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幻術師の泡沫花嫁  作者: 染井由乃
第一章「涙の盗人」

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第五話

「……どこへいったのかしら」


 翌朝。朝焼けとともに起床し、すずさんたちが用意してくれていた着物に着替えたわたしは、昨夜過ごしていた書斎に再び足を運んでいた。


 窓辺の読書用の席には、朝日が差し込んでいる。そこで昨日わたしは長い間本を読んでいたのだ。外国の本を翻訳した小説のようで、主人公があんまりつらい目に遭うのでついぼろぼろと涙を流してしまったのだ。これが、近ごろのわたしの日課でもあった。


 初日の夜に匹敵するほどの涙はなかなか流せないが、本の世界の登場人物たちに感情移入することで、人魚の涙を流しているのだ。地道に貯めて、昨日の夜にはついに小箱いっぱいに人魚の涙を集めることができた。


 それを彼に渡そうと考えていたのだが、小箱自体が見当たらない。彼が回収したのなら構わないが、一度目のときにあれだけ律儀にお礼を言ってきた彼が、その話題に触れないのは不自然だった。


 だからこうして書斎に探しにきたのだが、見当たらない。机の下に落としたわけでもなさそうだ。


 ……どうしよう。これでは彼に捧げられるものがなくなってしまうわ。


 彼はどうも、わたしに贅沢をさせすぎている節がある。術具を用いた浴室に始まり、食事や間食に至るまで何もかもが復讐相手に与えるには上等すぎる。着物に至っては、毎日違う色と柄の純絹のものを与えられていた。今日だって、美しい白群の着物が用意されていたのだ。日によっては着物に合わせた髪飾りまで用意されている始末で、こんな調子ではわたしがいくら涙を流し続けても、彼の損害を返しきれない。


 ……これもわたしを「逃がさない」ためなのかしら。


 時折彼が口にする言葉を反芻してみる。浅海の家に比べればここは天国だ。逃げたいなどと思っていないが、彼は油断するとわたしが逃げ出すと思い込んでいるらしい。


 彼は、わたしが浅海家がこの婚姻で受け取ったお金を返しきったら、ここから出ていくと思っているのだろうか。いくらなんでもそこまでの身勝手はしない。それでは彼が得られたものは何もない。彼が言った通り、死ぬまで彼のそばで人魚の涙を捧げ続けるのがわたしの役目なのだ。それをこちらから放棄するつもりはなかった。


「千花さま、こちらにいらしたのですね」


 涼やかな声が聞こえて、はっと振り返る。気づけば書斎の入り口の近くに、藤色の着物を纏った女中の姿があった。りんさんだ。


「おはよう、りんさん。探させてしまっていたらごめんなさい」


 半月かけてようやく、りんさんとすずさんを見分けることができるようになった。右目にほくろがあるのがりんさんで、左目にほくろがあるのがすずさんだ。りんさんのほうがすずさんよりも、大人びた印象を受ける。まとめ髪に乱れひとつない、女中の鑑のような女性だ。


「千花さまはこのところご本に凝っていらっしゃいますから、すぐに見つけられました。……朝餉の支度が整っております」


「ええ、ありがとう」


 にこりと微笑みかけてから、机の辺りをもういちど見渡す。おそらく彼も待っているのだろうし、ここには後でもういちど探しにきたほうがいいだろう。


「何かお探し物でございますか?」


 机や床のあたりを見渡すわたしの視線で勘づいたのか、りんさんが近寄ってくる。やはり何度見てもないものはなかった。


「水色の布が張られた小箱を探しているの。昨夜ここに置いたはずなのだけれど……」


「水色の布が張られた小箱、でございますね。わたしとすずでも探してみます」


 そういえば、と彼女の横を見やる。いつもふたりで行動しているのに、今日はすずさんの姿がない。


「すずさんは? 今日はお休みなの?」


「いいえ、すずは今日、食事の支度をしております。いつも厨を担当している八重が急遽休みをいただきましたので」


「そう……」


 足腰を痛めていると言っていたから、心配だ。使用人部屋で休んでいるのなら、後で見舞いに行ってみよう。


 これ以上彼を待たせるわけにもいかず、りんさんとともに書斎を出る。未練がましく扉が始まる間際にも室内を確認してみたが、人魚の涙ひとつ落ちていなかった。





 すずさんが用意してくれたという朝食は、八重さんが作ったものとはまた一味違った。焼き魚やお米の炊き加減は素晴らしかったが、おひたしやお味噌汁がやや塩辛い。もちろん作ってくれたすずさんの手前すべていただいたが、食後には思わずお茶をおかわりしてしまった。


 彼も何も言わずに食べていたが、食後に水を二杯くらい一気に飲んでいたので相当塩辛かったのだと思う。そばに控えていた水野さんに、何かをぼそりと伝えていた。


 部屋の隅に控えていたりんさんが、隣に立つすずさんを肘で小突いている。すずさんはりんさんに何かを言い返そうとしていたようだが、わたしと彼の手前やめたようだった。


「今日も、出かけてきます。昨日と同じくらいの時間に帰るでしょうから、お嬢さまは先におやすみください」


 場の空気を仕切り直すように、彼は切り出した。この半月でわかったことだが、彼が洋装を纏っている日は幻術師としての仕事や、月雲家の当主としての用事があるときだ。反対に休みの日は和装なようだが、まだ数回しか見ていないので定かではない。


「わかったわ」


 彼の手を煩わせるわけにもいかないし、彼に言われたとおり、今夜は部屋に本を持ち込んでソファーか寝台で読んでいよう。


 席を立つ彼に合わせて、わたしも立ち上がり後をついていく。彼が出かけるときには玄関まで見送るのがだんだんと習慣になり始めていた。


「前にも申し上げましたが、見送りなどなさらなくて結構です、お嬢さま。どうせ夜には帰ってきます」


 玄関広間で水野さんから上着を受け取りながら、彼は半身で振り返った。彼の背後でゆっくりと扉が開かれていく。


「迷惑じゃないなら、お見送りしたいわ」


「迷惑ではありませんが……」


 黒い外套を羽織って、彼は言葉とは裏腹に苦虫を噛み潰したような顔をする。やはり、出がけにまでわたしにまとわりつかれているのは不快なのかもしれない。


 しゅんと肩を落としながらも、彼に確認せねばならないことがあると思い出し、鞄を手にした彼に声をかける。


「あの……昨日わたしを運んでくれたときに、小箱を回収したかしら? この前と同じ……水色の布が張られた小箱になのだけれど……」


 彼が無事に回収してくれていたのなら、りんさんたちの手を煩わせて探す必要はない。渡すべき人の手に渡っているのだから。


 だが、彼は怪訝そうに眉を顰めた。


「いいえ。回収していません。……そもそもぼくがお嬢さまを見つけたときには、何もありませんでしたよ」


「え……」


 それでは、わたしが眠ってから彼がわたしを運びにきてくれるまでのあいだに失くしたということになってしまう。


 まるで見当がつかなかった。もういちど探してみるしかない。


「……出がけに妙なことを聞いてごめんなさい。気をつけて行ってきてね」


 開け放たれた扉の先から、ふわりと風が舞い込んでくる。完全に春の風と言いきるにはまだ及ばないが、外はかなり温かくなってきたようだ。


「はい。行ってまいります」


 彼はわたしを一瞥すると、鞄を片手に出て行った。門の目の前には馬車が止まっている。ここは帝都の中心部からすこし離れているから、あれに乗って移動しているのだろう。


 馬の蹄の音が遠ざかっていくのを聞きながら、ぼんやりと小箱の行方を考える。今日は探しもので一日が終わってしまいそうだ。



「ふう……」


 薄く汗ばんだ額を手の甲で拭う。着物の袖を紐で縛っているおかげで、ずいぶん動きやすかった。わたしのそばでは、りんさんとすずさんが同じように藤色の着物を捲ってせっせと探しものを手伝ってくれていた。


「なかなかみつかりませんね」


「そうね……」


 書斎からは持ち出していないと思うので、わたしが眠る前にどこかへ置いたか落としたかしたのが最も考えられると思うのだが、よく覚えていない。こうしてふたりの手を煩わせてしまっていることが申し訳なかった。


「ふたりとも自分のお仕事があるでしょうに、ごめんなさい」


「何をおっしゃるのですか! 千花さまのお役に立つのが、私たちの仕事です」


 すずさんが張りきった様子で本棚から次々と本を取り出しては棚の中を確認する。優秀な女中である彼女たちは、ついでに本の埃を払っているようだった。埃がこもらないように、今は窓を開け放って空気を入れ替えている。


「どこへ行ってしまったのかしら……」


 寝ぼけていたにしても、そう難しいところにしまうことはないと思うのだが、なかなか見つかってくれない。また地道に涙を溜めればいいといえばそうなのだが、あの小箱いっぱいぶんで贅沢しなければ三年は暮らせるほどのお金になるはずなのだ。彼に渡せないのはやはり心残りだった。


「小箱の中には、何が入っているのですか?」


 りんさんの問いかけに息が詰まる。正直に伝えることはできないが、探してくれている彼女たちに教えないわけにもいかない。本当の価値は隠したまま、見た目だけはありのままに伝えた。


「その……歪な形をした真珠がたくさん入っているのよ。大きさも不揃いで小指の爪のような大きさから、桜の花びらくらいの大きさのものもあるのだけれど……」


「装飾品にしていない真珠を、そのままお持ちだったのですか?」


 すずさんが小首をかしげる。彼女の疑問はもっともだ。


「……真珠を眺めるのが好きなの。身につけてもほら、わたしには似合わないから」


 後半の言葉は嘘ではなかった。彼が用意してくれる着物も髪飾りも、見窄らしいわたしには似合っていないような気がする。着られているような違和感がないだろうかと思うと、思わず肩を縮めたくなった。


「確かに、千花さまは色が白いし、真珠よりは色がついた宝石がよさそうですよね」


「あら、すず、そうとも言いきれなくてよ。大粒の金剛石をひとつぶあしらった首飾りなんて、絶対にお似合いになるわ」


「わあ……すてき! 襟ぐりのあいた洋装にすればいっそう映えそう……! 千花さま、ぜひ旦那さまにおねだりなさってください!」


 ふたりの進言を嬉しく思いながらも、「そうするわ」とは言えなかった。代わりに曖昧に微笑んで、視線を伏せる。


 ふたりには、わたしが生粋の令嬢に見えているらしい。彼女たちを欺いているような気になって、心苦しかった。思わず、めくった袖を軽く解いて二の腕の傷を隠す。内側だからよく見えないだろうが、ここには火箸を押し付けられた痕があるのだ。


 ……洋装なんて、絶対にできないわ。


 首にも二の腕にも背中にも、さまざまな傷がある。いちばんひどいのは鞭打たれたあとの傷だ。ぷくりと盛り上がってしまって、見られたものではないだろう。


 ……ばれたら、馬鹿にされてしまうかしら。


 優しい彼女たちがそんなことをするはずはないだろうと思う反面、まだ信じきれないのも確かだった。


 置き時計が、重たい音を鳴らす。どうやら夢中で探しているうちに正午になってしまったらしい。


「大変です! 早くお昼ご飯の支度をいたしますね!」


 すずさんが慌てたように立ち上がるが、りんさんがそれを引き止める。


「すず……あなたが作るくらいならわたしが……あなたの料理はやはりしょっぱすぎるのよ」


「そうですよね……千花さま、今朝は申し訳ありませんでした」


 すずさんがしゅんと肩を落とす。わたしと彼の水の消費量から、料理の塩辛さは察していたらしい。


「そんな、とてもおいしかったわ。お米の炊き加減も、お魚の焼き具合も絶妙で……」


「わかっているんです。わたし、洋食は作れるのですが、和食の微妙な匙加減はどうも苦手で……見せ物小屋にいたときは洋食ばかり食べていたから」


 本人はまるで気づいていないようなそぶりだったが、まるで聞き逃せないことを言う。見世物小屋にいたとは、どういうことなのだろう。双子の案内係だった可能性もじゅうぶん考えられるが、黒子の位置以外は瓜二つな彼女たちはひょっとすると――。


 それ以上深くは踏み込めず、喉まで出かかった問いかけを飲み込む。きっとまだ、わたしが触れていい過去ではないだろう。


「……じゃあ、一緒におにぎりを作りましょう。休んでいる八重さんも、おにぎりなら食べやすいかもしれないし」


 もともと午後には様子を見に行こうと思っていた。すこし遅めの昼食として、おにぎりを持っていくのもいいかもしれない。


「千花さまのお手を煩わせるなんて、そんな……。旦那さまになんと言われるか」


 りんさんが、恐縮したように視線を彷徨わせる。彼女たちはわたしを当主の妻だと思っているのだから、その反応も無理はないのかもしれない。


「平気よ。昔はわたしも作っていたもの」


 女中の手が足りず、離れに食材だけが届けられることもあったから、わたしと彼でよく厨に立って料理していたものだ。彼は味付けはあまり得意ではなかったようで、ほとんど後片付けに徹していたけれども、楽しい時間だった。


「浅海家のお嬢さまが、お料理を……?」


 りんさんが、わずかに眉を顰める。口を滑らせたのはわたしも同じらしい。


「は、花嫁修行の一環としてね」


 言えば言うほど怪しくなっている気がしてならない。同格の家に嫁ぐ予定の伯爵令嬢ならば、花嫁修行として料理の腕を磨くよりも教養を身につけることに励んでいそうだ。


「とにかく、行きましょう。お米は朝のぶんがある?」


「はい、すずがありえないほど大量に炊きましたので」


「十合ぶん炊く以外の方法を知らなかったんです……」


 再びしゅんと肩を落としながら、すずさんが弁明する。彼女のおかげで今日のお昼は水野さんにも瀬戸さんにもおにぎりを届けられそうだ。

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