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幻術師の泡沫花嫁  作者: 染井由乃
第一章「涙の盗人」

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第一話

 帝都には、日が沈んで半刻ほど経ってから到着した。普通の馬車であれば真夜中についていたであろうことを考えると、画期的な速さだ。


 馬車の中に、会話らしい会話はなかった。かける言葉もないのだろう。本当は彼に聞きたいことも話したいこともたくさんあったが、買われた商品らしく黙っていることにした。


 馬車の窓から、橙色の暖かな光が見える。帝都の街灯だ。飾り細工が施された金属の骨組みと透き通る硝子でできていて、中で橙色の光が浮いている。二年ほど前に、より効率的な術具を使用した街灯に切り替えられたのを機に、意匠も一新したのだと聞いた。街中を優しく照らすこの灯りは、今では帝都の観光資源のひとつになっているのだという。


 ……確か、帝都の街灯は月雲家の当主が開発したものだと聞いたわ。


 浅海家にいたときには片鱗も見せていなかったが、彼は相当優秀な幻術師なのだと思い知る。この灯りを直接目にして、余計に強くそう思った。


 馬車は、帝都の外れの屋敷の前で停まった。暗くてよく見えないが、おそらくは白塗りの、瀟洒な洋風の屋敷だった。


 馬車から降りるときも、彼は手を貸してくれた。転んで痛い思いをしたほうが人魚の涙を得る機会が増えそうなものだが、何も言わずに彼の手をとる。


 重なった手はすぐに離され、彼はまっすぐに屋敷の入り口へ向かった。その数歩後ろを、黙ってついていく。門から入り口までは石畳の小道が引かれていて、その道の両脇に帝都の街灯とよく似た意匠のランタンが置かれていた。お金で命を買われた契約結婚だという現実がなければ、立ち止まって心ゆくまで眺めていただろう。それくらい幻想的で、まるで西洋のお伽話の一頁のような光景だった。


 やがて玄関の扉がゆっくりと開かれ、白い光に出迎えられる。外装と同じく中も洋風なようで、扉の先にはシャンデリアや金の額縁に入れられた油絵が飾られていた。広間と言っても差し支えないような広さの玄関だ。奥には階上へつながる階段が伸びている。


 実は、洋風の建物に足を踏み入れるのは初めてだ。生まれてからずっと屋敷に引きこもってばかりいたから、洋風の屋敷は書物の中でしか知らない世界だった。


「おかえりなさいませ、旦那さま」


 彼の帰りを待っていたように、使用人たちが並んでお辞儀をする。男性は洋装だったが、女性は着物を着ていた。お揃いの藤色が慎ましやかで綺麗だ。屋敷の規模の割に使用人の数はそれほど多くなく、男性が二名と女性が三名の計五人が彼を出迎えていた。


「ああ」


 彼はどこかぶっきらぼうに返事とも言えない言葉を返すと、上着を女性の使用人に預けた。彼の見慣れない屋敷の主人然とした姿に、つい目を奪われてしまう。


「旦那さま、その方が奥さまでいらっしゃいますか」


 使用人から声をかけることが許されるくらいには、屋敷の雰囲気は柔らかなようだ。年配の女性の使用人がにこにこと微笑んで彼を眺めている。


「そうだ。……用意していた部屋に案内してくれ」


「かしこまりました」


 彼はそれだけ言って、玄関広間からつながる廊下の奥へと姿を消してしまった。男性の使用人がひとり、彼についていく。


 残された四人の前で、おずおずとお辞儀をした。


「初めまして。浅海家から参りました千花と申します。……どうぞ、よろしくお願いします」


 彼は、わたしの存在はどういうふうに伝えているだろう。表面上は妻として迎えるが、あくまでも復讐のための婚姻なのだときちんと教えているのだろうか。


「これはこれはご丁寧に、わたくしは女中頭の八重と申します。ここにいるのがすずとりん。双子なんですよ。主に奥さまのお世話をいたしますのはこのふたりです」


 八重と名乗った年配の女性は、わたしとそう歳の変わらぬふたりの女中を紹介してくれた。双子というだけあって顔はよく似ている。見分けられるようになるまでにすこし時間がかかりそうだ。


「それからこちらが瀬戸、旦那さまについていった者が水野と言います」


 それぞれが慎ましく礼をした後に、柔らかな微笑みを湛えている。考えていたよりも温かく迎え入れられていることに戸惑ってしまった。


「わたくしたちは奥さまがいらっしゃるのをそれは楽しみにしていたんですよ。御用がございましたら何なりとお申し付けください」


 八重さんの言葉と同時に、改めて四人がお辞儀をする。この様子だと、彼は八重さんたちにこの結婚の真意を伝えていないようだ。彼が明かしていない事実をわたしから明らかにするわけにもいかず、居心地の悪さを感じながらわたしももういちど会釈をした。


「それでは奥さまのお部屋にご案内いたします。この屋敷でいちばん日当たりのいい、貴婦人のためのお部屋です」


 八重さんの言葉に従って、屋敷の奥へと進む。後ろにはすずさんとりんさんもついてきているようだ。


 玄関広間から伸びていた階段を上り、長い廊下を歩くと、白い扉の前に辿り着いた。分厚い木でできているようで、扉の行面には花や草の模様が彫り込まれている。しばらく眺めていられそうなほど、繊細な作りだった。


「さあさあどうぞ、奥さまのお部屋です」


 八重さんに案内されて、扉の先へ足を踏み入れる。ふわりとした柔らかな絨毯が、足先を包み込んだ。


「あ……」


 中は、見事としか言いようがなかった。派手ではないが上質な調度品で埋め尽くされた室内は、まさに貴婦人の部屋だ。屋敷が白を基調としているためか、箪笥も姿見の枠も鏡台も、ぜんぶが柔らかな白で統一されている。


 絨毯の色は、柔らかな薄水色だった。寝台の上を覆う天蓋から降りた白いカーテンにも、薄水色の糸で刺繍が施されている。涼やかで可愛らしい雰囲気だ。わたしが今まで暮らしていた離れとは、とても比べものにならないほど豪華で広々としている。


 ……どうして、わたしなどにこんな部屋を。


 彼の考えがわからなかった。人魚の涙を生み出すための道具を置いておくにしては、豪華すぎる部屋だ。使用人たちの目を気にしたのだとしても、やりすぎだ。


「こちらが浴室で、あちらの扉は衣装室につながっております。まずは湯浴みをなさってください」


 すずさんとりんさんが、浴室の扉のほうへ移動する。どうやら手伝ってくれるつもりらしい。


「お着替えをお持ちいたしますが、洋装と和装ではどちらがよろしいでしょうか」


 洋装の室内着もあるのだと、初めて知った。ひとまず慣れている着物を頼んで、すずさんたちの案内で浴室に入る。


 中は、どこも術具が充実していた。蛇口をひねればお湯が出るのはもちろんのこと、頭の上からお湯を被るシャワーというものもあった。冷えた水を浴びていたことに比べれば、夢のような境遇だ。


 一通りの設備を説明し終えたすずさんとりんさんが、わたしのそばで慎ましく礼をする。


「湯浴みのお手伝いをさせていただきます」


「あ……できれば、ひとりで入りたいの」


 幼いころはともかく、物心がついてからはずっとひとりで入ってきた。


 それに、彼女たちにこの体に残る傷を見せるわけにはいかない。この結婚の真意を知らないのならば、伯爵家の娘の体にあざや火傷の痕があるのは不自然に思われるだろう。


「かしこまりました。では、何かございましたらすぐにお呼びください」


 ふたりは同じ調子でぺこりと頭を下げて浴室から出ていった。久しぶりにひとりきりになって、思わずふう、とため息が出る。


 説明された通りにお湯を湯船に張って、その間に着物を抜いでシャワーとやらで体を洗った。せっけんは舶来のものなのか、知らないいい香りがする。花や薬草を使っているようだ。


 噂話でしか知らなかった洗髪液もあったので、使ってみることにした。わたしのような者が贅沢品を使っていいのかは疑問が残るが、用意されているということは見られるくらいには身だしなみを整えておくように、と暗に命じられているのだろう。ふわふわの泡で洗うと、ぱさついた髪がみるみる滑らかになった。


 長い黒髪から泡をすすいで、最後に顔を洗うとずいぶんとさっぱりした。ちょうど湯船のお湯も溜まったようで、シャワーを閉じて湯船に移る。


 温かいお湯に浸かると、体の緊張が解けていくのがわかった。乗り心地のいい馬車だったが、長時間座っていると流石に疲れも溜まっていたようだ。


 もっともそれ以上に、彼とあんなに長い時間無言で向かいあっていたことのほうが疲労を助長していたような気がするけれども。


 湯船から手を出して、じっと眺めてみる。うっすらと手のひらから湯気が上がっていた。この手で触れた彼の傷痕の感触を思い出して、震えるようにそっと指先を握りしめる。


 あの傷の大きさは、きっと彼の憎しみの深さそのものだ。だからわざわざわたしに触れさせたのだろう。


 莫大なお金と引き換えにでもわたしを手元に置きたいほど、恨んでいるのだ。わたしを道具のように扱って人魚の涙を得るのは当然にしても、他にどんな方法で復讐するつもりなのだろうか。


 ……構わないわ。彼になら、何をされても。


 実際それだけのことを浅海家は彼にしたのだ。わたしが生み出す人魚の涙を一生ぶん捧げても、彼の気は晴れないだろう。


 斜めになった湯船の壁に背をつけて、ずるりと体を滑らせてみる。そのまま頭までお湯に浸かって、ぼんやりと水面を眺めた。


 わたしの先祖の人魚とは違うだろうが、西洋のお伽噺には人魚姫という姫君がいて、彼女は恋に敗れて泡になって死んでしまうのだという。


 わたしも人魚の涙をたくさんこぼしたあとに、泡沫になって消えてしまえば、彼もせいせいするだろうか。


 そんなことを考えているうちに息が苦しくなって、やむを得ずお湯の中から顔を出した。


 息苦しさから生理的な涙が滲んだが、真珠にはならなかった。生理的な涙は嫌いだ。人魚の涙のないわたしの価値が、いかに無に等しいか、思い知らされているようで。


 ……感情を込めて泣ける方法を、どうにかして探さなくちゃ。


 人魚の涙を、今まで以上に集めなければならない。彼が、この結婚に価値があったと思えるように。




 用意された浴衣に着替えて浴室から出ると、先ほどより照明が一段暗くなっていた。夜らしい、落ち着いた雰囲気だ。


 ひとりで湯浴みをできるといったわたしに気を使ったのか、双子の女中の姿はない。その気遣いをありがたく思いながら、鏡台の前に座り、濡れた髪を柔らかな布で拭き取った。鏡台の上には見慣れない化粧道具や香油のようなものが置かれていたが、さすがに使うのは躊躇われて触れずにそのまま置いておく。


 ……本当に、すてきなお部屋。


 指先を壁に触れさせながら、柔らかな絨毯の上を歩き回ってみる。わたしが湯浴みをしている間に香でも焚いていたのか、品のよい花の香りがした。これは桜だろうか。


 両手を広げても足りないほどの大きな窓が、いくつも設置されていた。昼間はかなり明るいだろう。窓の外には門から玄関までの間に設置されていたものと同じランタンが置かれているようで、夜の草木をぼんやりと優しい灯りで浮かび上がらせていた。


 ……きれい。


 あの灯りも、彼が作ったのだろうか。窓越しの触れられない美しさは、わたしと彼の距離そのものであるような気がした。


 窓辺に置かれた書物机の上には、空の花瓶と濃い色硝子の笠をかぶったような可愛らしいランプが置かれている。笠の内側からぶらさがった紐を引くと、すぐに柔らかな橙色の灯りがついた。術具を使っている高級品のようだ。ランプが灯ると硝子もわずかに透けて見える。このランプの下で手紙を書いたり本を読んだりしたら、それだけで楽しいだろう。


 術具を使っているランプを無駄にはできず、すぐに灯りを消した。


 部屋の中央には、薄水色の布が張られたソファーが置かれている。ふたりは腰掛けられそうな、ゆったりとしたものだ。その目の前には濃い茶色の低い机が置かれており、ソファーに座ってみると、ちょうど膝くらいの高さになる広々とした机だった。


 その机の中央には、一段だけの漆塗りの重箱が置かれていた。重箱のすぐそばには、誰かの走り書きがある。おそらくは万年筆で書かれているのだろう。見慣れない細い筆跡だった。


『夜食にどうぞお召し上がりください』


 たったそれだけの短い文章だった。払いにすこし癖があるが、美しい字だ。あの女中たちの誰かが書いたのだろうか。


 走り書きのそばには、一輪の鈴蘭が置かれていた。鈴蘭が咲く時期にしてはまだ早いように思うが、近ごろは術具をふんだんに使った温室で季節外れの花を咲かせることもできるのだと聞いたことがある。もちろん術具を使っているぶん温室の花は貴重だが、求める人は絶えないらしい。


 ……可愛いお花だわ。


 書物机に空の花瓶があったことを思い出して、それに鈴蘭を活けることにした。水を汲んで、ソファーの前の机に花瓶入りの鈴蘭を飾る。


 花瓶を倒さないように注意しながら、満を持して重箱の蓋を開けてみた。中にはおにぎりがふたつ入っている。甘いお米と海苔の匂いがふわりと浮き上がって、思い出したようにお腹が鳴った。思えば、朝からろくなものを食べていない。


 もっとも、このところは残飯のようなものばかり食べていたので、お腹が満ち足りたことはほとんどなかった。こんなに綺麗なおにぎりを見たのも、実に久しぶりだ。


 宛名も差出人もわからない走り書きだが、わたしに贈られたものだと思ってもいいのだろう。姿勢をすっと正して、手をあわせる。


「いただきます」


 さっそくおにぎりのひとつに手を伸ばし、ぱくりと齧りついてみた。ほどよい暖かさのお米がほろりと崩れて、海苔がぱりっと裂ける。あっという間に咀嚼して、ふたくち目に進む。中身ははちみつ漬けの柔らかな梅のようだ。


 梅の甘酸っぱさとお米の甘さが絶妙で、あっという間に食べ終えてしまった。そのままふたつ目のおにぎりに手を伸ばす。


 ふたつ目も、梅のおにぎりだった。今度はしその味がする、塩辛い味の梅だ。夢中で食べすすめ、最後のひと口まで味わってゆっくり飲み込む。


「ごちそうさまでした」


 食べ終わってからふと、これはわたしが幼いころに好んで食べていた組みあわせだと気がついた。梅のおにぎりが好きで、好きな具をふたつ選ぶのならば甘めの梅とからめの梅を選んでいたのだ。一般的にはなかなか同時に出てこない組み合わせだから、兄さまが「千花は変わっているね」と笑っていたものだ。


 ――この組みあわせだとね、飽きなくておいしいの。たまにもあげるね。


 そう言って、ふたつのおにぎりをそれぞれ半分こにして、彼に差し出した幼い日を思い出す。彼はおずおずと、痩せ細った手でそれを受け取って、わたしにつられるようにして黙々と食べていた。


 ……懐かしい。


 思わずふ、と頬が緩んだのに、どうしてか目頭が熱くなった。


 はちみつ漬けの梅としその梅が用意されていたのなんて、おそらくただの偶然だ。八重さんか、あの双子の女中のどちらかが作ってくれたのだろうから。


 彼は当然、あんな昔のことは覚えてすらいないだろう。いや、黒猫の代わりにわたしに飼われていた過去を恨んでいるのだから、覚えていたとして思い出したくもない記憶のはずだ。


 こうして懐かしむことすら、彼への冒涜になるのかもしれない。一緒にお日さまの下でお昼寝をしたことも、夜にこっそり屋敷を抜け出して蛍を追いかけたことも、殴られて泣きじゃくるわたしが泣き止むまで身を寄せてくれていたことも、思い出してはいけないのかもしれない。


 心の奥底に大切に閉まってきた彼との思い出は、彼にとっては黒く塗りつぶしたい忌まわしい過去になってしまったことが、どうしようもなく悲しかった。ぽろぽろと勝手に涙が溢れて、それはやはり絨毯に落ちる前に真珠に変わっていく。


 わたしたちは、どうあってももうあのころには戻れないのだ。彼にとってわたしは、お金を稼ぐ道具で、復讐のために買い取った憎らしい小娘でしかないのだから。


 次々に落ちる人魚の涙を必死に拾い集めながら、嗚咽を漏らす。彼が生み出した優しい灯りを受けて虹色に輝く真珠が、忌まわしくて憎らしくて仕方がなかった。

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