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幻術師の泡沫花嫁  作者: 染井由乃
第四章「鈍色と人魚姫」

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第四話

 彼はどうやら月雲邸の使用人を全員連れてきていたようで、湯浴みはすずさんとりんさんが手伝ってくれた。石鹸で洗われると兄さまの腕と一緒に縛っていた右腕がひりひりと痛む。足の裏も、時折ずきりと傷んだ。裸足で歩いていたから傷ついたのかもしれない。


「ご無事で何よりでございました、千花さま」


 ふたりは何度もその言葉を繰り返した。わたしが死んでいたら、きっとこのふたりは深く悲しんだのだろう。友人のような存在のふたりを目の前にすると、先ほどまでのわたしの決断を申し訳なく思う気持ちが湧いてきた。こうなることを織り込み済みでふたりを連れてきているのだとしたら、彼は大したものだ。


「……月雲邸は、どうなっているの? 雨宮さまは?」


「そのあたりは、旦那さまからお話があるかと。……おそらく、相当怒っておいでですよ。雨宮さまにはもちろんのこと、お嬢さまの兄上さまにも、お嬢さまにも、おそらく……ご自身にも」


 月雲邸を出てから、まだ二日しか経っていない。彼は、仕事を途中で切り上げてここまで駆けつけてくれたのだ。黙って叱られるのは道理かもしれなかった。


 湯浴みを終え浴衣に着替えると、一階の客間に通された。畳が敷かれた広々とした部屋だ。わたしが住んでいた離れの寝室の倍はあるだろう。


 そこには、同じように浴衣に着替えた彼の姿があった。わずかに開いた窓から、夜の海風が迷い込んできて、彼の柔らかな黒髪を揺らしている。


 彼が座る座布団の前には、布団が敷かれていた。どこへ座るべきか迷っていると、彼が布団に目配せをする。


「早くここへお座りください。怪我の治療をしますから」


 変わらず、どこか冷ややかな声だった。おずおずと布団に座り込み、彼と向かいあう。


「あの……兄さまは、大丈夫かしら……」


 ただでさえ弱っているお身体で海に入ったのだ。おそらく海水も吸い込んだに違いない。肺炎を起こしていないといいのだが。


「殺しはしておりませんのでご安心を」


 そういうことを聞きたいわけではなかったが、それ以上を教えてくれる気はしなかった。


 軽く俯いていると、彼の手が無遠慮に右の前腕に触れてきた。湯上がりで肌が火照っているせいか、兄さまに縛られたところが薄紅色に浮き上がっている。


「あいつの執着が透けて見えて最悪な傷跡ですね。綺麗に消して差し上げます」


 彼は明らかな苛立ちを隠さずに呟くと、すぐにわたしの腕に手を翳した。じわりと温石を押し当てられるような心地よい温もりに包まれる。彼が手を翳したそばから、赤い跡も、紐で擦れた傷もみるみるうちに治っていった。


 傷ひとつなく滑らかになった右手を、そっと部屋の灯りに翳す。なんなら今朝よりも肌が綺麗になったように思えた。


「幻術ってすごいのね……ありがとう」


「足も見せてください。裸足で歩いていたでしょう」


「え、ええ……でも」


 寝台があるなら彼に跪いてもらえばよかったのだろうが、この状態ではどうやって彼に足を見せればいいのだろう。ひとまず正座を崩してはみたものの、どうすればよいかわからず視線を伏せる。


「どうしました? 早く見せてください」


「足を伸ばすことになるわ。……それは、はしたないもの」


 大した傷はないのだ。どうにかして見せずに済む流れに持っていけないかと考えていると、崩した右足に彼の手が触れた。そのまま足を伸ばされ、踵を彼の膝に乗せるような体勢になってしまう。


 彼は真剣に足の裏を診察してくれているようだった。これ以上彼に文句をいう資格はないように思えて、じっと我慢する。


「やっぱり、切り傷があります。貝殻か何かを踏んだのでしょう」


 彼はそう言いながらわたしの足の裏に手を翳した。腕と同じように温かな感触が、なんだかくすぐったい。


「反対側も見せてください」


 淡々と促され、恥ずかしがっていたことがなんだか余計に気恥ずかしくなってしまった。彼は単純に傷を診てくれようとしているというのに、妙に意識してしまって却って彼にも失礼だ。


 両足の治療を終え、再び正座で座り直す。彼と向かいあうような体勢だ。


「――離縁したいというのは、ぼくの意思ではありません」


 何から話そうかと逡巡していると、彼は前触れもなくきっぱりと宣言した。


 はっとして、伏せていた視線を彼に戻す。真剣な、わたしの好きな鮮烈なまなざしだった。


「離縁は、雨宮家の計略です。そこにあなたの兄上も力添えをしたようです。雨宮はぼくとお嬢さまの離縁でぼくが欲しかった。あなたの兄上はあなたを取り戻して自分のものにしたかった。利害が一致し、ぼくの留守を狙って実行したようです」


 これには、驚きを隠せない。あれだけの大ごとが、彼の意思を交えずに行われているだなんて思ってもみなかった。


「その……雨宮さまとあなたは、恋仲なの? そんな強引な策略が押し通るほどの仲だったの?」


 自分で聞いておいて、ずきりと胸が抉られる気がした。これは、令嬢といい仲になっておきながら、お飾りの妻と離縁しない彼にしびれを切らして雨宮家が起こした策略なのだろうか。


「まさか、考えたくもありません。令嬢と話したのはあの花見のときと……それから、街でいちど会って、安全な場所まで送ったことがあるだけです。近ごろあの辺は、危ないですから」


 帝都の死神。桜木さまがおっしゃっていたことが蘇る。だが、送っていただけにしてはふたりの姿はあまりに親密だった。


「でも……雨宮さまはあなたの肩にもたれかかって、あなたも……腰を引き寄せていたわ。だからわたし、あなたたちは恋人同士なのだと思ったの……」


「お待ちください、あの雨の日に街にお出かけになっていたのですか」


 いずれは、明かそうと思っていたことだ。じっと黙り込んで、彼の言葉を待つ。珍しく狼狽えている姿が、必死にはぐらかそうとしているように見えて、なんだか面白くない。


「あれは……令嬢が具合が悪いとふらついたので、支えただけです。あれくらいなら、幻術師として老若男女誰にでもしています」


「ふうん……」


 それはそれでまた面白くないのは確かだった。彼はわたしにとって特別なひとなのに、誰でも彼に触れられるなんて。恋というもののせいで、自分がどうにも面倒な女になってしまっているようでやるせない。


 ふっと伏せたわたしの視線を奪うように、彼はわたしの頬に手を当てた。


「ぼくが触れたくて触れているのはお嬢さまだけです。妙な誤解はしないでください」


 薄水色の瞳が、懇願するように小さく揺れていた。思った以上の熱量で説得されてしまい、慌てて視線を逸らした。


「わ、わかったわ……しつこく聞いてしまってごめんなさい」


 まっすぐな気持ちを受け止めるのは、どうにも緊張してしまう。頬に触れる彼の手からそっと逃れ、話しあうのに適切な距離を保った。


「けれどそれなら……雨宮さまは、いったいどうするつもりだったのかしら?」


 まるで薫子さまは彼と婚約を結んだかのような物言いだったが、彼の同意のないことだったのならば、出張から帰ってきた時点で薫子さまは月雲邸から追放されてしまうだろう。兄さまとの心中が遂げられていれば、わたしの死亡で彼とわたしの離縁自体は成立するのだろうが、そんな状況で彼が薫子さまを新たな妻に迎えるとは到底思えない。


「雨宮は一族をあげてぼくを婿として取り入れたいようでしたから……三日後に予定されていた宴で、ぼくと令嬢の既成事実を作ってしまおうと画策していたようですよ。まったく反吐が出ますね」


 彼にしては言葉が荒い。それだけ苛立っているのだろう。既成事実を作ろうとするなんて、卑怯にも程がある策略だ。


「こんな醜い計略にお嬢さまを巻き込んでしまったことは、ぼくの失態でもあります。そもそも雨宮などと取引をしなければよかったのです。今回の件で雨宮の貿易船の事業からは完全に手を引きました。あの家と関わることは二度とありません。……どうかお許しください、千花お嬢さま」


 彼は座布団から下りて、畳の上で頭を下げた。まさか彼に謝罪をされるとは思わず、慌てて彼の肩に手を当てて顔を上げてもらう。


「やめて、どうしてあなたが謝るの……」


「駆けつけるのが今日になってしまったことも含めての謝罪です。言い訳にしかなりませんが、昨日、港に着くなりすぐに貿易船の試運転に同乗しておりましたので……りんたちからの報せを受けたのが今朝になりました。そこから浅海の本邸へ赴き、お嬢さまは別邸に行ったと聞かされ……あの時間になってしまったのです」


 膝の上で握られた彼の拳が震えていた。思わず、彼の顔を覗き込む。


「どうしたの……?」


「ぼくがどれだけ恐ろしかったか、わかりますか、お嬢さま。……あと数分遅れていたら、ぼくは永遠にお嬢さまを失っていたのです」


 彼の手が、わたしの両肩を掴んだ。指先が食い込むような力強さに、びくりとする。薄水色の瞳が、射抜くようにわたしを睨みつけていた。


「次はあなたの番ですよ、千花お嬢さま。――到底許せる気はしませんが、お話だけは聞いて差し上げます。どうしてあんなことをしたのです。それほどあいつを慕っているのですか」


 体勢を保っていられず、思わず足を崩してしまう。背中が後ろに傾いだぶんだけ、彼は距離を詰めてきた。


 わたしの体を支えるように、彼の手が背中に回る。吐息を溶かし込むような距離で目が合ってしまった。


「あいつにねだられれば、命も捧げてしまえるほどの想いなのですか。ぼくは……あなたをこの世に繋ぎ止める糸にはなりえませんでしたか」


 ……どのみち、これが最後なのかしら。


 この結婚は、今日でおしまいになるのかもしれない。ここまで問い詰められて、彼への恋心を隠したまま言い逃れができるはずがなかった。


 ……これでは、生き地獄みたいだわ。


 ぽろぽろと、涙が溢れてくる。彼がわたしの想いを知り、結婚を継続していても復讐にならないと知ってしまったら、きっとわたしはいらないと言われてしまう。それが、どうしようもなく苦しくてならなかった。


 だが、これもきっとわたしへの罰なのだろう。一代目のたまを救えず、父に刺された彼を見殺しにしようとした挙句、浅ましい恋心を隠して彼のそばにいたわたしへの、当然の報いなのだ。


「泣いても……今夜ばかりは見逃してあげられません。難しいなら『はい』か『いいえ』でいいんです」


 真珠に変わっていくわたしの涙を見て、彼は苦しげに眉をひそめた。昔からそうだ。彼はわたしが泣いていると、まるで自分が悲しんでいるかのような顔をする。その優しさが、ずっと好きだった。


「違うの、わたし、わたしね……」


 そっと、彼の頬に両手の指先を触れさせる。彼の薄水色の瞳に、涙目のわたしが映り込んでいた。


「わたしね、あなたを好きになってしまったの。あなたに……恋をしているのよ」


 ついに、言ってしまった。この結婚を終わらせる破滅の言葉だ。


 意識すると、余計に涙があふれてくる。


「本当はもうずいぶん前から気づいていたの……。気づいていて、隠していたのよ。だってあなたはわたしを復讐のために娶っているのに……わたしがあなたの奥さんになれて喜んでいたら、ちっとも復讐にならないでしょう?」


 泣いても彼を困らせるだけだ。そう思うのに次から次へと大粒の涙がこぼれていく。


「復讐にならないとわかったら……あなたはわたしがいらなくなる。だから、離縁の話を聞いて、きっとわたしのこの気持ちがあなたにばれてしまったのだと思ったのよ。あなたに見限られて……その上、兄さままでいなくなって……ひとりぼっちになってまで、生きていたくはなかったの」


 嘘偽りのない想いだった。心の中の感情を丸ごと曝け出すのは初めての経験で、言葉がうまく選べない。彼の反応を見るのも怖くて、両手で顔を覆って必死に泣き顔を隠す。


 ふいに、背中を支えてくれていた彼の手が後頭部に移動したかと思うと、頭を庇いながらそのまま布団の上に押し倒された。


 驚くまもなく、顔を隠していた両手を無理やり剥がされ布団の上に押しつけられる。わたしに覆い被さるような姿勢で、そのまま彼は顔を近づけてきた。


「ま、待って、どうしたの……急に……」


 状況に頭がついていけず、さっと顔を背ける。ばくばくと心臓が今までにないくらいに激しく暴れていた。


「この状況で説明させるなんて、無粋にもほどがあります……」


「だって……こんなのおかしいもの、くちづけは恋人同士がするものよ。無闇にしてはいけないのよ……」


「恋人どころかぼくたちは夫婦ですよ」


 手首を押さえつけていた手が緩み、彼の指先が頬を掠めるように撫でた。今まではなんともなかったはずのその感触に、大袈裟なくらいに肩が跳ねてしまう。


「お嬢さまがぼくに想いを寄せたことでこの結婚が終わるなんて……そんな勘違いをしていたとはまるで存じ上げませんでした。確かに言葉が足りなかったかもしれませんね」


 くすりと笑って、頬を掠めた指先がそっとわたし前髪を撫でるようにかきあげた。


「ぼくは、何があろうとお嬢さまを手放す気はありません。申し上げたはずです、一生をかけて償っていただくと」


 隠すものがない視界の中で、いつになく晴れやかな彼の微笑みが目に焼きついていく。


「それは、復讐のための契約結婚が、想いを通わせた幸福な結婚になっても変わりません。――お嬢さまには、一生ぼくのそばにいていただきます」


 同じような言い回しなのに、途端に甘く聞こえて耳が溶けてしまいそうだ。頭の中が沸騰するような熱を感じながらも、慌てて問い返す。


「でも……復讐はもういいの? わたしは、あなたに許されたの?」


「ぼくが許しがたかったのは、ぼくが刺されたときにあなたが無表情でいたことです。ぼくはお嬢さまが好きだったのに……帰ってきたのは涙どころか無関心でした。いちばん最悪です。それならば、嘲笑ってくれたほうがよっぽどよかった」


 先ほど水の中で、わたしが彼に願ったことと似たような想いだ。海に入る前のわたしであればそれを理解することは難しかったかもしれないが、今ならわかる。


「だからあなたを無理やり手に入れて……憎悪でもいいからお嬢さまから感情をいただきたかった。それだけ拗れて歪んだ初恋の結果が、この結婚です。心からの復讐のつもりです。お嬢さまが自ら招き寄せた不幸ですね」


 くすくすと皮肉げに笑いながら、彼はわたしの頭を撫でた。自嘲気味な言葉とは裏腹に、髪を撫でる指先はくすぐったいほどに丁寧だ。


「不幸じゃないわ……だって、わたしはあなたが好きなんだもの」


 ぼろぼろと泣きながら告げれば、彼はくすりと笑って再び頬を撫でた。そのまま頬に手を添えられ、熱を帯びた視線に捉えられる。


「では、くちづけを拒む理由はなくなりましたね」


 甘い声に、一瞬流されそうになる。だが理性を振り絞って、彼の唇に指先を当てた。


「待って、まだあるの」


「まだあるんですね……」


 彼はわずかに微笑みを引き攣らせて、姿勢を正した。焦らしているつもりはないが、なんだか待てをさせてしまっているようになってしまった。


「もっと早くに言いたかったのだけれど……その、人魚の涙を流す力は、くちづけで失われてしまうの。真実の愛が通ったくちづけで」


 言ってしまってから、わたしが彼とのあいだに真実の愛があることを信じている遠回しな表明になっているような気がして、だんだん恥ずかしくなってきた。


「それ、は……」


 元から人魚の涙のことは気にもかけていなかった彼のことだ。一応伝えてはみたが、きっとそんなものはどうでもいいと言ってくちづけてくれるだろう。


 だが、帰ってきた反応は予想外のものだった。


「それは……そうなんですね。じゃあ……一旦やめておきましょうか。あと百日ほどは」


「え……?」


 思わず、上体を起こして彼と向かいあう。彼は視線を伏せて、溜息まじりに告げた。


「実は……あいつの――あなたの兄上の治療に、人魚の涙が必要なのです。ぼくの幻術だけではどうにもならない。人魚の涙の力を使って初めて、効果的な治療ができます」


「治療って……え?」


 殺していない、と先ほどは宣言していたからには、兄さまは無事だと思っていたが、まさか彼は兄さまの持病まで治そうとしてくれているのだろうか。


「だって……兄さまは、あなたが浅海家で苦しむことになった元凶で……ずっと、酷い扱いをしていたのよ。どうして……?」


 彼は、どこか拗ねたように視線をそらした。


「ここであいつが死んだら、きっとあいつはお嬢さまの心の中で綺麗な思い出として焼きついてしまうではありませんか」


 彼は心底不本意だというように、拗ねた表情のままもういちど溜息をついた。


「……生きている者が死者の思い出を超えるのは大変なんですよ。そんな苦労をさせられるのはごめんです。それならあいつの持病を治して、長生きさせて、お嬢さまの意識の外で、盆と正月に思い出すくらいの存在として生きてもらったほうがよほどましです」


 彼の言いぶんはわかったが、あまりに彼はわたしを甘やかしすぎている。これではわたしが幸せになってしまう一方だ。


「……わたし、あなたになんてお礼を言ったらいいのかわからないわ」


「感謝する必要はありません。ほとんど自分のためですから。……あいつのせいで、お嬢さまへのくちづけをお預けさせられる羽目になっていることに関しては、腹立たしいですが」


 この話を聞いた兄さまの、すこし意地悪で満足げな表情が眼に浮かぶようだ。彼も同じことを考えていたのか、再び大きな溜息をついた。


 ……なんて、やさしくて愛おしいひとなんだろう。


 思わずその横顔に顔を近づけて、彼の頬にちゅ、とくちづける。


 拗ねるように目を細めていた彼が、はっと目を見開くのがわかった。


「ありがとう、朔。大好きよ」


 もういちどちゅ、と頬にくちづけて顔を引く。触れた唇がなんだか熱かった。


 彼はわずかに耳の端を赤く染めて、わたしがくちづけた部分を押さえていた。何か言おうとして唇を開きかけ、また閉じる。たっぷり数十秒が経ってから、ようやく言葉らしい言葉を聞けた。


「……頬には、くちづけていいのですか」


「ええ、唇以外なら大丈夫なの」


「それは、ぼくからでもですか」


「ええ、そうね」


 今までも手のひらや頭にはされたことがある。それは彼もわかっているから念の為の確認なのだろう。


「ちゃんと確かめられてよかったです。……いいことを聞きました」


 照れていたはずの彼の瞳に、怪しげな光が宿る。微笑んだ唇の隙間からわずかに赤い舌がのぞいていた。


 あっと思った瞬間には、彼に手を掴まれ、体を引き寄せられていた。


「くちづける場所は何も、唇だけではありませんからね。あいつの治療が終わるまでは、他の場所を堪能させていただくことにします」


「他の場所……?」


 言っているそばから、彼は掴んだわたしの手を口もとに寄せ、指先にくちづけた。それは何度も繰り返され、最後にはかじるようなくちづけになる。


 硬い歯の感触に、ぞわりと甘い寒気が背筋を抜けていった。思わず、手を引っ込めて肩を縮める。


「かじるのはだめ……怖いもの」


「甘噛み程度なので許してください。……次はどこにいたしましょうか」


 凄絶な色気をにじませてゆったりと微笑む彼を前に、わたしはもう限界だった。一日で進む段階をとっくに超えている。


「ふ、ふしだらだわ。今夜はもう寝るのよ。あなたも疲れているでしょう」


「夫婦間にふしだらも何もないと思いますが……」


「あるの! とにかく、おやすみなさい!」


 布団を巻き付け、彼に背を向けるようにして横になる。心臓はばくばくと高鳴ったままで、言葉では就寝の挨拶をしたものの、すこしも寝付けなさそうだ。


 背後で、彼がくすりと笑うのがわかった。先ほどわたしが頬にくちづけたときにはあんなに照れていたくせに、その余裕がなんだか恨めしい。


「わかりました。今日のところはおしまいにしましょう。おやすみなさい――千花さま」


「っ……」


 耳もとでわたしの名を呼んだのを最後に、客間の明かりが消えた。おそらく彼が幻術で消したのだ。


 きし、と畳が軋む音がして、彼が移動しているのがわかる。どうやら、彼が休む部屋は別にあるらしい。


 それをよかったと思いつつも、どこか寂しくも思う欲張りなわたしがいた。


 胸の中もお腹の中も、ぽかぽかする。こんなに幸せな気持ちで眠れるのは、きっと彼が浅海家にいたあの幼い日以来だ。


「えへへ……」


 暗がりの中で、静かに微笑みながら涙を流す。それはすぐに、大粒の真珠に変わっていった。


 幸せを理由に泣いたのは、これが生まれて初めてのことだった。

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