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九条迎賓館

 数日が経っていた。ペントハウスの一件も、廃工場の夜も、下北沢の路地も、孤児院の夕暮れも——全部が同じ週の出来事だとは思えないほど、それからの数日間は静かだった。

  遥は表の仕事に戻り、高層ビルの窓を拭く。冬の朝の空気は澄んでいて、ロープ一本で宙に浮く視界の中、東京の街が箱庭のように広がっていた。地上からは見えない場所から、地上の全てが見える。遥はいつもそこで煙草を一本吸った。風が強い日は火が点かないから、ただ咥えるだけだった。作業着のハーネスを外す時、頬のガーゼが引っ張られて傷の輪郭を思い出させる。もう塞がりかけていた。

  小夜は専門学校へ通い、遥の古着に埋もれて帰ってきた。

  デザイン専攻の教室はそれなりに人が多い。同じ課題に向き合う学生たちが机を並べ、互いの作業を覗き込んだり、講評で言葉を交わしたりする。小夜はその全てを、最小限の距離で済ませていた。特に男子学生は、小夜の周囲に近づく時に妙な緊張感が走ることを早々に学習していた。話しかけようとすると、返事が来る前に視線が来る。感情の色のない、温度の低い視線。それだけで、踏み込んではいけない場所だと全身で理解させられる。何人かが試みて、何人かが引いた。今では自然と、小夜の机の周囲だけ、適度な空白が生まれていた。

  ある日の帰り道、駅前のロータリーで声をかけてきた刈り込みの男がいた。小夜は立ち止まらなかった。黒い厚底ブーツの歩調を変えようともしない。ただ視線を前に向けたまま、男の言葉を空気として処理していた。軽薄な笑みを張り付けながら男が横に並ぼうとした、その瞬間だった。

  「遅かったな」

  向こうから歩いてきた遥が、小夜の名前を呼ぶより先に、小夜の方が先に動いた。彼の腕にするりと自分の腕を絡める。何の予告もなく、何の躊躇もなく。遥の作業着の袖ごと自分の細い腕で抱えるようにして、そのまま歩き続ける。

  声をかけてきた男は、遥の顔を一度だけ見た。眠たげだが奥に鋭さの宿る目つき。無駄のない鍛え抜かれた体格。右腕に彫られた刺青の端が、袖からわずかに覗いている。男は一瞬フリーズすると、何も言わずに来た方向へと引き返した。

「……迎えに来た」

  遥が言った。

「知ってる」

  小夜が答えた。腕を絡めたまま、前を向いたまま。絡めた腕の力が少しだけ強くなった。それ以上の説明は、どちらもしなかった。

  凪は相変わらず昼夜逆転のままで、エナジードリンクの空き缶をどこかに積み上げながら、電子の海を泳いでいた。仕事の合間にゲームをするのか、ゲームの合間に仕事をするのか、本人にも判然としていなかった。複数のモニターの一つには常に攻略中のタイトルが映っていて、敵のAIの動きを分析しながら"パターンが単純すぎてつまらない"と呟いた二十分後には、そのパターンを利用したチートコードを組んでいた。純粋に楽しんでいるのか、ただ分解したいだけなのかの区別がつかない。

  ある夜、遥が事務所に立ち寄った時、凪はコントローラーを持ったまま天井を向いていた。

「何やってる」

「裏ボス倒した後の虚無」

「寝ろ」

「眠くないし」

  凪はコントローラーを置いて、新しいエナジードリンクを開けた。カシュッという音が、深夜の事務所に響いた。

  慧は弁護士業務を片付けながら、その合間にずっと何かを調べていた。しかし、調べるだけがその数日間の全てではない。彼には、考え事が深くなる時ほど台所に立つ癖がある。孤児院から戻った翌日、事務所のキッチンで鴨のコンフィを仕込み始めた慧を、ソフィアが発見した。

「……桐生サン、今日は依頼人との打ち合わせが三件あります」

「分かってる。これは低温で八時間かかるから、今仕込まないと夜に間に合わないんだ」

「何のために間に合わせるんですか」

「みんなに食べさせたいから」

  ソフィアは二秒間沈黙してから、打ち合わせのスケジュールを一件ずらした。その夜、事務所に集まった面々の前に慧が皿を並べた。鴨のコンフィに、根菜のソテー、それからバゲット。凪が"なにこれ"と言いながら、結局三度おかわりした。遥は無言で食べ、"悪くない"とだけ言った。慧はその言葉を上機嫌の証として受け取った。

  別の夜には、ビーフシチューだった。さらに別の夜には、鯛の昆布締めと茶碗蒸しという、和洋入り混じった献立になった。凪が"方向性は?"と聞くと、慧は"食べたいものを作っているだけだ"と答える。料理をしている慧は銀貨を転がさない。それが遥の、この数日間の小さな発見だった。

  ソフィアは六課から受け取った情報ルートを、丁寧に、かつ静かに紐解いていた。尚、その合間に香水が一本――ではなく三本増えた。

  きっかけは些細なことだった。情報整理の気分転換にと立ち寄った百貨店の香水売り場で、試した一本が思いのほか気に入ってしまったのだ。それだけのはずだった。しかし棚を見ているうちに、隣の一本も気になり、さらにその隣の一本も試して——結局、三本の紙袋を提げて事務所に戻ってきた。デスクの端に並べながら、ソフィアは自分でも少し驚く。こういう買い方をしたことは、今まであまりなかった。

  翌朝、出勤した凪が紙袋を見て言った。

「え。香水、また増えてんじゃん」

「香水は消耗品です」

「三本同時に?」

「それぞれ用途が違いますので」

「香水に用途って……まあいいけど」

  凪は興味を失ったように画面に向き直る。ソフィアは三本の瓶を棚の奥にしまいながら、一本だけ手元に残した。その香りを選んだ理由を、ソフィアは自分でも正確には説明できない。ただ、試した時に真っ先に思い浮かんだのが――煙草の匂いが染み着いた古い作業着だったということだけは、誰にも言わなかった。

  何も起きていない数日間のように見えた。しかし桐生法律事務所の奥では、見えないところで着実に、目的地への道程を進みつつあった。



  招集がかかったのは、その週の木曜日の夜だった。

  遥が事務所に着いた時、凪はすでにソファの背もたれに脚を乗せ、タブレットを天井に向けて操作していた。慧はバーカウンターに寄りかかり、今夜はグラスを持たずに腕を組んでいる。ソフィアはデスクの前に座っていたが、書類やパソコンなどを触る手は止まっていた。その手が膝の上で静かに畳まれている。

  三人の空気が普段と少しだけ違った。重い――というのとも違う。ただ、何かに向き合う人間の息を整える静けさがあった。

「遥、座れ」

  慧が言った。いつもの飄々とした声だったが、その底にある温度が今夜は少し違う。言われるがまま遥はソファに腰を下ろした。

「まず、例の四人組――RAVENSについてだ」

  凪がタブレットを操作し、手元の画面に情報を展開した。

「先週の遥の報告を受けて、楽器屋"RAVENS NOTE"を一通り調べた。……結論から言うと」

  凪は少しだけ間を置く。何やら言葉を選んでいる感じがした。

「俺たちの標的じゃないと思う。少なくとも今は」

「根拠は」

「いくつかある」

  凪はタブレットの画面を遥の方へ向けた。

「まず依頼の受け方。RAVENSが請け負った案件を追えた分だけ洗ったけど――無闇矢鱈に受けてる様子がない。依頼主の選別をしてる。政府筋と大企業からに限定されてて、しかもその中でも断ってる案件がある。何を基準に選んでるのかはまだ分からないけど、少なくとも金さえ払えば誰でも殺すタイプじゃない」

「楽器屋の方は」

「本物だよ、あれ」

  凪は少し面倒くさそうに頭を掻いた。

「ビンテージ楽器の仕入れルート、修理の技術記録、顧客台帳――全部ちゃんとある。しかも質がいい。楽器屋としての評判も本物で、音楽関係者のコミュニティでは結構名前が通ってる。……裏の仕事と並行して、あの店を本気でやってる感じ」

「信念がある、ということか」

  慧が口を開いた。

「どういう類のものかはまだ分からない。でも、見境のない集団でないのは確かだ。……僕たちが今狩るべき相手の定義に、今のところ当てはまらない」

  遥は黙っていた。下北沢の路地での、あの一秒間を思い出していた。朔の虚ろな目が遥を見ていた時の感触。あれは警戒の色だったが、同時に何かを思案していた目でもあった。何を考えていたのかは今もまだ分からない。

「除外、でいいか」

「一旦はね。ただし」

  慧の声が少しだけ硬くなる。

「接触には注意してくれ。特に小夜ちゃんが一人で近づくような状況は作らないように」

  遥は短く答えた。

「分かった」

  一拍の沈黙があった。凪がタブレットの画面を切り替える。今度は、操作するその手が少しだけ遅かった。

「……次の話をする」

  慧の放つ声のトーンがまた変わる。先程までのそれより慎重だった。銀貨を指に転がす仕草もなかった。腕を組んだまま、正面に遥を見据えている。

「"九条迎賓館"という組織を知っているか」

  遥は首を軽く縦に振った。

「名前だけ。目にしたことなら」

「そうか」

  慧は一度だけ目を伏せた。それからゆっくりと顔を上げ、眼鏡の位置を直す。いつもの動作のように見えたが、今夜のそれは、心の中で何かを整理するための間のように見えた。

「少し長くなる。……聞いてくれ」

「九条迎賓館。京都にある、完全紹介制の高級会員制サロンだ」

  慧は静かに語り始めた。

「表向きは政財界の重鎮や有力者が集まって、最高級の茶や酒を楽しむ場所。築二百年を超える京町家が拠点で、会員になるだけで相当の素性の証明が必要になる。……表の顔は、完璧に整っている」

「裏は」

「国家や資本家の"都合の悪いこと"を消す組織だ」

  彼の声は穏やかだったが、その穏やかさの中に冷たい空気が流れていた。

「依頼の最低料金は数千万。内容によっては金ではなく"貸し"一つという契約形態もある。依頼主は政治家、資本家、官僚——社会の上層にいる人間たちだ。彼らが引き起こした問題や、邪魔になった人間を九条迎賓館が優雅に裁く。それが彼らの理念だ」

「警察は」

「察しの通り。癒着している」

  慧は短く、しかし明確に言った。

「一部の警察組織と深く結びついているね。だから公安も、これまで手を出せなかった。烏丸さんが"手に負えない"と言う相手が、この街にどれだけいるか――中でも、この九条迎賓館は別格だと思っていい」

  凪が天井を見上げたまま、エナジードリンクの缶を静かに置いた。珍しく音を立てなかった。

「……それが、なんでここに出てくるんだ」

  遥が尋ねる。

「ベラドンナの大元だからだ」

  静寂があった。エアコンの低い音だけが事務所を満たしている。遥は何も言わない。ただ、右腕の刺青が薄暗い室内で微かに見えた。慧はその沈黙を、急かさなかった。

「……確かなのか」

「ああ」

  慧は腕を組んだまま、静かに続けた。

「ベラドンナの資金源を凍結した後、金の流れを逆に遡っていた。ソフィアが法的な経路を、凪がデジタルの経路を、それぞれ辿ることでね。……表の口座、ダミー法人、海外のペーパーカンパニー、複数の暗号資産ウォレット。その全部を繋いでいくと、最終的に一つの場所へと行き着いた」

「それが――九条迎賓館」

「正確には、当該組織の資金管理を担っている法人だ。直接の名前は出てこない。しかし構造があまりにも一致している。それだけじゃなく――」

  一度だけ間を置く。

「クロムウェルの鷹羽から得た上位依頼主の情報。あの中に含まれていた口座番号のうち、二つが九条迎賓館の系列法人のものだった」

  遥の目が僅かに動いた。

「繋がってた」

「ああ。繋がっていた」

  慧は静かに繰り返す。

「ベラドンナ、クロムウェル――規模も手口も性質も違う二つの組織が、同じ場所から金を受け取っていた。九条迎賓館は単独の暗殺組織ではなく、複数の実行部隊を使い分けながら依頼をこなす、いわば殺し屋の元締めだ」

  彼の声がさらに一段低くなった。

「ただし……それだけじゃない」

  慧は一度だけ目を伏せる。

「凪、頼む」

「……うん」

  凪はいつもより僅かに重い声で言った。タブレットの画面を操作する指が、今夜は少しだけ遅かった。

「鷹羽の通信記録を解析してた時に、過去の依頼履歴の断片が出てきた。暗号化が強くて全部は読めなかったけど――その中に、都内の一般市民を対象にした、約八年前の案件の記録があったんだ」

  その瞬間、遥の呼吸が微かに変わった。

「発注元の法人コードが、九条迎賓館の系列と一致した。……それだけじゃ状況証拠にしかならないけど」

  皆の様子を伺いながら、凪は少しだけ間を置く。

「九条迎賓館のインフラを覗いた時に、過去の依頼記録の断片も引っかかった。完全には解読できてない。でも……処理済みとだけ記された案件の日付が一つ、お前の両親が亡くなった夜と一致してた」

  静寂があった。

「それから」

  今度は慧が続けた。

「遥、お前が覚えている実行犯の特徴——動き方、装備、人数、言葉の選び方。それらを別ルートで入手した、九条迎賓館の下請けの様式と照合した。……完全な一致とは言えない。ただ」

「限りなく黒だ」

  遥が先に言った。

「……ああ」

  慧は静かに頷いた。

「確定的な証拠はまだない。しかし複数の状況証拠が合致している。……これ以上は、実際に奴らの懐に入らないと取れない」

  遥はしばらく何も言わなかった。バーカウンターの間接照明が、室内を落ち着いた琥珀色に染めている。ソフィアがデスクの前で、膝の上で組んだ手を、静かに握り直した。凪はタブレットを膝の上に置いたまま、画面を見ていなかった。遥の右腕の刺青が、照明の角度で、生き物のように浮かぶ。

「……首魁は」

  やがて遥が口を開いた。至って平静だが、奥に何かが燃えていることが分かる抑えた声だった。

(おおとり)耀(よう)。三十歳」

  慧は答えた。

「九条迎賓館の頭目だ。表向き、由緒ある家系の若き当主という顔を持っている。……ただし、その実態は――」

「聞かせてくれ」

「傲慢で、残虐で、他者を見下すことを愉しむ人間だ。殺しの前に拷問することを好み、相手の精神を完全に破壊することに悦びを感じる。……そして、それを支えるだけの実力を本人も持っている」

「強いのか」

「素手の体術、弓による奇襲、鞭――複合的な戦闘スタイルを持つ。加えて、高身長から来るリーチとパワーがある。これまで九条迎賓館に正面から挑んで、生き残った人間の記録はない」

  凪が低く舌打ちをした。

「……生き残った記録がない、ってのは公安も含めてか」

「含めてだ。……烏丸さんが手を出せないと言う理由のひとつが、これだよ」

  遥は瞼を閉じる。一秒だけそうして、また開く。その目に冷ややかな熱が見え隠れしていた。

「ソフィア」

  慧がデスクの方へ顔を向ける。

「例の草稿の件を話してくれるか」

  ソフィアが顔を上げる。膝の上の手を解いて、デスクの上のファイルに指をかけた。いつもの冷静な碧眼だったが、今夜はその奥に、普段とは違う光があった。何かを突き止めた人間の、静かな興奮と、それを上回る慎重さが同居している目だった。

「……先日、烏丸サンから提供していただいた情報ルートですが」

  ソフィアは言葉を選びながら、ゆっくりと話し始めた。

「某省の規制法案の草稿。内容は、特定の民間企業による安全保障関連事業への参入規制を大幅に緩和するものでした。表向きは経済活性化のための規制改革という名目です。しかし草稿の中身を精査していくうちに、いくつかの点が引っかかりました」

「具体的には」

「規制緩和の対象となる企業リストが、草稿の中に非公式に添付されていました。その企業のいくつかを調べると、九条迎賓館の系列法人と資本関係がありました」

  凪が低い声を出した。

「……それって、つまり」

「つまり」

  ソフィアは静かに、しかし明確に言った。

「この規制法案が通れば、九条迎賓館と繋がりを持つ企業群が、安全保障関連の事業に合法的に参入できるようになります。軍需関連の情報、防衛省との契約、警察組織との公式な繋がり……それらへのアクセスが、法律の枠組みの中で正当化される」

「法の隠れ蓑を作ろうとしている、ということか」

  慧が静かに言った。

「それだけではありません」

  ソフィアの声に、わずかな緊張が混じった。

「草稿の作成に関わった省内の担当者を調べると、そのうちの一人が……九条迎賓館の会員リストに名前があります。烏丸サンの情報ルートから入手した、非公式の会員名簿との照合ですが——一致しています」

  事務所が静かになった。エアコンの音だけが続いている。

「つまり」

  遥が継ぐ。

「法案の中身を、九条側に都合よく書いた人間が、省の中にいる」「そういうことになります」

  ソフィアは頷いた。碧眼が真っ直ぐに遥を捉えている。

「この法案が通る前に止めなければ、九条迎賓館は現在の半ば非合法な立場から、国家の枠組みの中に合法的に組み込まれることになります。そうなれば――」

「手が届かなくなる」

  遥が遮った。

「今でも公安が手を出せない相手が、法律まで味方につける」

「……はい」

  ソフィアの声に、珍しく、感情の色が滲む。

「法律を使って人を守ることが、私の仕事だと思っています。しかしこの法案は――法律を使って、守られるべきでない者を守ろうとしている。それが……許せません」

  最後の一言だけが僅かに震えていた。ソフィアはすぐに気付いて、小さく息を整える。遥はその一言を確かに聞いていた。しばらくの間、誰も口を開こうとしない。すると、慧がようやくバーカウンターから身を起こした。

「今夜の話を整理する」

  静かな、しかし全員の意識を引き寄せる声だった。

「九条迎賓館はベラドンナの大元であり、お前たちの両親を奪った組織の源流にいる可能性が極めて高い。そして今、法律を使って自分たちを守る壁を作ろうとしている。……この壁が完成する前に、動く必要がある」

「法案の審議はいつだ」

「ソフィアの試算では、早ければ来月中に委員会へ提出される」

「時間がない」

「ない。だから――」

  言葉を継ぎつつ、慧は眼鏡の位置を直した。銀縁の奥の目が今夜は珍しく、真っ直ぐに遥を見ていた。

「段階的に動く。まずソフィアが法案の瑕疵を洗い出し、審議を遅らせるための法的な手段を探す。凪が九条迎賓館のデジタルインフラを調べ、使える穴を探す。そして」

「俺は」

「まだ動くな」

  遥が少し目を細めた。

「今は情報が足りない。相手の実力も、拠点の構造も、人員の配置も――何も分かっていない状態で動いても、ただ死ぬだけだ。奴らは今まで俺たちが相手にしてきた連中とは、格が違う」

「分かってる」

「本当に?」

  慧の声は穏やかだったが、その問いには珍しく直接的な重さがあった。遥は少しだけ間を置いて繰り返す。

「……分かってる」

  その答えを数秒間見つめてから、彼は小さく頷いた。

「信じるよ。……ただ、遥」

「ん」

「今夜の話を、小夜ちゃんには」

「伝える」

  慧の眉が僅かに動いた。

「……いいのか」

「あいつには、知る権利がある」

  遥は短く答える。それ以上でもそれ以下でもなかった。慧は少しだけ目を伏せてから、また顔を上げた。

「……そうだね。そうかもしれない」

  凪が、長い沈黙の後でようやく口を開いた。

「……ねえ、慧」

「なに」

「九条のデジタルインフラ、さっそく少し覗いてみたんだけど」

  目を丸くしつつ慧が凪を見た。

「いつの間に」

「今さっき、この話聞きながら」

「……呆れたな」

「その言葉は聞き流すね。それで――」

  凪はタブレットの画面を眼前に引き寄せ、目を細めた。

「セキュリティの質が、今まで相手にしてきた連中とは別次元! クロムウェルの暗号化なんて、こいつらと比べたら子どものおままごとレベルだよ。……たださ……正直に言うと」

  凪は珍しく言葉を切る。その間が、場の全員に何かを伝えた。

「ちょっと楽しくなってきた」

  誰かがふっと息を吐き、ソフィアは小さく"不謹慎です"と言った。凪は"分かってる"と自嘲気味に返す。しかしその声のトーンに、いつもの気怠さとは少し違う色が混じっていたことを、誰もが聞き取っていた。



  事務所を出る前に、遥はソファから立ち上がりながらソフィアの方を見た。彼女はすでにタイピングを再開していた。画面に向かう横顔は、いつもの冷静な法務助手のそれに戻っている。しかし今夜"許せない"と言った時の声を、遥はまだ覚えていた。

「ソフィア」

  彼女の手が一度だけ止まる。

「……はい」

「よく調べた」

  それだけだった。遥は振り返らずに扉へ向かう。ソフィアは遥のその背中を黙って見つめていた。遥が桃花心木の扉を開けて廊下に消えていき、そして閉められた。

  ソフィアは画面に向き直る。耳の先端が、モニターの光の中でほんの少しだけ赤くなっていた。タイピングを再開しようとするも、指がキーボードの上で止まったままだった。

  よく調べた。

  たった六文字。振り返りもせず、特別な声色でもなく、ただ廊下へ消えていく前に落としていった言葉。黒瀬遥という人間が他者に向ける言葉としては、それが精一杯なのだということをソフィアはもう知っていた。知っていた上で――それでも、胸の中に何かが積もった。

  法案の草稿を初めて読んだ夜のことを、ソフィアは思い出していた。

  深夜のデスクで、条文を一つ一つ読み解きながら、最初は純粋な法律の問題として向き合っていた。しかし読み進めるうちに、その条文の向こう側に見えてきたものがある。誰かが意図を持って書いた言葉の歪み。法律の皮を被った法律への冒涜。それを捕まえた瞬間、ソフィアの中で何かに火が点いた。

  法律は守られるべき人間を守るためにある。それが彼女の――この仕事に就く前からの、根っこにある信念だった。今夜、その信念が初めて別の何かと重なった気がした。

  遥が両親を失ったのは、十五歳の夜だったと以前に聞いていた。詳細は知らない。しかしこの事務所で過ごした時間の中で、断片的に、ソフィアはその輪郭を知っていた。法が届かなかった場所で、法が届かないやり方で、二人の人間が消された。遥はその後、自分の体一つを鍛えることで、法の届かない場所へ自ら降りていった。そして今、その元凶が法律を使って自分を守ろうとしている。

  ソフィアは深く静かに息を吐いた。パソコンの画面を開く。今夜の会議で名前が挙がった省内の担当者。その人間の公開情報、所属委員会、過去の立法への関与。調べられることは幾らでもある。慧から"動け"という命令はまだ下されていない。しかしソフィアの指は、すでにキーボードの上を動き始めていた。

  指示を待つ必要はない――いや、正確には待てない。頭の中で審議までのタイムラインを組み上げた。法案が委員会に提出されるまでの猶予、パブリックコメントの受付期間、関連する省令の改正スケジュール。使える時間を逆算していくと、動き出すなら今夜から、という結論しか出てこない。合法的な手段で審議を遅らせるには、先手を打つ必要がある。誰かに相談している時間は――。

「ソフィア」

  不意に慧の声がしてソフィアの指が止まる。振り返ると、バーカウンターの前に立ったままの彼と目が合った。凪はいつの間にかヘッドホンを耳にかけ、別の作業に入っている。慧だけがソフィアの方を静かに見ていた。

「今夜はここまでにしなさい」

  穏やかな声だった。しかしその波の底に、全てを見通しているような確信を感じ取れた。

「……でも、時間が」

「分かっているよ」

  慧が宥めるように遮る。

「段取りはまた明日、一緒に考える。独断で動くな」

  ソフィアは少しだけ唇を結んだ。反論の言葉が喉の手前まで来たが、慧の目を見た時――その目の奥に、咎めるでなく心配の色があることに気付く。彼女はゆっくり息を吐いた。

「……はい」

  答えは短かい。納得しているのか、していないのか――その境界が曖昧なままだった。慧は小さく頷いてから視線を外し、ソフィアは画面に向き直る。開いたままのタブを一つだけ閉じた。一つだけ。残りのタブはそのままにした。

  やがて、タイピングの音が静かな事務所に戻ってきた。その音は慧に聞こえていたが何も言われない。窓の外では、東京の夜が変わらず続いていた。

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