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幻術師の泡沫花嫁  作者: 染井由乃
第八章「灯りを灯す人」

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第二話

 冷え冷えとした広い屋敷の中を、息を切らせて走る。庭にかかった霞は晴れていたが、外は曇っているのか昼間であるようなのにどこもかしこも薄暗かった。


 中途半端に開け放たれた襖の向こうには、大切な人たちの亡骸が転がっていた。兄さま、すずさんたち、桜木さん。ぼろぼろと涙をこぼしながら、訳もわからずに足を動かし続けた。


 鈍い光が差し込む縁側で、寄り添いあうように座り込んだひと組の男女を見た。ふたりのそばには、事切れた瑠璃色の蝶が落ちている。焼けこげた着物の袖から伸びたふたりの手は、溶けあうように固く結ばれていた。


「本当にお嬢さまはひどい方だ。あなたは人を不幸にしかしない」


 背後で囁くような声が聞こえて、びくりと肩が跳ねる。振り返れば、黒い外套を纏った朔の姿があった。今日も、屋敷の惨状には似合わぬ穏やかな笑みを浮かべている。


「最後にはきっと、ぼくのことも破滅させるのでしょうね」


 朔の手が、まっすぐにわたしに向かって伸びる。首筋を撫でるように指先が触れたかと思うと、そのまま喉が潰されるような力で首を掴まれた。


 ただぼろぼろと涙があふれていく。抵抗すればするほど、つらい時間が長くなるだけだ。


「あなたにはお似合いの無様な顔だ。いくらでも眺めていられます。……今日は、どんな傷を差し上げましょうか」


 すっかり聞き慣れてしまったその言葉と同時に、ぐ、と喉に力を込められる。視界が、どんどんと暗くなっていくのがわかった。


 ……許して、お願い、朔。


 大粒の涙を流しながら、指先を震わせる。ふっと意識を手放すと同時に、体が重たくなっていくのがわかった。





「――さま? お嬢さま!」


 誰かに、肩を揺り動かされている。そっと瞼をあげると、視界がわずかにぐらぐらと揺らいでいた。


「お嬢さま……よかった、お目覚めですね」


 ほっとしたような声と共に、大きな手が頭を撫でる。その感触は、夢の中で先ほどわたしの喉を掴んでいた手とまったく同じだった。


 そうだ、あれは夢だとわかっている。死神に見せられていたものほど生々しくもなかったし、こうしてみれば首を絞められた苦しさはわずかにも残っていない。わたしはまっとうに夢と現実の区別がついている。


 ついている、はずなのに。どうして心臓は先ほどから早鐘を打っているのだろう。冷や汗が止まらないのだろう。


 横になっていられず、思わず飛び起きるようにして上体を起こす。清潔に整えられた布団の上に、ぽたぽたと汗が滴って染みを作っていた。


「お嬢さま……? どうなさったのですか。どこか、具合でも――」


 すっと視界の中に現れた大きな手を見て、とっさに後ずさってしまった。はっとしたように目を見開く彼と、視線が合う。


「お嬢さま……?」


 あれは朔だ。わたしの大好きな人だ。怯えるべき相手はもういない。わたしを脅かすものはもう何もない。


 わかっていてもなお、これ以上彼と顔を合わせるのは耐えられなかった。寝台から足を下ろして、裸足のまま駆け出す。背後でわたしを呼ぶ彼の声が聞こえたが、夢の中の寒々としたあの浅海邸でわたしを殺そうと追いかけてくるときの彼の声と重なって、どうしても立ち止まることはできなかった。


 ぼろぼろと、涙が溢れていく。先ほど見た夢とは違って、少し体を動かすだけでもすぐに息が上がってしまった。血の味のする息を吐き出して、人魚の涙を散らしながらあてもなく走り続ける。


「千花?」


 ふと、廊下の先に寝巻き姿の兄さまを見つけた。橙色の灯りに照らされたその姿を見て、無我夢中で兄さまの元へ駆け寄る。


 走った勢いそのままに、兄さまの胸に飛び込むと、兄さまは慌ててわたしの体を支えてくれた。男性にしては華奢な体をぎゅう、と抱きしめ、着物に顔を埋めるようにして息をする。兄さまの匂いだ。決してわたしを傷つけない、大好きな温もりだ。


「千花……? どうしたんだ、こんな真夜中に」


 兄さまは戸惑いながらも、ゆっくりと頭を撫でてくれた。時々指先が髪を梳くように絡んで、懐かしい仕草に緊張が解けていくのがわかった。


 おずおずと顔を上げると、穏やかな微笑みを浮かべる兄さまと目があう。心配そうに顔を歪めていてもおかしくないのに、きっと敢えていつもどおりに振る舞ってくれているのだろうと思った。


「お嬢さま……」


 背後から震えるような声に呼びかけられ、ゆっくりと振り返る。わたしたちと距離を保ったまま、朔が困ったようにこちらを見つめていた。わずかに髪が乱れているあたり、きっと走ってわたしを追いかけてきてくれたのだろう。


 今すぐ朔のもとへ駆け寄るべきだと思うのに、体が震えるばかりでどうしても足を踏み出せなかった。


「お嬢さま……驚かせてしまって申し訳ございませんでした。ただ……眠る前にお嬢さまの様子を見に行って、お嬢さまがうなされていたようなので声をかけてしまったのです。不躾でした」


 申し訳なさそうに眉を下げる朔を見ていられない。彼はなにひとつ悪いことなどしていないのに。


「千花……夢のことを、伝えてやってもいいか? ……訳もわからずきみに怯えられているよりは、理由がわかったほうがいいだろう」


 兄さまの静かな声が降ってくる。すぐには、頷きたくなかった。


 朔は、わたしが死神に攫われているあいだ、命を削ってわたしを探し続けてくれていたのに。わたしと笑いあう元通りの日常を取り戻すために頑張り続けてくれていたのに。


 救われたわたしが、夢の名残りで苦しんで彼に触れられないだなんて甘えにも程がある。


 ……ごめんなさい、朔。


 死神に見せられた悪夢のせいで彼に怯えているなんて、絶対に知られたくなかった。


 けれどこんなことをしてしまった以上、もう隠し通せないのも確かだ。このまま秘密にして、朔に不信感を抱かせるようなことはしたくなかった。


 おずおずといちどだけ頷けば、その決断を褒めるかのように兄さまは頭を撫でてくれた。


「夢……? 何の話です。お嬢さまがうなされていたことと関係があるのですか」


 朔の声には焦りが滲んでいた。聞きようによっては、苛立っているともとれる声だ。


 兄さまは落ち着いた声音のまま、朔に対峙した。


「千花は囚われている間、あの死神に夢を見せられていたそうだ。……お前に、何度も殺される夢だ」


「っ……」


 朔が、息を呑むのがわかった。あたりに散らばった人魚の涙が鈍く光っている。


 朔はしばらく沈黙したのち、忌々しいと言わんばかりにその光を睨みつけた。


「……なんとなく、お嬢さまがぼくに怯えていることはわかっていました。叔父に似ているせいかと思っていましたが……そうですか、叔父は、お嬢さまの涙を得るためにそんなことまで……」


 苛立ちを抑えるように、彼はぎゅう、と指先を握り込んでいた。行き場のない怒りを飲み込もうとするその姿を見ているだけで、胸が締め付けられる。


 言えば必ず彼を傷つけることはわかっていた。夢は夢だと頭の中では理解しているのに怯えてしまう自分の弱さが嫌になる。蝶子さんくらい強い心を持っていれば、今ごろわたしは兄さまの腕の中ではなく、朔の腕のなかで笑っていただろうか。


「だから、千花が落ち着くまでは……声が出るようになるまでは、会うのを控えてもらえないか。お前の気持ちがわからないわけではないが……ぼくにとっては、千花の心のほうが大切だ」


 兄さまはきっぱりとそう言い切ると、わたしの肩を抱いた。昼間約束した通りに、わたしを支えようとしてくれているのだ。


 兄さまはどうやらわたしと朔のことを認めてくれているようだから、きっとこんなふうに宣言するのは心苦しかっただろう。声が出ないばかりに、つらい役目を兄さまに押し付けてしまった。


「それは……ぼくだって同じです。お嬢さまの心の回復が何より優先されるべきです」


 朔は、強がるように微笑みを取り繕った。彼らしくもないぎこちない表情が、見ていて痛々しい。


 彼は一瞬だけ、兄さまの手が添えられたわたしの肩を見つめ、すぐに視線を逸らした。わずかな時間だったがその視線の中に焦がれるような熱を見た気がして、余計に胸が苦しくなる。


「明日からは、なるべく近づかないように気をつけます。お嬢さまはゆっくり療養なさってください」


 ぎこちない微笑みのまま、彼はわたしを気遣う言葉を残して踵を返した。暗闇に吸い込まれていく後ろ姿を追いかけたいような衝動に駆られるのに、やっぱり足が動いてくれない。


「……戻ろうか、千花。きみが眠るまでそばにいよう」


 朔が立ち去るのを見届けたあと、兄さまはわたしの肩を抱いて歩き始めた。兄さまの手に押されるようにして、ゆっくりと足を進める。


 ……早く、早く消えてよ。


 悪夢の名残を必死に頭の中から追いやろうとするが、そうしようと思えば思うほど、夢の中の朔の冷たい声が、刃の感触が蘇ってしまう。


 流した人魚の涙で、心の傷も埋まってくれたらいいのに。


 床に散らばった真珠が、橙色の灯りに照らされて虹色の光を放つ。普段は忌々しく思うその光になんの感情も揺り動かされないほど。まだ心は疲弊しているのだと気付かされた。


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