ライトドロー
第三回「クッキー」
キャンパスに絵の具を叩きつけた。
パレットの上に大量の絵の具を出し、溶き油もほとんどなじませずに、ペインティングナイフですくいとる。零れ落ちる程の絵の具を、一心不乱に絵の具を積み重ね、削り取り、立体的に絵を創り上げる。それは絵画というよりは、一種の彫刻の様だ。
不意に腕が止まった。
「ダメ。全然ダメ」
ペインティングナイフとパレットを椅子の上に置き、スモッグを脱ぐ。大量に付着した絵の具が手に付かないよう、丁寧にスモッグを折りたたむ。
ふと、そこで彼女は顔を上げた。
「あ、」
「え?」
眼が合ってしまった。
「いつからいたの?」
言葉が矢となり、僕を縫いとめる。
彼女は僕へ歩み寄り、もう一度訊ねた。
「いつから、いたの?」
冷たい美貌が眼前で静止する。鋭い眼光はまるでメデューサの瞳。沈黙が蛇となって、首を絞め上げる。鈍色の毒牙が心臓にぴたりと添えられた気分だ。
「さ、」
絞り出した声は妙にかすれていた。
「最初から、見ていました!」
半ば自棄になって叫ぶ。
「そう」
にこり、と彼女は満面の笑みを浮かべる。咲き誇る花の様に可憐な笑みではあったのだが、僕は慄然する。
ドス、という音が聞こえた気がした。見下ろせば、僕の鳩尾にやや小さめの拳が埋まっている。
(選択肢、間違えたかなぁ……)
僕は遠のく意識の中で、漠然とそんなことを考えていた。
眼をあけると真っ白な天井が映る。
「あ、起きましたか」
傍らに彼女が座っていた。
「気分はどうですか?」
「え、えぇ、まぁ」
これといって体調は悪くない。殴られたにしては良好だろう。
「あー」
そう言えば、殴られたんだった。すっかり忘れていた。寝起きだからだろうか。
「さっきはすいませんでした」
「ははは、別にかまいませんよ」
やけに乾いた言葉がでてきた。
「じゃあ、撤回します。謝りません」
「いや、それはないでしょ!?」
仮にも僕は殴られたんですけど。
「作業中に勝手に入ってきた貴方が悪いです」
「いや、それは確かに僕が悪いですけど」
ん? あれ、それって僕が悪いのか?
「だいたい鳩尾殴っただけで気絶って、どれだけ虚弱体質なんですか」
「う……」
確かに体は強いほうではないけども。
「ところで、貴方の名前は」
「は?」
「名前はなんですか、と聞いているんです」
鋭い眼光がサックリと皮膚を切り裂いた。
「ひ、未谷恭介です……」
「羊? 紙でも食べるの?」
「食べませんよ!」
「私は匂坂美月です。以後よろしく」
「できれば、よろしくしたくないです!」
「じゃ、また明日」
「え、また?」
「明日も美術室に来てくださるのでしょう?」
「へ?」
「では、失礼します」
匂坂さんは綺麗に一礼して去って行った。
……なんか疲れた。
昨日の放課後のことを思い出しながら、美術室の前を行ったり来たりしていた。別に彼女に呼ばれたからというわけではなく、僕はここの掃除担当なのだ。本当はあと二人ほどいるはずだけど、来ない。たぶん忘れているんだろう。まぁ、掃除担当といってもゴミ捨てくらいしかすることがないんだけど。
そんなことよりも、昨日の今日で僕はどうしたらいいのか全く解らない。できれば、彼女には関わらないほうがいいんじゃないでしょうか。
「何を突っ立てるんですか」
「ぬわっ!?」
背後に匂坂さんが、気配もなく立っていた。
「いつの間にっ!?」
「気にするほどのことじゃないわ。ただの技術だから」
「どんな局面で使うんだよ!」
「敵の背後をとって、こう……ドスッと」
「まさかの暗殺者!?」
「寧ろ、忍者?」
「末裔なんですか!?」
何バカなこと言ってるの、と匂坂さんは僕を一蹴し、美術室に入って行った。これに続くべきなのか、どうなのか……。
顔を上げれば、匂坂さんが口元だけで二コリと微笑んでいた。
「何してるの?」
「今、行きます」
ヘタレと呼んでもらって結構。
美術室には油彩の独特の臭いが充満していた。匂坂さんは椅子を二つ引っ張り出し、向かい合うように並べた。促されるままに座る。
「単刀直入に言うけど、ちょっと取材させて」
「……取材?」
僕なんかに何を聞きたいというのだろう。
「まず昨日はなんでいたの?」
「ここの、掃除担当で」
「掃除? ふぅん」
口元に手を当て、数秒静止する。
「昨日の私を見て、どう思った?」
「どうって……」
「なんでもいいから。絵を描いてる私はどうだった?」
僕の中で映像がフラッシュバックする。
一心不乱に叩きつけられる絵の具。ただ只管に描かれる絵。美しいか、と訊かれれば美しかっただろう。でも、あれはまるで――
「修行、みたいだった」
「修行……」
腕を組み、彼女はしばし逡巡する。
「修行、ね。間違ってない表現でしょう」
立ち上がり、ニヤリと猫の様に笑う。
「私、今スランプなの」
『絵の参考に色々話を聞かせなさい』
そう言われ、僕は三度美術室の前まで来ていた。
『あ、茶菓子とかあると嬉しいかな』
とか、なんとか宣っていたから、一応用意した。なんかもう逃げる気とかも起きなくなってきている。
意を決し、扉を開けると、匂坂さんはテーブルにティーセットを並べていた。一体どこから持ち込んだのだろう。
「ちょうどいいところ来た。紅茶淹れてよ」
「了解いたしました」
もしかして、優雅にティータイムを過ごす為の雑用が欲しかっただけじゃないのか?
「これ、貴方が焼いたの?」
いつの間にか、僕の持ってきた包みが開かれていた。中身はシンプルなココアクッキー。家にちょうどいい茶菓子がなかったから、仕方なく焼いてきた。
「まぁ、うん」
改めて言われるとなんだか気恥かしい。
「男のくせに?」
「そういうジェンダー意識はよくないと思うんだ!」
いいじゃないか! 男がクッキー焼けたって!
「オトメン?」
「うるさい!」
一悶着があった様な、なかった様な。
僕らはティーテーブルを挟んで、向かいあう。
「今日は何するの?」
「どんなもなにも、普通に世間話?」
そんなのでいいのだろうか?
「貴方、何部なの?」
「え、文芸部だけど」
「文芸……痛いポエムでも作るの?」
「作らないよ! 僕は小説専門だ!」
そして、全国のポエマーに謝れ。
「小説、ね。……スランプの経験は?」
「あるよ」
特に僕みたいに才能のない人間はね。
「どうやって打開したの?」
匂坂さんはクッキーを摘みあげ、恐る恐る口に運ぶ。
「打開したことなんてないよ」
「ま、それはそうね。あ、これおいしい」
呟いて、匂坂さんは次々とクッキーを口へほおりこんだ。それはもう掘削機の様な勢いで皿からクッキーが消えていく。どうやら僕の答えには然程期待はしていないらしい。喜ぶべきなのか、呆れるべきなのか。
「なんか、私は満足した絵が描けないのよ」
あくまで手は休めず、独り言のように呟く。
「百点満点がいつまでたっても出ないの」
……百点満点か。
「絵の参考になるかは解らないけど、さ」
「んー」
匂坂さんがクッキーを口にくわえたままで、相槌を打つ。
「僕は心の底から満足しちゃったら、次へ進めないや」
匂坂さんが固まった。
「満足したものを作り上げて、それで描きたいことを描き切って、その出来に百点満点出しちゃったら、もうそれ以上はいらないんじゃない? というか、僕ならもう無理。それ以上は書けない。勿論、原稿を仕上げた直後に、『書いた。書ききった』って満足感はある。でも、百点じゃない。完璧には程遠い。最高の作品に見えても、時間がたてば粗が見えてくる。それを修正して次へ。また次へ。たまに後退しながら何度だって次へ。いつだって進化を求めている」
――他でもない自分自身が。
「まずは、踏み出さなきゃ始められない。がむしゃらにでも書き続けて、描き続けて、たまに休憩して、悩んで、それでもやめない。昨日の合格点は、今日の及第点でしかないから、僕は書き続ける」
――幻想に縋りついているだけに見えるけど。
――現実に縛り付けられ、苦しいこともあるけど。
――無為に思えることもあるけど。
「僕は書きたいから、書いている」
匂坂さんはクッキーを齧り、不意に立ち上がった。
「スランプ抜けたかも」
「え?」
「描いてる間は邪魔だから、出てって!」
「え、えっ」
「今日はもう帰っていいから!」
「え、え、えっ」
何が何だか解らないうちに、僕は美術室から叩きだされていた。
「…………帰ろう」
「ちょっと見せたいものがあるの」
開口一番に彼女はそう言った。
いつになく嬉しそうな彼女に見せられたのは、一枚の油絵だった。
ひどく表現するのが難しい絵だ。
明度と彩度が入り乱れた背景。中央にパステルカラーで描かれた立方体が、三次元的に眼に飛び込んでくる。この絵は二次元でありながら、四次元を表現していた。
つまり――
「よく解んない」
バシッ、と脛を蹴られた。かなり痛い。
「もう少し褒めたらどう?」
「超越的な絵だね」
今度は足を踏まれた。
「だって、もう凄過ぎてよく解らないよ」
「ハッ、」
鼻で笑われてしまった。
「凡人はこれだから」
やれやれと肩をすくめる匂坂さん。いや、これを理解できる人は空間把握能力が優れ過ぎていると思う。
「まぁ、いいわ」
紅茶にしましょう、と彼女は椅子に座った。自分で淹れる気は無いらしい。
ティンブラを淹れ、持参したクッキーを皿に並べる。今日はシンプルにバタークッキー。
「取材はもういいのかな?」
「もう十分」
匂坂さんはクッキーに手を伸ばしながら、朗らかに笑った。
「じゃ、帰っていい?」
「せっかく来たんだから何か話して行こうとか思わないの?」
そう言われましても……。
「そう言えば、あの時、僕がいたのに気づかなかったよね」
「あー、確かに全く気づかなかった」
「気が散ったりしなかったの?」
「そのくらいじゃ私の集中力には関係ないのよ」
クッキーを齧り、得意げに言った。
「じゃあ、どうして描いてる間は入っちゃダメだったの?」
「それは……」
匂坂さんは俯いてしまう。見る見るうちに、うなじまで真っ赤に染まっていった。
「…………恥ずかしいから」
「え?」
「す、スモッグ着てるとこ見られるのが恥ずかしいんだってば!!」
感想、誤植報告、批評などよろしくお願いしますm(__)m
結構勢いで書きましたw
不得意ジャンル挑戦ということでギャグも入れてみましたが……難しいですねw
いつも以上にツッコミどころがありますので、笑ってやってください(苦笑
色々、直したくはあるんですが、時間が足りない……orz