∮-37、 歴史の陰に埋もれる恋の始まり
無残に切り落とされた髪は、例えどんなに願ったとしても、もう二度ともとに戻る事無く、再び元の長さに戻るまでには少なくとも14年の歳月が必要なのだと言う事は、男は――特にあの国王は知らないだろう。
女の髪を枝毛や無駄毛等が無いように伸ばすには、毎日丁寧に何度も髪を梳き、月に一回髪に鋏を入れ、少しづつ少しづつ、それこそ慎重に愛情を込め子供を育てる様に伸ばさなければ、真に美しい髪は手に入らない。
きっと私の髪を何の躊躇いもなく切り捨てたあの国王ならば、髪如きにそんな手間や暇などかける必要は無いと言うだろう。
けれど上級神官だった人を父に持ち、幼い頃から髪には不思議な力が宿るから大切にしておきなさいと教育され、育てられてきた私からしてみれば、今回無情にも切り捨てられた髪も私の身体の一部だった。
それが目の前で切り捨てられたという事実は少なからず私に影響を与え、祖国から嫁ぐ際に、祖国の神と父に誓った誓いに皹を生じさせ、堅固に何度も何度も塗り固め、王妃と言う名の【立場】の地中に埋め込んだ筈の決して開けてはならない箱を開け放ってしまった。
そんな中での度重なる尋問に、粗雑な扱い。
尋問の最中に気絶をすれば井戸から汲み上げた冷水を浴びせ掛けられ、知らないと首を振れば身体を蹴られ、頬を張られ、二ーナやアマンダがそれを諌めようとすれば、問答無用情け容赦なく熱せられた焼き鏝を背中に押しつけられ、何度も気絶と目覚めを繰り返した。
ただそんな中でも、不幸中の幸いと言えるのは、そんな扱いを受けていたにも拘らず、腹の子が流れなかったという事だけ。満足に食事も取れずに、栄養もとれないのに、私を励ますかの様に私の胎内にひっそりと息づく小さな生命。
その存在は四日間の拘留や尋問と言う地獄から、私を無事生還させてくれた命の恩人にもなった。
そうしてやっとの思いで北の塔に帰った私は、そこで沈痛な面持ちで直立不動の姿勢で立っていた人を見た瞬間、完全に開けてはならない箱の蓋を開け、自覚してはならない想いを自覚してしまった。
女性のようにも見える中性的な容姿も、彼から発せられる甘露の様な甘くも美しく低い声も、そして何よりいつも私の身を案じてくれる鳶色の美しい瞳も、全てが愛おしく、また恋しかった。
彼の主は私の大切な一部を奪い、私に疑いを掛けた人でも、彼だけは怨めない。
私の中で膨らみ、花開いた想いは、素直だった。
四日間に渡る過激な取り調べの直後に顔を見て、また自分の薄汚れた格好をその人に見られたと言うだけで、私は恥ずかしくなり、その場でへたり込んでしまい、遂には涙線を決壊させてしまった。
「妃殿下、一体どうなされたというのですか!?その格好は?」
「リヒッ、リヒタ様ぁー、リヒター様」
「妃殿下?」
彼を認めた瞬間、ポロリポロリと次々に泉水のように湧き出てくる悲しみの雫と安堵の雫。
私はただただ涙を流し、彼の名前を壊れた玩具のように呼び返し続けた。
私を心配し、気遣ってくれ、そろそろと近付いてきた彼に、力が入らず、ふるふると震える指先で彼の服の裾に縋りついた。
近くから見て、私の常にない様子を見てそれらから全てを察したのだろう。
彼は私を労る様に抱き寄せてくれた。
そして、微かに唇の先に触れた温もり。
きゅっと頼りない指先に残っていた指先に力を込めれば。
「私が、私が妃殿下をお守りします。」
それは何処までも甘く誘惑な毒の様な囁き。
常の私ならば、その誘惑には揺らがなかっただろう。
でも、その時の私は、もう何もかもが辛く悲しく寂しかった。
女として、誰かに愛されたかった。
だから私はパンドラの箱を開け、悪魔の囁きに負け、魔女の手を取ってしまった。
「どうか、マリアと呼んで下さい。リヒター様」
私が禁断の想いを自覚し、名前を捧げた瞬間、誰かが息を飲んだのが判った。
――ゴクリッ
リヒターの喉が上下するのを見届けた私は、そっと瞳を閉じ、彼からの口づけを待った。
そして訪れたその時、私は初めて嬉しさから涙を流した。
「マリア、私が貴女を守ってみせます。この命に代えてでも」
その口付けは禁断の始まり。
それは知られてはならない関係の始まり。
それは後に繋がる為の秘められる恋の始まり。
互いに自覚しながらも、自覚したとされない、歴史の陰に埋もれる恋がその時、確かに始まりを告げたのだった。




