ウォームスカイ
第七回『ケーキ(種類問わず)』
空が好き。遠くの空を見るのが好き。青空を見るのが好き。白い雲を見るのが好き。曇り空の低さが好き。夕日の赤が好き。夜明けの紫が好き。星空の明るさが好き。空のグラデーションが好き。
視界に写る空はどこまでも広い。広すぎて、現実味がなかった。立体感がなく、どこまでも精緻な絵画を眺めている気分。いっそ、手を伸ばせばキャンバスの感触があるような気すらした。でも、私の手は空には届かない。だから、私は絵を描いていた。
油絵の独特の匂いに少しだけ混ざる紅茶の香り。静かな夕暮れに、ワープロを打鍵する音だけが響く。
フォークでチーズケーキを小さく切り取り、口へ運ぶ。酸味の下から現れる仄かな甘味。打鍵の音が止まり、
「どうかな?」
と少し不安げな声がした。
「おいしいんじゃないですか」
素直においしいというのは少し癪だ。先輩は私よりお菓子作りがうまいから。
「そう、よかった」
打鍵が再開され、一定のリズムで響いている。少しぬるい室温と相まって眠ってしまいそうだ。紅茶に砂糖を入れ、ゆるゆるとかき混ぜる。
「先輩」
「なに?」
「こんな時期に小説なんて書いてていいんですか?」
先輩は薄く苦笑する。
「まぁ、たまには息抜きをね」
「たまに?」
「……アハハ」
気の抜けた笑い声がなんだかとても腹立たしい。
「そんなことでいいんですか、受験生」
「それは……まぁ、なんとかね」
「……そうですか」
喉がひきつるような痛みが走る。喋れなくなりそうだったので、あわてて紅茶を少し口に含む。
「そういえば先輩はもうすぐ卒業……あ、卒業できますよね?」
「できるよっ!!」
「それで、大学は……あ、受験」
「できるからね!?」
からかえばいつものように反応が返ってくる。いつもどおりのはずなのに、何故だか遠い。
「そうですか。それで、どこ受けるんですか?」
「うーん、いけるところかな」
「そんなことで受かるんですか?」
「いや、なんというか……」
「いける限り上にいきたいというか、全力を試してみたいというか」
「そうですか。がんばってくださいね」
舌がザラつく。きっと紅茶に砂糖を入れすぎた。
絵を描いている理由はなんだったのか。きっかけは確かに空だった。でもそれは理由じゃない。解らない。解らなくなりそうだった。絵を描くことの意味を見失ってしまう。それが怖くて仕方なかった。
私が描いてきたものは、いつだって手の届かないものだった。どんなに焦がれようともこの手には触れられないものばかり、描いてきた。手で触れられないものに触れるために、私は描いていたのかもしれない。でも、触れたものは本物じゃない。決して本物ではない。
気がつけば私は絵が描けなくなっていた。
「そういえば、先輩」
「ん? なに?」
「私、いつから先輩のこと先輩って呼んでましたっけ?」
忘れるはずもないのだけど、喋っていないと居心地良すぎて寝てしまう。
「あれ? いつだっけ?」
「……覚えてませんよね」
貴方はそういう人ですから。
チラリと鞄を見やり溜息を吐いた。ここまでするのは正直、気が進まなかったのだけど、仕方がない。
私は虚しく絵を描いていたのか。
違う、そうじゃない。私は確かに空が描きたかった。でも、空を再現したかったわけじゃない。私は絵が描きたかった。綺麗な絵を描きたかったんだ。私が空にもらったものを、私も誰かに見て欲しかった。理由なんてそれで十分なんだ。
私は絵が描きたい、だから絵を描いている。
ただそれだけ。
私は鞄の中から包みを取り出す。中身はガトーショコラ、友達に一番簡単だと教わったケーキ。下手に凝るよりシンプルなほうがいいだろうから、と彼女は向日葵の様な笑顔で言っていた。
「先輩、いつもお菓子ありがとうございます」
確かに、それもそうかな。この人には回りくどいやりかたじゃダメだろうし。
気づかせてくれたのが、先輩だった。
だから今度は、少し鈍感な先輩に思いを伝えてみよう。
誤植、感想、批判などございましたらよろしくお願いします。
しばらく消えていたことに関して活動報告で一通り書かせていただきます。