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幻術師の泡沫花嫁  作者: 染井由乃
第五章「帝都の死神」

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第一話

「藍兄さま、入りますね」


 月雲邸の客間のひとつの扉を叩き、入室の許可を請う。扉ごしにくぐもった声が返事をした。


「千花」


 部屋に入るなり、寝台に横たわった兄さまが体を起こす。慌てて兄さまのもとへ駆け寄り、その肩をクッションに押し付けようとする。だが、兄さまもなかなか強情で体はびくともしなかった。


「兄さま、いけません。安静にしていただかないと」


「やっぱり、今からでもふたりで逃げよう、千花。きみがこんなところで幸せになれるはずがない」


 兄さまはわたしの肩をそっと抱き寄せると、痛ましいものを見るような目でまじまじとわたしを見つめた。


「申し上げましたでしょう……兄さま。わたしも彼もお互いに好きあっているのです」


 一日に三回くらいはそういっているはずだが、兄さまはまるで聞く耳を持たない。


「錯覚だ。あいつがきみを愛するのは当然だろうが、きみがあんなやつに恋をしていいはずがない。近くにいたから惑わされただけだ。おいで、兄さまが目を覚ましてあげる」


 そのままぎゅう、と抱き寄せられてしまい、身動きが取れなくなる。兄さまからはやっぱり、薬とひだまりの匂いがした。


「兄さま……」


 兄さまの匂いと温もりに包まれると、抗えなくなる。兄さまはずるいひとだ。


「――すこし目を離すとこれだから嫌なんです。何なんですかあなた方兄妹は。ぼくへの当てつけなんですか?」


 背後から明らかに不機嫌な声が降ってきて、びくりと肩を震わせる。そうこうしているうちに無理やり兄さまから引き剥がされ、お腹の辺りに別の腕が回って背後へ引き寄せられてしまった。


「あいつが悪いのはわかっていますが、お嬢さまも流されすぎです。あなたの夫はこちらですよ」


 首を後ろへ傾けると、さかさまの視界で彼と目があった。青空を切り取ったような美しい薄水色の瞳に、頬を緩めたわたしが映り込む。


「朔、来てくれたの」


 にこにこと微笑むと、彼はふい、と視線を背けてわたしを解放してくれた。


「来たくて来たわけではありません。こいつの顔なんて見ないほうが清々しい一日に決まっています。けれど……さっさとこいつの治療を終わらせて、出ていってもらわねばなりませんから」


「ほんとうにありがとう、朔」


 そっと彼の手を包み込みながら、背伸びをして頬にくちづける。たちまち不機嫌そうだった彼の表情が緩むのがわかった。


 彼はそのままわたしを抱き寄せると、どこか得意げに口角を上げた。


「ご覧になりましたか? 義兄上。ぼくの名前を呼ぶお嬢さまの声の甘いことといったらもう。これだけでぼくたちがどれだけ幸せかおわかりになると思うのですが。退廃的なあなたとの関係とは大違いだとご理解いただけたかと」


「それは飼い猫を愛でているのと同じだ。千花は最初の黒猫のこともよくそうやって可愛がっていた。そんなので満足しているんだから扱いやすい奴もあったものだな。それから義兄上と呼ぶのはやめろ。吐き気がする」


 敵意を隠さずに、彼と兄さまはお互いに睨みあっていた。初めははらはらとしていたものだが、この応酬にも近ごろは慣れてきてしまった。


「お嬢さま、いい歳して妹にしか生きがいを見出していないあんな奴のどこがよくて慕っているのですか? 顔ですか? まったく理解しかねます」


「千花。やはりこんな躾のなっていない獣のような男を夫にするのはやめなさい。まともなのは見てくれだけで、嫌味ばかり言ってきてきみが苦労をするのが目に見えている」


 ふたりの悪いところは矛先をわたしにも向けてくるところだった。放っておけばいつまででも嫌味を言いあっていそうだ。


 背後でまだ続いているふたりのやりとりを聞き流しながら、粉末状に砕いた人魚の涙を水に溶かす。


 治療を始めたころに比べれば、これでも仲良くなったほうなのだろうか。思わずふ、と微笑みながら、兄さまがこの屋敷に来たときのことをぼんやりと思い出した。


 ◇


「出て行け。――お前の施しなど受けない」


 兄さまと心中を図った翌日のこと。浅海の別邸で目覚めると、朝からそんな兄さまの声が聞こえてきた。支度を終えても彼の姿が見えず、探し回っていたときに二階から聞こえてきたのだ。


 階段をそっと上り、兄さまが昔使っていたという部屋の前までたどり着く。襖越しにも、険悪な雰囲気がひしひしと伝わってきた。


「ぼくだってあなたなど助けたくはない。もっと早くに始末しておけばよかったと後悔しているくらいです。けれどここで死なれては、お嬢さまの心の一部はあなたに囚われ続ける。そんなのはごめんだ」


 乾いた笑い声が響いた。一瞬分からなかったが、どうやら兄さまが笑ったようだ。


「まるでお前如きがいつか千花の心を得られるような物言いだな。猫の代わりに飼われていた使用人が思い上がったものだ。正体を隠して縁談を持ちかけたのは復讐のためだろうに、今更純愛でも気取っているのか」


「あなたこそ、ご自分の立場をおわかりでないようだ。離縁のでっち上げに加担しておいて、よくそんな涼しい顔をしていられますね。雨宮から持ちかけられた話なのだとしても、あなたの手紙ひとつで事態はここまで大きくなったんだ。責任は取っていただきますよ」


「家でも命でも好きに持って行くといい。千花が手に入らないなら他はどうなっても構わない」


「あなたの嘘のせいでお嬢さまは傷ついたんです。あの狡猾な雨宮に、突き飛ばされて笑われたんですよ。それでなんとも思っていないのなら、あなたのお嬢さまへの愛は張りぼてのようなものだ」


 休む間もなく続いていたやりとりに、一瞬の沈黙が訪れる。聞き耳を立てるなんてはしたないと思うのに、身動きが取れないような緊張感があった。


「……だから、死のうとしている。治療などするな」


「わからないひとですね、あなたも。ぼくは償うために生きろと言っているのです。死んで償うなんて逃げと同じだ」


 冷たい響きの声だったが、彼の言葉には凛とした決意がこもっていた。このひとは、兄さまが何を言おうとも命を救おうと決めているのだ。兄さまだって、彼を虐げ苦しめた者のひとりなのに。


 彼がひとりで兄さまを説得しようと戦っているのに、ここで黙って聞いている訳には行かない。意を決して襖を開け、兄さまのそばへ駆け寄った。布団の上で体を起こした兄さまは、昨日の朝よりもいっそう青白い顔色をしている。


「兄さま……お願い。彼の言うことを聞いて。わたし、兄さまに生きていてほしいのです。兄さまに、幸せになってほしいの」


 父の火葬を見て清々しく笑っていたあの横顔といい、この別邸に来たときの寂しげな微笑みといい、兄さまのこれまでの人生が幸せではなかったことくらいわかる。わたしの知らない苦しみがたくさんあったはずだ。


 そっと、兄さまの痩せ細った手を両手で包み込む。わたしより、温度の低いかさついた手だった。


「わたしに申し訳なさがあるのなら……彼の言うとおり治療を受けてください。治療には、わたしの人魚の涙も使うのですって。わたし、人魚の涙が兄さまを助けるために使われるなら嬉しいです。人魚の涙を、忌まわしいだけのものじゃないって思えるわ」


「千花……」


 兄さまは、揺らぐ瞳でわたしを見つめていた。だが、すぐにふい、と顔を背けてしまう。


「けれど……ぼくはきみがこいつに穢されるのを見るのは耐えられない。こいつの妻などにきみが貶められるなんて……」


「酷いことをおっしゃらないで。彼は……わたしの好きなひとなんですから」


 彼への想いを明らかにすることは、やっぱりまだ気恥ずかしさがつきまとう。


 兄さまはぎょっとしたように目を見開くと、そのまま自らの前髪をぐしゃりと握りつぶし、俯いてしまった。


「……やはり死にたくなってきた。千花、どうかきみの手でぼくを殺してくれ」


「兄さま……!?」


 あと一息だと思ったのに、話が妙な方向に転がってしまった。兄さまは先ほどよりもいっそう生気をなくしたように見える。


「よろしいのですか? お嬢さまの白無垢姿を見届けずに死んでしまっても」


 ふと、彼がわたしの隣に移動してきて、揶揄うように告げる。俯いていた兄さまの肩がぴくりと震えた。


「白無垢?」


 これにはわたしも首を傾げる。彼と父の間の取り決めでは、この結婚には祝言はないはずだった。


「せっかくですから、祝言を挙げませんか。生涯にいちどのことですし……ぼくもお嬢さまの花嫁衣装が見たいです」


 柔らかに微笑みながら、彼はねだるようにわたしを見つめてきた。その甘いまなざしに、どきりとしてしまう。この目で見つめられたらどんなおねだりでも叶えてしまいそうだ。


「白無垢姿のお嬢さまは、天女のようにお美しいでしょうね。洋装を試してみるのもいいなあ……。幻術で色を載せた写真も撮って、部屋に飾るんです。欲しければわけて差し上げますよ、《《お義兄さま》》」


 揶揄うような含みを込めて、彼は兄さまを初めてそう呼んだ。明らかに気に障ったような兄さまが彼を睨みつける。


「あまり調子に乗るなよ、黒猫風情が」


「それで? どうなんですか、見たいんですか見たくないんですか」


「それは……見たい、に、決まっている……」


 絞り出すような声で兄さまは答えた。彼が、勝ち誇ったように意地の悪い笑みを浮かべる。


「それでは生きてください。あなたが死んだら祝言に呼ぶ親族もいなくなって、あまり意義がなくなってしまいますので」


 どうやら彼の説得が上回ったようだ。今回は、彼の勝ちなのだろう。不本意そうな兄さまと、勝ち誇った笑みを浮かべる彼の組み合わせはなんだか新鮮だった。

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