手を振る事も出来ない
さよならの分だけ人が強くなれると言うのならあたしは五十歳ぐらいで、最強になっているはずだ。
――さよなら。
そう聞こえる度に胸が痛くなる。だけどさよならをしなければ、彼らは生きる意味を失ってしまうのだ。
「最近シャーペンの芯変えただろ? Hになった」
「変えてないわ」
「嘘つけ。お前」
「入れ物にちゃんとHBって書いてあるじゃないの」
「でもこれはHの薄さだ」
彼は呟く様に「もっと力を入れて消せ」と言った。ついでに「間違えた文字が消えないだろ」と足す。
――消しゴムの声。
そんなものが聞こえる。
そんな特殊能力は物心ついた時から存在していた。
あたしはそれが普通の力なんだと思っていた。
能力が変だと気付いたのは小学校一年の時。真新しい筆箱に入った消しゴムは喋らないんだと知った。
「おい、力入れろって」
「入れてるわよ」
「入ってねぇ。俺に職務怠慢しろって言ってんのか」
「違うわよ」
少しだけ力を入れて消すと彼は「最初からそうすりゃあよかったんだ」と小さく文句を言ってきた。
彼、は。消しゴムだ。
縦が五センチ、横が三センチのノーマルタイプ。肌の色は真っ白で服は青。メイドイン、インドネシア。彼はそんな消しゴムだ。
彼は普通の消ゴム。
だから可笑しいのは彼の声が聞こえるあたしの方。
「俺に仕事を寄越せ」
彼の口癖はそれだった。酷い。それで自分の身体がすり減っている事に気付いてないのだろうか? 心を痛める人間はいるのに、それに気づきもさない。
そういえば、一番最初に買ってもらった消しゴムもそのタイプだった。彼は小さく小さくなってから「俺も死ぬのかな」と呟いた。
その数日前まではマジックの誤字も「俺で消せ!」と言っていた奴が、だ。
儚い命とはこの事か?
不毛にも程がある。
だけど幼かった私は小さくなりすぎて使えなくなった初代の彼が、母に不要な物としてゴミ箱に運ばれる様をただじっと見ていた。
それを思い出すといつも考える。今のこの彼もいつか絶対に消えてしまうのだと。不要だと誰かにゴミ箱へ投げられてしまうのだ。
でも、仕方ない。
彼は消しゴムだから。
「あ、おい」
「なに?」
「落としやがった」
「なにを?」
「消しゴム。前の奴の、ほら、椅子の下に落ちてるの見えるだろ。拾ってやれ」
あたしが彼の指示に従ってそれを拾い上げると、その消しゴムの声までもが耳に届いてきた。少し疲れた声をしている気がする。
彼は優しくありがとう、と随分嗄れた声を出した。
「お前、災難だなあ」
私の消しゴムが呟いて初めて気づいたのは、嗄れた声の消ゴムに落書きの跡があった事だ。マジックでイニシャルが書かれている。
一時に流行った恋のおまじないか何かだろう。
「いやあ、まだマシだよ」
消しゴムは嗄れた声のまま苦笑いした。そうしてため息混じりに続ける。
「C組の丸い消しゴムはシャーペンで刺されてたし」
「本当か?」
「あぁ。それにD組にはハサミで粉々に切られて投げられてる奴もいる様だ」
「――ひどいな」
何も考えずに消しゴムの会話を聞いていたら、前の席の女の子が振り返った。
私はとっさに嗄れ声――落書きの消しゴムを返す。すると、彼女は屈託ない笑みでありがとうと言った。
落書きの消しゴムを見送った後で彼は不意にため息をついた。何事かと聞いてみたけれど彼は「別に」と呟いてから私に尋ねた。
「お前は消しゴムに優しいな。前からそんな風か?」
可笑しな事を聞く消ゴムである。私は頭の中で今の問いを繰り返してみた。答えは出そうにないらしい。
(そもそも、消しゴムに優しい人って何なのかしら)
彼に改めてその意味を尋ねようとした時、タイミング悪くチャイムが鳴った。それと同時に、後ろの席の同級生に声をかけられる。
「昼休みの間、消しゴム貸してくれない? 委員会の会議があるんだけど」
「――いいよ」
昼休みの間ならと私は快く彼女に彼を貸し出した。彼は「仕事か、よし」とはりきって貸し出された。
それは、嬉しそうに。
――私は多分、消しゴムに優しい人じゃない。優しかったら、ゴミ箱に入れられた彼を助けたはずだ。
優しかったら、消しゴムなんて使わないはずだ。
幾ら濃さを薄くしても、力を入れずに使っても、同じこと。むしろそれは、彼らの仕事を侮辱してる様にも思えてきてしまう。
「使わなかったら」
ただのモノと化する。
それでも消ゴムに優しい人ならば、彼らを使う事はないだろう。侮辱しようが馬鹿にしようが、生きていてさえくれれば良い。
彼は長い昼休みが終わったと当時に帰ってきた。後ろの席の子の謝罪と共に。
彼女は昼休みに文化祭のポスターを作ったのだそうだ。そうして彼は、その大きな大きなポスターの下書きを消したそうだ。
「本当にごめんね。今度、必ず買って返すから」
いいよ。笑顔でそう言うと彼女はもう一度だけ私に謝って去って行った。
「お前は人にも優しいな」
彼は言った。一時間弱で身体は半分以下にすり減っていたのに、声は高らかで少し笑いも含んでいた。
ポスターの下書きは消し甲斐があったらしい。こなした仕事の成果と楽しさを彼はしばらく語っていた。
「授業が始まるな」
「うん」
「次は何だ?」
「――美術よ」
「なら、仕事だな」
嬉しそうに言った彼。
私は彼の言葉には返事をせずに、彼を筆箱にしまった。そうして一人、静かに教室移動を始めた。
課題のデッサンを描くために授業がある美術室へ。彼の入った筆箱と共に。
授業が始まってからの彼はいつになくうるさく、私に消せ、と捲し立てた。
「バランス悪いぞ」
「うるさいな」
「消せよ、描き直せ」
「いやよ」
石膏のデッサンを描くのが課題だった。あたしは美術が嫌いだ。絵を描くのが下手だから、彼をよく使わなければならないから。
だけど彼は、
彼は美術が好きらしい。
「早く消せって」
「いいってば、別に」
「おかしいだろ」
「おかしくないわ」
「ほら、ずれてきた」
「新しい紙、貰うわ」
「紙の無駄使いすんな」
私は紙よりも彼の無駄使いが嫌だ。だって紙の声は聞こえた事がないから。心は一切痛まず苦しまない。
紙が消えたって、あたしは悲しくもなんともない。
「お前は自然破壊者か」
「どうしてよ」
「紙は大事にしろ」
「……消しゴムは?」
「それなりに大事にしろ」
こういう問いに即答する辺りどうかしてると思う。結局あたしは彼を使った。沢山線を描いてから彼を使ったから彼は黒くなった。
汚れと消滅は消しゴムの勲章だ、と彼は言う。そんなものは戯れ言でしかないのだと、気付いていない。
彼は去年の私の誕生日に友達から貰ったものだ。使い始めたのは貰ってすぐ。
ちょうどその頃、先代の消しゴムが居なくなってしまい、困っていたのだ。先生に貸したままだったのだが、その先生は夏休みを終えると転勤していた。
「消しカス捨てろよ」
「分かってる」
消しゴムの消しカスを集めて彼を再生すればいい。そう考えた事もあった。
だけど、それを今のこの彼に話してみると、彼はひどく立腹してしまった。
消しゴムとして生きたら本望、消しカスで生き長らえても俺はお前に話しかけたりしないからな。
そんな事を言われた。
「今度からちゃんと4Bの鉛筆使えよ。先生が用意してくれてるんだから」
授業前に先生が鉛筆を配ってくれたが、私は拒否した。4Bなんて濃すぎる。
4Bで描いて絵が上手くなるのならそれで描く、と先生に言ったら、別に道具は強制じゃない、と言ったので使わなかった。
「絶対使わない」
「反抗期か?」
「違うったら」
彼は軽く、笑った。
「須藤」
彼を筆箱にしまおうとしたら先生に呼ばれてしまった。4Bの話だ。どうやら珍しく反抗的になったので心配してくれたらしい。
何度か軽く謝って先生から解放されると、私は急いで彼を迎えに行った。
でも、彼は減っていた。
「ごめん、勝手に借りた」
クラスの男子が言った。彼はさらに体を黒くして机に転がっている。私が笑顔で男子に接していると、彼は嬉しそうに呟いた。
「あいつは絵が上手いな」
彼の言葉に男子の絵をちらりとを覗き込んだが言う程上手くはなかった。私はそこで気付く。彼は使われたから嬉しいだけなんだ。
この数時間でだいぶ減った。彼は最初の四分の一くらいの大きさになってしまった。消えていく。彼は怖くないのだろうか? 存在がなくなってしまうのに。
「どうした」
「なにが?」
「怒ってるみたいだ」
「どこが?」
「顔が」
私の顔、見えるのね。
私は彼に一瞬だけ笑いかけて、彼を筆箱に入れた。それから来た時よりもゆっくりと教室に戻った。
筆箱の中では、ふう、と一息をつく彼の声が聞こえてきた。疲れたのかしら。
そして今日最後の授業。
「――別に疲れてない」
彼はそう言った。あたしが珍しく聞いたからか、彼は怪訝な声を出していた。
「なんだよ、突然」
「聞いてみただけよ」
「そうか」
授業は数学だった。長ったらしい公式が黒板に書かれていくのを、私たち生徒は黙ってノートに書き写した。今日はやけに難しい。
黒板の半分とノートのページの半分がほぼ数字と説明で埋まっていく。
「お前数学好きか?」
「そうでもないわ」
「でも一生懸命書いてるじゃないか。いい事だぞ」
書かなければいけないから書いてるだけなのに。
言い返そうと思ったら、先に数学の先生が声をあげた。しまった、と。
「すまん、この公式は応用の時に使う式だったな。書いたか? 悪いが消してくれ、こっちに書くから」
あぁ、最悪だ。
「俺の仕事だな」
「――違うわ」
「消せよ」
「無視して次に書くわ」
「紙の無駄だろ、消せ」
私は消ゴムの無駄だと叫びたい。何度か彼の声を無視してみたが、彼も諦めずに何度も何度も「消せ!」と言い続けていた。
「早く消せよ」
「別にいいじゃない」
「俺に仕事させろ。俺の存在する意味がねぇだろ」
嫌だと言えば、彼は喋ってくれなくなるだろうか。それが嫌でため息と共に、私はそっと彼を手にした。
可笑しな話だ。やっぱり私は優しくないらしい。
彼は「よし、力を入れろよ」と言った。軽く擦ってみるがそんなもんじゃ消えない。いくらHの薄さでもさすがにだめだった。
「なんで力抜くんだ」
「抜いてないわ」
「嘘つけお前」
嘘だってつきたくなる。
「貴方は分かってない」
私が今までいくつ消しゴムの声を聞いてきたと思ってるんだ。それで、いくつ消しゴムとの別れを惜しんで来たと思ってるんだ。
消しゴムを最後まで使うなんて不可能に近い。だからか小さくなった消しゴムは自ら、消えて行く。
消しゴムが不意に消えていくのはそのせいだ。知らないうちにゴミに紛れたりする。小さくて見えない、私たちは彼らの自殺を気にも止めずに生きている。
「何を分かってないんだ」
彼は呟いた。
私は小さくなった消しゴムを引き出しの中に閉じ込めてしまいたい。実際何度かそうした事もある。だけど彼らの声が聞こえる。
最後まで使って。
頼むから使って。
そう言われれば使わざるを得ないのだ。最後の願いだと懇願するのだから――仕方ないじゃないか。
「言わないと分からない」
「言わないわよ」
「なんでだ」
「言いたくないから」
私はゆっくりと消しゴムをノートの上で往復させていた。黒板にはすでに新しい公式が書かれている。
私以外の生徒は躊躇せずに次々ノートに書き写している。羨ましい。声が聞こえないのは楽だろうな。
「早く消してくれ」
「好きにさせてよ」
「頼む」
どうか、頼まないで。
「長いと辛い」
――確かにそうかもしれない。削れていく身体は痛いのかしら。今まで聞いたことはなかったけど。彼らは身を削っているのだから痛いかもしれない。
「ごめん」
しばらく考えてから、私は力を入れてノートの半分を一気に消してしまった。
身を削って文字を消す運命と言うのは辛いのだろうか。最初から消えていくことが決まっているのは、多分きっと辛いのだろうな。
「ごめん」
消し終わってから私はもう一度謝っておいた。消えてほしくないと思うあたしと、消えたくないと思う彼らの気持ちは同じだった。
ならあたしよりも当事者の彼らの方が数倍も辛いに決まってる。あたしはそんな事にも気付かなかったんだ。あぁ、情けない。
「謝るな」
「だって痛かったでしょ」
「痛くない。ただ」
ただ。
「長く一緒にいるとお前も別れが辛くなるだろ。だから早く消えたいと思って」
その言葉に私の視線は自然と黒板から彼の身体に向いていた。なんだ。珍しく弱気じゃないか。消えたいなんて言った消しゴムは、今まで会ったことがない。
皆、怖がっていた。
「お前は優しいからな」
「消えたいなんて、らしくないわよ。どうしたの」
彼は笑わなかった。
死期を悟ると消しゴムは姿を消してしまう。それは前から知っていた。消えたくないと言った初代の彼だって、いつの間にか姿を消していたのだから。
「何度目だ?」
「なにが」
「消しゴムを変えたのは」
「覚えてないわ」
「俺はその中の一つか?」
数ある消しゴムの一つ、それを言うなら私こそ星の数ほどいる人間の一人だ。
小さく首を振ると、彼は「そうか」と安心した様に呟いた。私には彼の顔が見えないから分からない。だけど、きっと笑ってる。
「別れは嫌いか?」
「それはそうよ」
「でも強くなるだろ」
「どうして」
「人は別れる度に強くなるんだろ。他の消しゴム仲間に聞いた事がある」
そうだろうか。
消しゴムと何度も別れているけど、強くなった実感はまったくない。
「なあ」
「なに?」
「思いきり使ってくれ」
「――消す字がないわ」
「字は消さなくて良い。とにかく使え。最後だ。俺はもう消える運命だからな」
消ゴムに意志があるなら自分の人生くらい自分で決めれば良い。そう言うと彼は「俺は人じゃないから」と言った。人にだけ与えられているのが人生だ、と。
そして「さあ消せよ」と今までになく楽しそうな声を私の心臓に響かせた。
私は彼の願い通り無意味に思いきり消しゴムを消費した。何度も彼の体を真っ白なノートに押し付けた。
そして消しカスを払いのけた時、私の手が偶然彼の身体に当たってしまった。
「あ」
気付いた時には既に彼は私の視界から消えていた。いつもはすぐに声を出すくせに、今日に限っては呟きすら聞こえてこない。
その代わり。
「お前、いい女だったよ」
彼は飛んでゆく直前に私にそんな言葉を残した。
正直、消しゴムに褒められても素直に喜べない。だけど、私は今までより少しだけ強くなった気がする。
別れて初めて強くなれたことを実感した。名前さえない消しゴムの彼に、実感の仕方を教えてもらった。
最後にあたしは呟いた。
「あんたも、消しゴムの割りにいい奴だったわ」
彼の声は、
もう聞こえない。
end




