第二話
◇
そういうわけで兄さまの治療が開始されたわけなのだが、三日ほど別邸に滞在したのち、治療場所は月雲邸に移された。幻術師として働く彼は、いつまでも別邸にいるわけにはいかなかったのだ。
兄さまには客間のひとつを使っていただき、治療を継続している。人魚の涙にはそれ自体に万能薬に近い効果があるらしく、人魚の涙を粉末状にして溶かしたものを兄さまに飲んでいただき、そのあとで彼が幻術をかけるという段取りで毎日治療を進めていた。
彼ははっきりと言わなかったが、帝都の灯りを一晩持たせられるほど強力な力を秘める人魚の涙を毎日飲まなければ治せないのだから、兄さまの病状は相当悪化していたのだろうと思う。
……まにあってよかった。
治療を開始してまだひと月ほどだが、兄さまの顔色は見るからによくなっていた。食事も一日一食がやっとと言う様子だったのが、今では三食をほとんど食べられるようになっている。このあいだも、わたしが作ったあんみつを嬉しそうに食べてくれた。
……もっと元気になって、出かけられるようになったら嬉しいな。
わたしもまだ帝都に詳しいわけではないが、兄さまに街を案内したい。このあいだ立ち寄った甘味処へ行くのもいいだろう。兄さまと彼が懲りずに嫌味を言いあっている様子を眺めながら食べるあんみつはおいしそうだ。
兄さまに明日飲んでいただく人魚の涙を、薬包紙に包む。こうしておけば、彼が後で粉状に加工してくれるのだ。人魚の涙を砕いた粉はきらきらとしていて、まるで星屑のように綺麗だった。
……兄さまがよくなったら、祝言の準備をしなくちゃ。
幸せな予定がいっぱいだ。頬を緩めながら、ふと窓の外を見やると庭に橙色の灯りが灯るところだった。このところすっかり日が長くなってきたから、夕食を終えたこの時間に灯りがついたようだ。彼の優しさそのもののような灯りが変わらず好きだ。
「ご機嫌ですね、どうなさったのです」
ふいに背後から長い腕に絡め取られ、びくりと肩を跳ねさせる。こんなことをするのは彼しかいない。
「朔……びっくりしたわ」
「ノックはしたのですが、お返事がなかったので心配になって勝手に入ってしまいました。お許しください」
言いながら、彼は椅子ごとわたしを抱きしめるように身をかがめ、こめかみにくちづけてきた。日に何度も繰り返される甘い触れあいだが、いまだに戸惑ってしまう。彼にはずっとどきどきさせられっぱなしだ。
「そんなに集中して何をなさっていたのです?」
「明日の兄さまのお薬を包んでいたのよ」
このところ幸せすぎてほとんど泣けないが、なんとか今まで貯めていたぶんで賄っていた。
「扉を叩く音も聞こえないくらいに集中してですか? ……本当に、お嬢さまは嫉妬を煽るのがおじょうずだ」
ふ、と吐息が溶け込むような笑みとともに、耳にくちづけられる。ぞわりと甘い寒気が広がって、頬が熱くなった。
「あ、あなたは……? 何をしにきたの?」
彼が用もなく訪れることは度々あるが、話題の転換のために聞いてみる。このまま彼に会話の主導権を握らせていたら、湯浴みの前だというのに色々な箇所にくちづけられるに決まっている。
「ああ、お嬢さまにこちらをお見せしたくて」
差し出されたのは数枚の紙が綴じられた資料だった。受け取りながらぱらぱらと捲ってみる。
「これは……?」
「以前おっしゃっていたでしょう。裏路地の支援をしたいと。すでに慈善団体がありましたので、そちらの協力を得るかたちでこのような提案をしていただきました」
月雲邸に帰ってきたころ、わたしは意を決して、密かに考えていたことを彼に打ち明けたのだ。
『人魚の涙を使って、裏路地に灯りを灯したいの。あなたが帝都を照らしたあの街灯と同じ灯りを』
もちろんその提案をするにあたって裏路地に行ったことも打ち明けた。それについては散々咎められ、その後なぜか言いくるめられて彼の頬にくちづける流れになってしまったが、それはまあいいだろう。
その後、満足げに笑った彼が、わたしの指先にくちづけながら言ったのだ。
『わかりました。この件はいちどぼくがお預かりいたします』
それからひと月で、具体的な計画を持ってくるとは思わなかった。幻術師のお仕事に加え、兄さまの治療でも忙しいのに合間を縫って進めてくれていたのだ。
「お嬢さまと同じように裏路地の現状を嘆いている有力者の寄付が今これだけありまして、街灯自体はこの寄付をもとに設置することになりそうです」
背後から伸びてきた指先が、資料の上を滑って説明してくれる。
「お嬢さまが寄付してくださる予定の人魚の涙は売却せず、そのまま幻石として使います。新たに開発した街灯は、人魚の涙が一粒あれば裏路地の灯りを半年は持たせます」
「すごいわ……。この街灯は、あなたが?」
「そうですよ、褒めてください」
するり、と彼は背後からわたしの肩に顔を埋めてきた。甘えるような仕草はなんだか昔を思い出す。くすぐったさにくすくすと笑いながら、彼の髪を何度も撫でた。
「あなたは天才ね、朔。わたしのお願いをこんなふうに叶えてくれるなんて嬉しいわ」
「もっと好きになってくださいましたか?」
「能力の有無とあなたに向ける愛情は関係ないけれど……そうね、憧れる気持ちが増したわ」
正直な気持ちを伝えれば、彼は満足そうに息をついた。そのままちゅ、と頬にくちづけられる。
「ぼくも、お嬢さまが裏路地のことを考えてくださるなんて嬉しいです。ぼくにはない慈悲深いお心が眩しくてなりません」
「慈悲というのは違うのよ。……小さいころのあなたのような子が、暗闇を怖がらなくなったらいいと思っただけ」
首をかたむけて、わたしの肩に擦り寄る彼の頬にそっとくちづけをお返しする。薄水色の瞳が、溶けるようにゆったりと細められた。
「お嬢さまに以前いただいた人魚の涙を、売らずにとってあります。あの小箱いっぱいの涙です。この事業にはあれを使いましょう。あれひとつでむこう五十年は持ちます」
それは、この結婚が始まったころにわたしが手渡したもののことを言っているのだろうか。好きに使ってくれて構わないのに、彼は本当に欲がない。
「取っておいてくれたなんて思わなかった……。ありがとう。足りなかったら言ってね。まだ手持ちがすこしあるから」
今は兄さまの治療にも使っているので、あり余っているわけではないが、まだすこし余裕はある。再び薄水色の小箱の底に一層溜まるくらいの真珠が手もとにあった。
「これでお嬢さまとのくちづけへの障壁がひとつ減りました」
「ふふ、そんなことを考えていたの?」
「当然です。ぼくにとっては今もっとも重大な事項のひとつです」
真面目な顔で言われると、なんだかおかしくなってしまう。それだけわたしを求めてくれているのだと思うと、嬉しかった。
「あとふた月の我慢ね」
順調にいけば、兄さまの治療はそれくらいで終わる。今小箱に溜まっているぶんでは半月くらいしか持たないだろう。今度彼にとびきり悲しい結末の物語を持ってきてもらって涙を流す必要がありそうだ。
「進捗はこうしてお伝えいたしますから、くれぐれも裏路地の様子を見にいこうなどと考えないでくださいね」
彼は念を押すように告げた。わたしが裏路地に近づいたことが相当恐ろしかったらしい。
「ええ……心配かけるようなことはもうしないわ」
あのときは八重さんが場を収めてくれたから大ごとにならなかっただけで、いつも無事でいられるとは限らないのだ。わたしも自分の無謀さは理解しているつもりだった。
……そういえば。
このところ目まぐるしく色々なことが動いていたため、すっかり意識の外に追いやられていたが、彼に報告すべきことがあったと思い出した。くるりと椅子の上で体の向きを変え、彼に向き直る。
「ねえ、朔。……このあいだ、八重さんに会ったと言ったでしょう」
裏路地に行ったときに彼女に会ったことは併せて報告した。彼は複雑そうな表情をしていたが「まっとうに暮らしているなら何よりです」と折りあいをつけてくれたようだった。
「言い忘れていたけれど……あのとき、八重さんがあなたに会ったと言っていたの。けれど、知らないひとのふりをされてしまったって」
「ぼくに、ですか……? おかしいですね、ぼくは会った記憶はありませんし、そのころは運河のほうは立ち寄っていなかったのですが――」
そこまで呟いてから、彼はぴたりと動きを止めた。わたしと同じ推論に行き着いたのかもしれない。
「八重さんが見かけたあなたは、外出しているのに和装で、眼鏡をかけていたと言っていたわ。……もしかして、朧さんなのではなくて?」
三年前に失踪した彼の叔父。今も消息を追っている彼に安易な期待を持たせることは言いたくなかったが、八重さんが見間違えるほどの人物と思うと信憑性が高いように思う。
しばらくの沈黙ののち、彼はぽつぽつと口を開いた。
「そうかも、しれませんね。……実はこのところ、同僚からもぼくを見かけたと言われて心当たりがなかったことが二、三度ありました。叔父は驚くほど若く見えますから、彼らが叔父とぼくを見間違えた可能性はじゅうぶんありえます」
「じゃあ、近くにいらっしゃるかもしれないのね!」
なぜ消息を経ったのかわからないが、生きている可能性が高まってきた。それだけでも彼にとっては朗報のはずだ。朧さんは彼にとって師であり親のような存在のはずなのだから。
だが、彼の顔は浮かないものだった。何かを恐れるような、険しい顔つきをしている。
「朔……?」
「お嬢さま……先ほどは裏路地に近づかないようにと言いましたが、しばらくは外出自体控えてください。どうしてもというときはぼくが一緒に参ります」
「え、ええ……」
それ自体に異議はないが、脈絡のない忠告だ。ぎこちなく頷くと、彼はわたしの肩を掴み、畳みかけるように続けた。
「それからしばらくはぼくを出迎えるのもやめてください。……予定と違う時間にぼくが帰ってきたら、水野か瀬戸を連れて勝手口から逃げて、桜木を訪ねてください。昼でも夜でもあいつは大抵幻術師の本部にいますから。りんたちにもよく言っておきます」
やけに具体的な指示だ。彼は、何を警戒しているのだろう。
「それは……もしかして朧さんがあなたのふりをして訪ねてくるかもしれない、と思っているということ……?」
朧さんの話題から発展するには妙に物騒な言葉ばかりだが、そうとしか考えられない。
彼はわたしの肩を掴む手にわずかに力を込め、重苦しい溜息をついた。
「……おっしゃる通りです。瞳の色以外は瓜ふたつなので、お嬢さまでも見分けるのは難しいと思います。そもそも……叔父の技量を考えれば、瞳の色くらい難なく変えてくるでしょう」
姿を誤魔化すような幻術はとても高度で、莫大な力を使うものなのだと本で読んだことがある。一時的に使うことはあっても、擬態のために長時間使うことはほとんどないらしい。
「どうして朧さんがそんなことをすると思うの? ここは朧さんの家でもあるのだし、普通に訪ねてきてもよさそうなものだけれど……」
「そうですね……ぼくもあまり、この家が狙われるとは考えたくはありませんが……」
「狙う、って……」
誤魔化しきれない不穏な言葉だ。彼は、ためらうように視線を泳がせていた。
「お嬢さまのお耳にも、帝都の死神の噂は届いているでしょうか。このところ街を騒がせている、令嬢ばかり狙った殺人鬼の話です」
「え、ええ……」
以前桜木さまから聞いたことが、近ごろはりんさんたちからの噂話でも聞くようになっていた。美しく若い令嬢ばかりが狙われて、心臓を抜かれ、遺体には沈丁花が供えられている、と。――そして犠牲者はすでに両手に収まらないほどに増えている、とも。
彼は、意を決したようにまっすぐにわたしを射抜いた。
「ぼくは――帝都の死神は、叔父だと思っています」
言葉の端々が、わずかに震えていた。そう告げた彼自身が、そうは思いたくないと葛藤しているかのようだ。
「そんな、どうして……!」
「帝都の死神は、本部が動向を把握していない有力な幻術師。まずこれだけで消息を絶った叔父に条件がぴったりです」
「っ……でも」
「それに……幻術の使い方がぼくそっくりです。ご令嬢たちの遺体を調べてわかりました。……あれは間違いなくぼくの師の術だ」
彼は項垂れるように俯いた。
打ちひしがれている彼を前にじっとしていられず、思わず立ち上がって彼を抱きしめる。
「それなら……止めなくちゃいけないわね。朧さんが、これ以上罪を重ねる前に」
「はい。急いで手がかりを見つけます。けれどお嬢さまのことが心配で、なるべく家を空けたくありません……」
彼の腕がわたしの背中に回る。伝わってくる鼓動は、いつもよりも早かった。
それだけ、不安に思っているのだろう。宥めるようにそっと、彼の背中を何度か撫でる。
「帝都の死神が朧さんなのだとしたら……きっと、この屋敷が帝都でいちばん安全な場所だと思うわ。朧さんは、あなたを可愛がってくれたのでしょう? わざわざあなたの妻を狙うかしら?」
令嬢たちを殺してまわっている動機が定かではないからはっきりとしたことは言えないが、条件が若い娘、あるいは名家の令嬢、というだけならば、わざわざ親しい者に近い娘を殺しはしないように思う。
「ぼくも、そう思います。叔父は心からぼくを慈しんでくれました。ぼくが叔父でもわざわざあなたを狙ったりはしない」
言葉のわりには晴れない顔だった。彼はわたしの顔を覗き込むようにそっと顔を近づけ、確かめるように指先でわたしの輪郭をなぞった。
「ただ……お嬢さまは人魚の涙を流すご令嬢だ。それだけで幻術師にとっては莫大な価値があります。叔父の目的は判然とはしませんが、幻術を強めるお嬢さまの涙はあって悪いものではないでしょう。ぼくへの情を踏まえても、お嬢さまを望むかもしれない」
彼の親指が、ゆっくりとわたしの唇をなぞる。何度もされていることなのに、指先がいつになく熱くて、ぞわりとした。
「そういう意味でも、本当は早くお嬢さまにくちづけてしまいたいんです。お嬢さまが危険に晒される理由をひとつでもなくしたい」
彼が、くちづけへの障壁を着々と減らしている理由がまたひとつわかった。これも紛れもなく、わたしへの愛情だ。
……早く、彼が心から安らげる日が来るといいのに。
彼はわたしや朧さんやおそらくは兄さまのことも気にかけていて、気を休める暇がないだろう。一刻も早く、平穏な世の中で彼と普通の夫婦になりたかった。
……わたしも余分に涙を溜めておこう。
兄さまの治療や彼の仕事の役に立つかもしれない。明日から悲劇を読み漁る日々を始めよう。
俯いていると、彼がふと名案を思いついたと言わんばかりにぱっと表情を明るくする。
「お嬢さまに一刻も早くくちづけるために、あいつの治療を急いで、一日で終わらせるという手もあります」
「そんな方法があるの?」
「はい。……その場合、あいつの体がどろどろに溶けますが、まあ、いいですよね、心根の醜さが表に出ただけと思えば……。意識のあるどろどろの物体になってもらったほうが、ぼくも仲良くできそうです」
「やめて、兄さまを溶かしちゃだめよ……!」
慌てて彼を引き止める。くすくすと、彼は悪戯っぽく笑った。
わかっている、これは彼なりの冗談だ。わたしが俯いていたから話題を変えてくれたのだろう。彼の不器用な優しさをまたひとつ見つけられた。
彼はそっとわたしを引き寄せ額をすり寄せ、甘く微笑んだ。
「帝都の死神を捕まえたら、また一緒に街へ出かけてくださいますか? ずっと、お嬢さまをご案内したい場所があるのです」
「そうなの? 行ってみたいわ」
「はい、楽しみになさっていてください」
彼はわたしの前髪をかきあげると、ちゅ、と音を立ててくちづけた。唇以外の顔面で、彼にくちづけられていない箇所はもうないのではないかと思う。
「それではおやすみなさい、お嬢さま」
「おやすみなさい、朔」
名前を呼ぶと、彼は満ち足りたように頬を緩めた。こんなに名前を呼ばれるのが好きならば、もっと早くから呼んであげればよかった。
……わたしのことは、なかなか名前で呼ばないみたいだけれど。
兄さまと心中を図ったときには生まれて初めて呼び捨てにされたような気がしたが、あれは焦っていたからだろう。あの夜に眠る際にも「千花さま」と呼ぶのを聞いたが、あれきりだ。
……わたしはいつまで彼のお嬢さまなのかしら。
祝言までには、名前で呼んでもらえるように特訓しなければ。楽しい予定がまたひとつ増えて、自然と頬が緩んでいた。今夜も、彼のおかげでよい夢が見られそうだ。




