。
お互い意地の張り合いをしているのだろう。似た者同士だと俺は思うが。
その表情を見る限り、いつにまして落ち込んでいるようだ。
「そうですか」
気に留めていない風に見せるのはうまいが、全く隠しきれていない。
こうやって無駄に口角を上げて硬い笑いを見せる時は、大概無理をしている時だ。
想像通りの返しに、俺もため息をつくしかなかった。
このご時世、何時、事が起こってもおかしくない状況を考えると、こういう微妙なすれ違いは早めに解消した方がいいと思っている。
関係ない俺がやきもきしても仕方がないが、度々嗾けるように話題にするが、頑固者のガレンはレビンに言葉を残すことはない。
ガレンもそうだが、レビンも同じだ。
俺より長く付き合っているはずのガレンが、言い言葉に買い言葉なのかは知らんが、レビンの事を『理解不能』と罵っていたことがある。
あまり他人の悪口を言わないガレンだが、そこは幼馴染だから悪態もつくのだろう。
一時期、そういう彼らの関係が羨ましくもあった。
レビンについて言うと、俺には単なる軽い男にしか見えないのだが、確かにガレンもレビンも頭脳明晰で運動神経も万能と、非の打ちどころがない能力を有している。
でなければ、逆に俺と出会うことすらない人種だからだ。
優秀過ぎる者は理解しがたい一面があることを踏まえると、あんなあっけらかんとしたレビンも、俺が思う以上に複雑な感情を持っているのかもしれない。
「そんなことはどうでもいいんです」
「……」
本を置いて、ガレンは机に肘をついてニコニコとしていた。
「とっかえひっかえ病が落ち着いてるとの噂ですから、何かあったのだと思いましてね」
「プライバシーの侵害だ」
「侵害?いいじゃないですか。私のプライバシーにも、あなたは思いのほかガンガン切り込んでますよ?
あなたと立場は雲泥の差ですが、プライベートはフェアーにいきましょうよ。
で、どんな子なんです?」
どんな子。
真っ直ぐとした眼差しがもう懐かしく感じる。
「……変な女だった」
「変?」
楽しそうにガレンは椅子を引っ張ってきて話し込む気なのか、俺の隣に腰掛けてきた。
こんなことを話せる相手も口が堅い親友のガレンしかいないが、容赦のない追及にはいつも疲れるほどだ。
「貴重なあなたの誘いを断った、ということですか?」
「いや、それもそうだが、そういうことでもない。本当に変な子だった」
わざわざ危険を冒してスリから盗品を奪い、馬鹿正直にも満額持ち主に返す者など今の世の中考えられない。
それに初めは少年かと思ったが、実は男の恰好をした自称女兵士だったことにも驚きだった。
もう数年磨けばそのあたりで見かけないほどの美女になるだろう。
賭博場では皆が振り返った。いかさまを働こうとするのが常のディーラーでさえ、その本業を忘れたほどだ。
俺は今まで忘れられない女など一人もいなかった。
ただ一度も手に入らなかった女もいなかったのだ。
だからか、そうではないのか。彼女の微笑みが今でもすぐに思い出せる。
愛くるしさだけではない。周りにいるどの女よりも面白くて興味深い女だった。
見た目とは相反した発言も思慮深い言葉もそうだが、俺の想像を超えることを考えてそうなところが魅力的だった。
「嬉しそうですね。気味が悪いほど顔に感情がダダ漏れですよ。何故国に連れて帰らなかったんです?」
「いや、どうしてでも連れて帰る気だった」
どうしてでも、手に入れるはずだった。
だが、彼女だけは、そうして手に入れても何一つ掴めず、笑ってすらくれなくなると意志のある瞳が全てを語っていたからだ。
あの時は、手放さなければならなかった、と思ったのだ。
彼女の表情は時折俺よりもずっと大人に見えた。
抱きしめても、掴めない感覚さえあった。
本当の彼女がどこにあるのか。
不思議な女。
どこまでも知りたいと思わせる、彼女は一体何者なのかとさえ思った。
「フフフ……!」
堪えきれずにガレンは額を指で支えうつむいたまま笑いを堪えていた。
「おい、貴様!聞くだけ聞いて笑う奴があるか!」
「いや、失礼。あなたが、女性にふられて落ち込んでるなんて、口外したら面白い事態になりそうだなと……」
「悪趣味な野郎だな」
「本当に、あなたも人の子だ」
「当たり前だ。何とでも言ってくれ」
「自暴自棄になるところも、庶民ぽくて好きですよ。あなたをそんな男たらしめた、その子に会ってみたい。名前はなんて言うんです?」
「知らん。教えてはくれなかった」
「はい?」
俺が本気だったのに、名前まで教えてくれないなんてそれは驚くだろう。
恥ずかしながら、それも、事実だ。
思わず抱きしめた腰は細く、力を入れると折れそうに感じた。
それなのに、剣を持ち、男として戦いを選んだ。
誰か知らない、女にとって『大切な男』が、彼女にそう望んだから。
俺は許さない。
女が好きでその道を選んだとしても、俺なら絶対そんなことはさせない。
戦いなど、何も生まないからだ。
「黒い髪で意志の強そうな碧眼の女だ」
「へぇ。あなたの好みとはずいぶん違いますね」
「何が好みか俺にもわからん。ただ、あんな女は見たことない。見たことないくらい高級な女だった」
「あなたに高級と言わしめるなど、ある意味凄いですね…。愛、ですかねぇ」
「茶化すな。愛など知らん」
会えないと思うからか、ただ忘れられないだけかもしれないが、これが愛というのかはわからない。
ただ、思い返すだけで何とも言えない感情が湧き上がるのだ。
こんなことは初めてだ。
「ふふ、また会えるといいですね」
ガレンも同じように思っているだろう。切なそうな顔でこちらを見た。
「……そうだな」
また会えるなら会いたい。
ただ、絶対会えることなどないのだ。
俺に自由など、今や殆ど残されてはいない。
こんなにも後悔するのなら、あの時……。
コンコンと扉をノックする音がしたので、ガレンは素早く椅子をしまい長椅子に戻った。
「入れ」
入室を許可すると、入ってきたのは意外な人物で息を飲んだ。
「…ケイ…様」
俺の発言にガレンは目を見開き、その場にひれ伏した。
次のお話は『第031話 ケイ』
この話の続きです。




