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小夜

 深夜四時。都心の喧騒から遠く離れた古いマンションの一室で、玄関の鍵が重い音を立てて開く。黒瀬遥が足を踏み入れた室内は、暖房もつけられておらず、冷え切った暗闇に沈んでいた。唯一の光源は、カーテンの隙間から差し込む街灯の頼りない光だけだ。

「……小夜、電気くらいつけろよ」

  遥が気怠げに呟きながら安全靴を脱ぐと、部屋の奥から、ポロロン、と不規則なギターのアルペジオが応えた。リビングの床に直接座り込み、兄が昔使っていた傷だらけのアコースティックギターを抱えているのは、妹の小夜だった。

  彼女の華奢で色白な身体は、遥の古着である黒のオーバーサイズスウェットの中にすっぽりと埋もれている。肩の上で切り揃えた黒髪の間から覗くのは、血のように赤いピンクのインナーカラー。両耳にばちばちと開けられた十数個のシルバーピアスが、僅かな光を反射して冷たく光った。

「……おかえり、遥」

  抑揚がなく湿り気を含んだ声。彼女の指先――剥げかけた黒ネイルの縁からは、弦を押さえすぎたせいで微かに血が滲んでいた。しかし、小夜は痛みを気にする素振りすら見せず、ゆっくりとギターを床に置く。遥がため息をつき、壁のスイッチに手を伸ばそうとした瞬間だった。

「――待って。つけないで」

  小夜がふらりと立ち上がり、音もなく遥の目の前まで歩み寄る。彼女の目は、暗闇の中でも異常なほどに遥のすべてを捉えていた。小夜は微かに背伸びをすると、彼の首筋から胸元にかけて仔猫のように、かつ執拗に鼻先を寄せた。

「……」

  長い睫毛が伏せられ、小夜がゆっくりと息を吸い込む。ややあって、彼女は感情の読めない声でぽつりと呟いた。

「……遥、いろんな匂いがする」

  彼女の言葉に、遥はわずかに眉を動かした。

「……まあな。今日は少し、派手にやったからな。血の匂いがキツいか?」

「それだけじゃない」

  小夜は遥の胸ぐら――作業着の生地を、華奢な指でギュッと握りしめた。

  「鉄の匂い。硝煙。……それから、冷たいインクと、紙の匂い」

  鼻先が、遥の鎖骨の辺りを這うように動く。

「……それに。マーガレッツホープの、ダージリン」

  小夜が紡いだその名前に、遥はわずかに目を丸くした。桐生慧の事務所で、ソフィアが淹れてくれた最高級の紅茶。一瞬で飲み干しただけのその微かな香りを、小夜は完全に嗅ぎ分けていた。いや、嗅ぎ分けたというよりは、遥に付着した自分以外の人間の気配を、本能で察知したのだ。

「……嫌だ。全部、知らない匂い。気持ち悪い」

  小夜の言葉は、まるで熱を持たない呪詛のように暗い玄関に溶け落ちた。握りしめた作業着の生地を、ちぎれんばかりに強く引き絞る。

  遥は短く息を吐き、彼女の細い手首を無造作に掴んで引き剥がそうとした。しかし小夜の指先は、作業着の布地を血が滲むほど固く握りしめたまま、頑として離れない。

「風呂入るから、離れろ小夜。血の匂いなんか嗅ぐもんじゃねえ」

「……血の匂いは、いい」

  小夜は顔を上げず、遥の胸元に額を擦りつけるように呟いた。

「これは、遥があたしのために戦ってくれた証拠。だから、いい」

  彼女の黒ネイルが、遥の作業着の上に残る血の染みをなぞる。それはまるで、愛おしい宝物に触れるかのような、ひどく倒錯した仕草だった。

「……でも、あの紅茶は嫌。女の匂いがする」

  言い終える前に小夜の声が震える。それは嫉妬というありふれた感情より、もっと重く切実なもの。自分の神聖なテリトリーに、不純な外界の空気が入り込んだことへの嫌悪感だった。

  彼女は遥からそっと身体を離すと、冷え切った暗闇の中、音もなくリビングのテーブルへと向かった。そこには、遥がいつも愛飲している、強いタールの煙草の箱が置かれている。小夜はそれを一本抜き取ると、自身の薄い唇に咥えた。カチャッ、とジッポライターの硬質な音が響き、小さなオレンジ色の炎が、彼女の病的なまでに白い肌と、ピアスだらけの耳元を妖しく照らし出す。

「……小夜、お前また」

  遥が止める間もなく、小夜は深く、とても深く煙を吸い込んだ。本来ならむせ返るような強い煙草。兄と同じ匂いを好む彼女は、平然とそれを肺の奥底まで流し込む。そして、再び彼の目の前まで歩み寄った。

「遥」

  小夜がつま先立ちになる。華奢な両腕は、蛇のように遥の首に絡みついた。

「……んッ」

  遥が抗議の声を上げるより早く、小夜の冷たい唇が、彼の口を塞ぐようにごく僅かに開かれた。そして、彼女の肺腔に満たされた濃厚な紫煙が、遥の口内へ直にゆっくりと吐き出されていく。

「……っ、げほっ……バカ、お前……ッ」

  不意打ちの煙に咽せ、遥は顔を背けた。だが、小夜は絡みついた腕を解かない。むしろ――逃がさないとばかりに、余計に強く彼の首に縋りつく。

「……はい。上書きできた」

  小夜は煙草を咥え直しながら、至近距離で遥を見上げた。先程まで彼女の鼻腔を苛立たせていた、ソフィアの淹れた上品な紅茶の香り。それは今、二人が共有する強烈な煙とニコチンの苦味によって、綺麗に塗り潰された。

「遥の匂いは、これだけでいい」

  小夜は満足そうに目を細めると、遥の首から腕を解き、再び床に置かれたギターへと歩み寄った。遥は小さく咳き込みながら眉間を揉む。

「はぁ……俺は飯食うぞ。お前も何か食ったか?」

「いらない」

  ギターを抱え直した小夜は、ポロロン、とまた不規則なアルペジオを爪弾き始めた。指先の滲んだ血が古い弦を赤く汚していくものの、彼女は全く頓着しない。

  遥は短く息を吐くと、薄暗いキッチンの冷蔵庫を開けた。賞味期限が近いコンビニのサンドイッチと、飲みかけのミネラルウォーター。それだけを取り出し、手早く腹に詰め込む。食事というよりは、ただ生命を維持するための作業だった。その間も背後からは小夜の弾く、ひどく単調で、どこか悲しげな旋律が絶え間なく続いている。

「……ねえ、遥」

  ふと、ギターの音が止んだ。小夜の声は先程の煙草のせいか、いつもより少しだけ掠れていた。

「今日、潰したやつ。……お父さんとお母さんを奪った奴らに繋がってた?」

  静かな、けれどほんの少し熱の入った問いかけ。遥はサンドイッチを咀嚼する手を止め、よく冷えた水で強引に流し込んだ。

「いや。ただの末端だ。金で動く薄っぺらいゴミ」

  遥の右腕の刺青が、薄暗いキッチンで生き物のように微かに蠢いた気がした。

「だが、あの"ベラドンナ"って事務所の裏金は、慧のところの嬢ちゃんが全部使えなくした。……資金源が干上がれば、必ずアイツらの本丸が動くはず。んで凪がそこを叩く」

「そう」

  小夜はそれだけ言うと、再びギターの弦に指を置いた。

「……早く、全部消そ。遥」

  それは、兄への信頼であると同時に、彼を修羅の道へと縛り付け続ける、甘く残酷な呪いの言葉だった。目の前で両親を奪われた悪夢の日から、二人の時計は止まったままだ。遥は空になったペットボトルをゴミ箱に放り投げると、作業着のジャケットを脱ぎ捨て、小夜の座る床へと歩み寄る。

「あぁ。全部俺が殺し潰す。お前は待ってろ」

  小夜の背後に回るようにして、遥は胡坐をかいて座り込んだ。そして彼女が抱えるギターごと、その華奢で冷え切った身体を背後から、不器用に強く抱きしめる。

「……ん」

  小夜は抵抗しなかった。むしろ、兄の大きな身体にすっぽりと収まるように体重を預ける。遥の右腕の刺青が小夜の腕に重なった。剥げかけた黒ネイルの指先が、彼の骨ばった手の感触を確かめるように這う。

  部屋を満たすのは、小夜が吐き出した強いタールの匂いと、遥が持ち帰った微かな血の匂いだけ。二つの体温が重なり合い、不規則な心音が、静寂のリビングに微かに響き始めた。

「……遥」

  小夜が、遥の胸に頭をもたせかけながら、囁くように呼んだ。その声は兄を求める幼子のようでもあり、夜の底へ引き摺り込もうとする魔性のようでもあった。外のネオンが窓ガラスの向こうで黙って瞬いている。遥の体温と、小夜の細い息。古い楽器の冷たい木の感触。それだけが、冬の底に沈んだこの部屋を、かろうじて生の感じられる場所にしていた。

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