第029話 あの日のこと * 学校〈リュカ〉
リュカ目線。
旅の詳細は日記に書くことは出来なかった。あの『非日常』が昨日の事だとは思えなかったが、間違いなく現実なのだ。
昨夜は疲労で、帰ってから何も手をつけずそのままにして眠ったが、衣装やお金が気になってしまって突然目が覚めたのだ。
すぐさま身支度を整えて、意を決して鞄を覗くと、やはり自分の持ち物と思えないような物達が光を放っている。
ベッドに腰掛けたまま鞄の中から柔らかい手触りの衣装を取り出した。広げると、よくこのような服を平然と着ていたなと今なら思うが。
あの時は、リュカではない別の誰かだったのだろう。
優しく服を畳みなおすと、色々な出来事が目の前をよぎった。
ハッキリと耳の中に残る。
『お前を連れて帰りたい。ダメか?』
全てを捨てて、あの時、首を縦に振っていたらどうなっていただろう。
ロクシアに似た、浅黒い肌に金髪。自分が隣を歩くには勿体ないような男だった。
教養、嗜み、振る舞い、社交性、人を引き付ける魅力。
ああいう、全てを持った男が世の中にいるのだ。
ロクシアと一緒に居るような絶対の安心感とは別の感情。思い返すだけで胸がざわめく。
あの腕にずっと抱きしめられていたいと思ったのは、女扱いされて顔を出した、ただの甘えか。
まだ覚えている腕の感触を忘れ去ろうとブンブンと首を横に振り、またため息をついた。
一生着ることのない服や小物を目に触れない衣装箱の奥にそっとしまい、お金は机の引き出しに隠した。
幸せとはどういう状態を指すのかわからないが、ロクシアと居た毎日はいつも幸せに感じていた。
言葉少なく褒めてくれる彼のために料理の腕を磨き、大きな掌で頑張ったと頭を撫でてもらうために剣を極めた。
彼の背は広く、いつも力強く守ってくれる唯一無二の存在だった。
彼といる以上に幸せなことなど、絶対にないと思っていた。
たかが一日。ほんの一日、一緒にいただけだった。
なのに、あの男と居たあの瞬間も、本当に幸せだと感じた。
『非日常』だったからかロクシアに似ていたからか。
もう一度会いたいと思うのは、何故だ。
あの男の笑顔を思い出すだけで切なく感じるのは、何故だ。
けれど、もう出会うことなどない。
あの男は、恐らく、普通では会うこともない立場の人間なのだから。
分かっていた。
自分とは住む世界が違う。全く別世界の人間だということは。
血なまぐさくて、泥臭い日々を彼は経験したことなどないだろう。そして、その現状を正確に知る日などこないだろう。
そんなことは、知らなくていいのだ。
剣闘場の傍で訊ねた男は、人と獣が殺し合うところを娯楽として楽しむ場所だと教えた時、とても驚いた顔をしていたが、一方で野蛮だと蔑んでいたようにも見えた。
その時、やはり遠い存在なのだと改めて気付かされた。
確かに、野蛮だ。ただ、それだけのこと。
あそこで死を迎える者の大半は、その道しかなかった。人としてさえ存在できない人間。人に飼われた奴隷。
自分には返しようのない負債を背負った者の末路。もしくは先天的な者。家系。敗戦国から強引に引き上げされた者。様々な理由があった。
自分はロクシアに黙って路銀稼ぎのために試合に出たことがある。
一度、自分がどこまでやれるか知るためでもあった。
そう、ただ、それだけのこと。
結果、当日の試合で見事優勝し、多額の報奨と賞賛を得て、長期契約を交わしたいと金持ちが多く名乗りを上げた。
それもそのはずだ。後から聞いたが前代未聞の観客動員数だったそうだ。
幼い少年が人や獣を次々に殺めるという演出が、下衆共の興味を引き出す要素としては出来過ぎたものだったらしい。
次の試合は出ないのかとしつこくついてくる出資関係者を何人か斬り捨てたほど。
あんな惨状は一度で十分だ。
あそこで見た風景は、言葉に出して言えるものではない。
そこに居合わせた大抵の奴隷は何らかの障害を持っており、同じ人間と思えないほどの風貌をしていた。
恐らく彼らの主人がそうさせて、最終的に少額のお金と引き換えにそこへ『捨てた』のだろう。
自分といえば安易な気持ちで、自分の力を試すため、困窮を極めた生活を手っ取り早く改善させたいがために参加しようとしたことが大きな間違いだったのだ。
気付いた時にはほぼ有無も言わさず契約が済まされ、引き返せなかった。
初戦の相手はまともに話が出来たことが厄介だった。
名前も知らない。片手と片足を失っていたが、正常な瞳で幼い自分に懇願してきたのだ。
『早く家族に会いたいから一思いに殺してくれ』と。
獣に食われるところを人に鑑賞されるよりマシだとも言った。
何て悪趣味だ。何て汚れきった世界なんだ。
戦うしかなかった。
戦う?いや、違うな。自分を偽る気はない。人殺しだ。
自分は、金のために人を殺したのだ。
初戦の男は、満足げに息絶えた。正当化するためにそう見えたのかもしれない。
何も考えず、戦った相手は全て、一瞬で殺した。
その多額の報奨はロクシアに渡せないと思った。血がしみ込んだ服を捨て新しい服を買った。
そして、それ以外の金でそこに残った何人かの奴隷を買い取って解放しただけだった。
そんなことをしても何の意味もないのだが、何故かそうすることでしか、自分自身が救われない思いがしたのだ。
自分のために。
『ただ生きる』ということが、どれほど尊く、どれほど希少なものなのか。
当然のように過ごす日々を、あの男は恐らく振り返ることもないだろう。
いや、考えなくてもいいのだ。
自分の手よりもしなやかなあの手に、自分の持つマメが潰れて血に塗れた汚い手は相応しくない。
自分はあんなに美しい衣装よりも、軍服か囚人服が似合っている。
ロクシア。これでよかったのだろう?
部屋をノックする音が聞こえたので、返事だけで返すとユスランが顔を出した。
「おはようございます」
「おはよう」
振り返ると教本を大量に携えていた。そうだ、今日は休暇の最終日。朝からユスランにマナーを教えてもらう予定だったのだ。
括り付けた教本を紐解きながら、ユスランは首をかしげた。
「どこか浮かない顔ですね」
やはり察しはいいが、正直なところを話せるわけもない。
「そうか?いつも通りだ」
「なら、いいんですけど。……そうですね。先に朝食済ませましょうか?」
「そうだな」
部屋を出て食堂に向かうと、いつもより人は少なかった。
隣にいる、いつも通りのユスランが安心できた。
顔の造りは冷たく見えるが温かい。全ての言葉が自分には優しく、凝り固まっている何かを溶かすようにさえ思う。
自然と笑みがこぼれたが、ユスランは応えるように微笑み返した。
それに、帰りの馬車では疲れ切った様子だったが、一晩寝たらマシになったのか顔色が戻っている。
「家の仕事大変だったんだな」
「そうでもないです。こうしてリュカや他の学生達と一緒に過ごせるのも家のお蔭ですから」
背筋を伸ばし、運ばれる食事にユスランに習った通りの順番で食器を手に取る。
「謙虚だな」
「本当の事です。だから家の命令は休暇中でも就寝中でも絶対です。それが私の宿命なんです」
軽く微笑むユスランの食べ方は美しい。シュライゼとは全く違う。
あの男みたいに華やかなものではないが、清らかで清潔感があり隙がない。
自分の視線に気づいたのか、ユスランは首をかしげた。
「どうかしましたか?」
「綺麗に食べるなと感心していたんだ」
「あなたも、初めのころは驚きましたけど、今は全く違和感ない」
ユスランに褒められるのは嬉しい。ロクシアに似た安心感だ。
食べ終わってから、ユスランは思いついたように言った。
「あぁ、それと、リュカにお土産があります」
「え?」
「昨日渡そうと思っていたのですが」
と差し出したのは、小ぶりの木箱だった。
「開けてもいいのか?」
「ええ」
開けて光沢のある布を捲ると、磨きこまれた筆が鎮座していた。珍しい青い石で出来た代物だ。
「わぁ。とても綺麗だ!」
「昨日店で見つけたときに、あなたが思い浮かんだんですよ」
「もしかして、貰ってもいいのか?」
「貰ってもいいというか、あなたに買ったのですから貰って頂けないと困ります」
早速手に持つと筆はピタッと馴染んだ。純度の低いインクを使っても書きやすそうだ。滑りのいい石で、その色は自分の目の色に似ている。
「嬉しい!ユスラン有難う」
「少し静かに……」
興奮して食堂にもかかわらず大声を出してしまった。
今日はまだ休暇で『王宮』に帰ってきていない者も大勢いるため、学生は少ないが、周りにいた侍女はクスクスと笑った。
「いつも貰ってばっかりだな。……自分も同じように外出していたのに、そこまで気が回らなかった」
「いいんですよ。あなたはいつも私に元気をくれていますから」
「……そんなものあげてるうちに入らないじゃないか。
ユスラン。これ、大切にする。
友達にお土産をもらうなんて初めてなんだ。だから、本当に嬉しくて。
絶対、大切にするから」
「はい。喜んで頂けると何よりです」
穏やかな日常。
眩しくて贅沢すぎる日常だ。
昔の自分にとっては、これも非日常の景色。
日が差し込む真っ白なテーブル。添えられた花、手の込んだ朝食。
生きるために身を呈して働く必要もない。獣に襲われる心配もない。人を殺めることもない。
そして、目の前には素晴らしい友達がいる。
それ以上、何を望むんだ。
忘れよう。あれは夢だった。
あの男も、あの時間も。
自分が成すべきことを、成すまでだ。
頑張ろう。
軍事パレードに向けて。弱さを捨てて。
「ユスラン。今日は何の講義をしてくれるのだ?」
「今日はダンスです」
「は?」
「は、じゃないですよ。必須ですから」
次のお話は『第030話 あの日の女』。
逆に黒い男目線での旅の回想です。




