第111話 微妙な間 * 学校〈リュカ〉
リュカ目線。
次に目を覚ましたのは、寝台の上だった。
いつになくよく寝た気分だが。若干、体が重い。
頭がぼおっとするな。
暫くしてから、周りの状況に違和感を覚えた。
……あれ?
自分は確か訓練していて、レイと話をしていて、それからどうした。
まだはっきりとしない意識で見上げる天井は、自室のものではなかった。
手の込んだ細工が目を惹く隅の木目の化粧が、淡いランプの光を浴びて壁に影をつけている。
完全に覚醒すると、この部屋には見覚えがあった。
ここは、どこだったか。
一人にしては大きすぎる寝台に、獣の顔の剥製が壁に掛けられている。
確か、シュライゼか誰かが、趣味が悪いと言った……。
え?!
思い当たる節に驚いて、ガバッと起き上がったのと同じタイミングで、部屋の入口に長身の人影が現れた。
「起きましたか?」
落ち着いたその低音。
律儀な口調。清潔感のある懐かしい出で立ち。
その目を疑う長身の人影に、一瞬息を飲んだ。
……夢か、いや違う。現実だ。
彼に会いたかった。
もう、自分の元には戻ってこないと思っていたんだ。
けれど、この学校に、帰ってきてくれた。
そのことを噛みしめると、名前も知らない学生に言われた辛辣な言葉がよみがえり、思わず得も言えない感情が湧き上がってきた。
退学は免れたのか。それとも、まだ審議中なのか。色々聞きたいことはある。色々話したいこともある。
けれど、今は、彼が帰ってきたという事実だけで、何も言えなくなった。
自分にとっては、学校で出来た初めてのかけがえのない友人だからだ。
穏やかな日常をくれたたった一人の親友だったからだ。
また一人、置き去りにされるものだと思っていたからか、グッと感情が高まると目頭が熱くなってきた。
自分がこういう気持ちでいたことなど知らないユスランからすると、突然泣くなど混乱させてしまうことはわかっている。だから、堪えようと思っていたのに。
「……ユスラン…」呼びかけるだけで涙声になってしまった。
「え?ちょっ、ど、どうしました?!」
慌てて駆け寄るユスランは困惑した表情で、寝台の脇にしゃがみ込んでこちらを見上げた。
自分は自制できなかった自分に恥ずかしくて涙を拭くのに必死だった。
「…ごめん……泣く、つもりでは…」
笑おうとしたのに、色々な思いがまじりあって勝手に涙があふれてきた。
ただ、おかえりと言うはずだったのに。
どうしたんだろう。最近涙腺が弱くなっているようだ。
「…帰ってこないかと…」
「私がですか?」
無言で頷くと、クスクスと楽しげに笑う声が直ぐ傍で聞こえた。
これではまるで子供じゃないか。……我ながら恥ずかしい。
ユスランも寝台に座ったのか深く沈み込んだ。
「それは、こちらの台詞ですよ」
涙を拭うと、ユスランは真横に座っていた。
見上げると、彼は優しく笑いかけた。
もう懐かしくさえ感じる、ユスランの顔だ。
「おかえりなさい、リュカ」
逆じゃないのか、と思ったが彼がそう言ったので、ぎこちなく「…ただいま」と返した。
ユスランはまた満足げに微笑んだ。
自分はその表情を見上げながら別の事を考えていた。
……彼はこういう顔だったか。長い間会ってなかったからか。
いや、こんなに至近距離ではっきりと見るのは、初めてかもしれない。
いつも黒い髪は布で巻いていたが、洗った後なのか、ヴィルのように艶めいた黒髪が雫を纏って煌めいて無造作に下ろされていた。
日頃はキッチリとしている身なりしか知らないが、砕けた格好をするユスランはいつも以上に男らしく見えた。
切れ長の一見冷たそうな瞳には、誠実そうな光が宿っている。
侍女がこぞって話しかけようとするシチュエーションをよく目にするが、確かに彼は女性受けしそうな精悍な顔立ちだな。
自分はそんな風に見たことが一度もなかったが、確かに彼は男前だ。
そのようなことを考えながら彼の顔を呆然と見つめていた。
「リュカ」
低く、いつもより甘いような声で呼びかけられると、冷たい手が左頬に添えられた。
ん?
大きくてしっかりとした手の感触。若干その長い指先が耳たぶを掠めるとゾクリと背筋が震えた。
すぐにもう片方の手が伸びてきて、親指の腹で右目にたまったままの涙をふき取られると、ユスランは何とも言えない大人びた表情に見えた。
ユスランはこんな表情もするのか。と余所事を考えていたが。
「………。」
無言のまま時間が過ぎる。さっきから体が重いからか、放心状態でいた。
ただ逆に至近距離でじっと見つめられていることに気付くと居心地が悪くなったため視線を逸らすと、こっちを向くよう誘導するように、頬に添えられた手に若干力が籠ったように感じた。
そのまま流されるように再び見つめ合うと、何故だろう。何かに縛り付けられているように体が動かない。
彼の真剣なまなざしが、全く自分の知らない人に思えて緊張してきたのか。
伏し目がちになる彼の漆黒の瞳をただ見つめるしか出来なかった。
………。
しばらくして、何か言葉を発しようとしたのか、薄く唇が開きかけたその瞬間、ようやくハッとして声を掛けた。
「……どう、した?」
ユスランは目を見開き、驚きに満ちた顔で自分を見つめた。
逆に自分も驚き、一瞬顔を見合わせたままお互い固まった。
微妙な間が二人の間に走る。
すると、焦った様子で頬に添えられた手をひいたユスランはおもむろに立ち上がる。
どうした…のだろう。行動に違和感がある。
ユスランは後ろを向いたまま小さい声で「すみません、今日はどうかしてます」と言って大袈裟なため息をついた。
「何か…」
「……いえ、あの、ゆっくりしていってください。私は少し向こうで休んでますので用事があれば仰って下さい。では」
と言うだけ言って颯爽と部屋を出て行ってしまった。
何故自分がここに居るのかとか、家の件は大丈夫だったのかとか、土産があるとか色々言いたいことがあったのだが、追いかけることを拒むような後ろ姿だったためおとなしく寝台にまた寝そべった。
……けれど、当然ながら眠れるはずもない。
部屋は幾つもあったはずだが、確か寝台はここ一つだ。
ユスランが帰ってきたばかりだとしたなら、きっと疲れているに違いない。ここを占有するのは申し訳ない。
自分は寝台を抜け出して元通りに布団を正すと、ユスランがいる部屋へ向かった。
前に皆で宴を開いた時に使用した部屋に向かうと、彼はソファの上に向こうを向いた状態で寝転がっていた。
組まれた足が、ソファからはみ出ている。こんな状態では寝心地は最悪だろう…。と心中申し訳なく思った。
「ユスラン」
声を掛けると意外にも俊敏な動きで振り返り、眠気眼かと思いきや若干見開かれた目だった。見方によっては少々滑稽に映る。
それにも多少違和感はあったが、とりあえず「……寝台、占有して悪かったな」と言うと、明らかに視線を逸らして「いえ、構いません」と返された。
何か調子が狂う。いつもだったら多分『別に寝ててくれてもいいですよ』とか『もう帰りますか?』とか声を掛けてくると思うが、本当に疲れているのだろうか。
そう言ったまま無言になった。
どことなく先程から彼の挙動がおかしい気がするが。
……まぁいい。
「では自室に帰るから、また明日」そう告げると、彼は「あぁ」と生返事をしてから「おやすみなさい」と返してきた。
隙だらけのユスランは先程までと別人のように感じたが、いつもの安心感とまた違う妙な緊張感があった。
いつもなら感じることのない、この変な間がそうさせているのだろうか。
聞きたいことは全く聞けずに扉を出て、とりあえず意味もなく深呼吸をする。
なんか変な感じだったな。そんなうわ言を考えながら暗がりの廊下を歩こうとした時、すぐそこにレイが立っていた。
「……わ!な、何してるんだ?」
誰もいないと思っていたため動揺した。
目を細めるレイは「何動揺してんのよ。一応、護衛なんですけど?あまりにも遅いから心配しちゃった」と言った。
「いや、ちょっと待て。訓練中不覚にも眠った覚えがあるがそれ以降、何がどうなってユスランの部屋にいたんだ」
「恋しくて自分で行ったんじゃないの?」と意地悪そうに笑ったのでギロリと睨んだ。そんな訳ないだろう。
すると観念したように「あなたが何かユスラン様の事で思い悩んでそうだったから、帰ってきた彼の居室まで運んであげたのよ。あたし、優しいでしょ」と軽く言ってきた。
どういうシチュエーションでユスランも自分を引き取ったのかはわからないが、ほぼ推測通りだ。
「余計なことを……」
レイは「何が余計なのよ。で、話しはできた?」と言ってきたので、一瞬口を噤んでしまった。
いや、そうだ。そう聞くのは当然だ。
恐らく、あまり他人のことを詮索しない自分が今回もユスランの事情を聞けず悶々と日々を過ごすだろうと踏んで、レイは強引にも彼と込み入った話が出来そうな機会を与えてくれたんだと思う。
そう、色々と話したいことはあったのだ。
……だが、どことなく話せない雰囲気だった…からな。
「いや…疲れているだろうと思ってすぐに出てきた」
「………」
レイは意外そうな顔をして、しばらく沈黙した。
「何だ?」
「別に」と言うと、若干目を細めてから「ま、早く寝なさい」とだけ無表情に言い残し、目の前から去って行った。
何かレイも違和感があるな。
けれど、ユスランもとりあえず帰ってきたのだ。
明日、話が出来ればいいか。
そうして自室に帰ったが、外で少しだけ眠ったせいか若干喉が痛い。そういえば起きてからずっと体が重かったしな。
少し悪寒がするのは気のせいだろうか。
また寝れば、治るか。
それが安易な考えだったということをすぐに思い知ることとなる。