第152話 杯酒 * 海辺の街ルフラン〈イヴァン〉
イヴァン(副学長)目線。
細かい刺繍の施された厚目の幕を数枚捲った先に重厚な扉があり、両脇に白手袋を嵌め、背筋を正して控えた案内係が観音開きに開け放ち、中へ通された。
たった3名の食事会にしては少し広めの部屋だ。ゆったりと備え付けられた中央のテーブルにはこの部屋の色調に合わせた金糸の施された薄緑色のテーブルクロスが掛けられ、色とりどりの実を付けた小枝がモダンに飾られている。
突き当たり全面に大きく切り取られた窓からは、季節の植物を巧く植えられた、この部屋だけの坪庭が青空の下眩しく映える。坪庭と言えど小さいものではない。
奥行きがかなり取られてあり、川と湖を見立てているのか立体的に設計されており、有名な国立公園の縮尺を眺めているような気分さえ味わえるさすが『シェルビエン』と思わせる豪華な演出だ。
簡単な挨拶は済まされ、給仕が上座にジル様を誘導し、それぞれ席に腰を掛けた。
隣に控えたファンイーは元々物事に動じない気質であるため、資産家の家族向け説明会に重用しているが、今回は少し勝手が違うようだ。
当然のことだがな。飲み込まれそうになるほどきらびやかな場と、目の前におられるジル・セブシェーンと言う男の貫禄。
このシチュエーションで、無難に挨拶をこなしたことに大したもんだと言ってやりたい。
順番に運ばれる食事に、一般常識的な品評を添えながら、まずは和やかに会をスタートさせた。
ジル様とお会いするのは二度目だ。
あれはいつだったか、確かレヴィストロース様が学校長として着任することとなった折に予めジル様が直々に挨拶に来られたのだ。
当時はどういう事情でレヴィストロース様が当校の学長になられたのか、その経緯はわからなかった。
ジル様がお忍びで現れたことに、大変な事情ではないかと心中動揺したものだ。
結局、訪問の意図は解らずじまいだったが、徐々に中枢から漏れ聞こえる噂から、レヴィストロース様の件は体のいい左遷であることが明らかになる。
当時、ジル様は私だけを連れて、このシェルビエンを訪れた。
思ったよりも気さくな方で、二人きりの食事会は和やかに進んだ。
その中の会話でわかったことは、ジル様はこの国の伝統を強く重んじられている様子だった。
生まれ故郷を棄てた私としては、深いところまでその思いを汲み取ることが出来なかったが、何となくこれをあの方は使命と感じてらっしゃるのではないかと思った。
ただ、わざわざ学校まで出向かれたというお心遣いに、私はその思いの一端でも受け止めねばならないと感じた。
それが、異国から来た副学長として成すべきことと言われたように思えたのだ。
元英雄レヴィストロース様の本性など知る由もないが、行動を見る限り、余計なことは容赦なく切り捨てるという冷酷な考えをお持ちのようだった。
いい意味で合理的だが、行き過ぎると保守派と軋轢を生む火種となる。
着任して日も浅いため、学校の経営にまで手をつけようとされていないが、本気で乗り出された場合、今の経営状態では、大規模な方向転換を迫られるだろうとは思っていた。
学校の経営にまで興味がない今の段階で、安定運用に持って行かなければ何かを斬り捨てねばなるまい。そうならないためにも、手段は選んでいられない状態なのだ。
私の本心など薄いもの。ご大層な思想も方針もない。副学長という、この身に余る立派な責務だけだ。
左派と言われようが運営費を削られようが、ブラントクイント士官学校は王立学校であるため、国の方針の枠内で運営する義務がある。
異国出身の私が伝統あるこの学校で、今のような要職を拝命している限り、この国の求めに応じて、この学校に誇りを持つ卒業生や古株の教官の意見を組み入れ、存続させなければならないという思いで続けてきた。
それは少なからず、何も持たない異国の私に与えて下さったという恩義があるからだ。
そのため副学長としてただ任された業務を遂行するためには、知恵と策で皆が納得できるかたちを追求することしかない。
ジル様が国の意思を語る代弁者であるならば、許容できる範囲で方針として組み入れる必要もある。
ご子息の今後の件もそうだが、今の我が校に対する国の考え方も情報として伺いたくもあり、この会合に臨んだ。
あの時に知った、古きを大切にされるジル様のお考えをそのままに方針として継続させるためには今の収益では厳しい。
学校も寮も文化的価値は高く、現状維持をはかるだけでも多額の費用を要するが、国からおりるはずの運営費は、レヴィストロース様が学長になられた後から削減されている。
すべてのクオリティーを保つためには、財源の確保は急務だ。
一口酒を頂き世間話が一区切りした状態で、一瞬、間をおいてからジル様から本題へと舵をきってこられた。
「今回はこのような席に招いて頂いて申し訳ないが、我が息子ユスランを別の学校に編入させようと考えている」
食事の手を止めてジル様を見つめる。
ゴクリと隣のファンイーの喉元が鳴った気がして、一気にこの場の緊張感が高まった。
少なからず皆のリストラがかかっていると脅したからな。
ファンイーが口を開きかけたため、何を言うか面白がって待つのもよかったが、鋭く精悍な顔つきで真正面から向かい合うような姿勢のジル様に、私は素直な感想を述べた。
あまり部下を苛めるのも悪趣味だからな。
「今この場でお引止めしても、結論は変わらないようですね」
フッと片方の口元を引き上げてジル様は応じた。
「そうだ。大体事情は察しているだろう」
肯定も否定もせず、私は率直に今の現状を述べた。
「ジル・セブシェーン様個人として本日お招きしましたが、やはり我が校の実態をお伝えしておきたいのですが宜しいでしょうか」
目配せするとジル様は小さく頷き許可されたので、ファンイーに端的な説明を任せた。
定量的に経営状態を説明した上で、被せるように私の方から、この状態で出来ることと出来ないことと、ありのままの本心を述べた。
私が、副学長として為すべきと考えている責務を交えて。
ジル様は黙ったままで表情を変えず静かに聞いてくださった後、口を開いた。
「大変な状況は察しているが、税収も厳しい中、予算の割り当てを再考するにはそれ相応の理由が必要だ。
初対面の時にも感じたが、あなたは伝統校の経営者に相応しい感覚をお持ちだ。
私はそう言う意味で、若干不適切な表現かもしれないが、安心している」
「有難うございます」
硬い表情を若干緩ませ、ジル様は目線を逸らして窓の外の坪庭をご覧になった。
「あくまでも個人的には、現学長を更迭したいくらいだ」
「………。」
今3人しかいないが、とんでもないことを言い出す方だ。
問題発言となるようなことは、絶対言わない人だと思っていたが……。
開いた口がふさがらない状態に、ジル様は目を細めて言った。
「国の意志ではない。私の本音だ。重く受け止めないで頂きたい。それと」
テーブルの上に置いた両手を組んで、私を温かい表情で見つめて言った。
「申し訳ないが、国の財政に関しては私個人がとやかく言える立ち位置にもない」
「……それは存じ上げております」
「だが、個人的にあなたの学校に対する経営姿勢には賛同する。
今回、息子の退学に関しても本人が決めたことであり、強制したつもりもない。つまり、我がお家事情の我儘である。
だから、あなたが期待する額に見合うものではないとは思うが、細やかながら寄付を申し出たい」
「……ジル様…」
この方はやはり、表向き冷酷なイメージがあるが、国家中枢の中で珍しく血の通った人情の人だ。
個人的に知り合うことがなければ、このような一面も一生窺い知ることもなかっただろう。
この方の打ち出す施策はいつも、大鉈を振るうような大胆なものが多いが、恐らく、表に立つ人間としての役割の一つなのだろう。
確かに下された結論がこの方の本心とは限らない。
責任や非難を一身に背負う度量を持ち合わせているからこそ出来ることだ。
「後、立ち位置的に寄付の事実は伏せて頂きたい」
それは表向き国側の立場を踏まえてそう言われているのだ。こういった配慮も忘れない。
「承知しました。誠に有難うございます」「誠に有難うございます」
私もファンイーも深くその場で頭を下げた。
「さあ、折角の機会だ。引き続き美酒を楽しもうじゃないか」
ジル様は顔を上げた私たちに、片手に持った酒を掲げて口に含ませた。
関係者を従えた会食の席では恐らくこのような発言はされないだろう。
ジル様はこういった使い分けの出来る聡明な方なのだ。
隣のファンイーも気負った任務が滞りなく済んだことと、ジル様の多大な配慮のお蔭で会食の時間の半分以上は楽しいひと時を過ごせたようだ。
硬い表情が徐々に緩和されていった様子だったからな。
ジル様の仁徳がよく表れる一日だった。
帰りの馬車でファンイーは似合わない眼鏡を外して眉間を揉みながら一言言った。
「ジル・セブシェーン様ってあんな方だったんですね」
「そうだ。噂が全てではない」
すると、こちらを意味ありげに見つめてから私にあまり向けないような笑顔を見せた。
「他人事みたいに言いますけど、副長もですよ」
「何がだ」
「そんな風に思って仕事されてたんだと、今日初めて知りましたから」
流れる外の景色に目を遣って、ファンイーは独り言のように続けた。
「立派ですよ。俺には出来ない」
「当たり前だ」
カラカラという車輪の音は軽快に。いつも変わらない青空が今日は一段と澄んで見えた。