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幻術師の泡沫花嫁  作者: 染井由乃
第四章「鈍色と人魚姫」

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第三話

「わあ……すてき、こんなに海が近くに見えるなんて」


 兄さまの行動は早かった。わたしたちは喪服姿のまま別邸に向かい、その日の夕方には到着したのだ。


 別邸は二階建ての小さな和風のお屋敷で、二階の客間からは海がよく見えた。夜には波の音がよく聞こえるだろう。曇天を映し出す、淀んだ海だった。


「ここは昔、ぼくが使っていた部屋なんだ。……懐かしいな」


 兄さまもわたしの隣で、窓枠に肘をついて海を眺めていた。


 潮風が、兄さまの黒髪を揺らす。わたしと兄さまの髪質はよく似ていた。異母兄妹であるせいか顔立ちはあまり似ていないから、数少ないわたしと兄さまの共通点だ。


 そっと兄さまの肩に頭をもたれかけ、目を瞑って波の音に耳を澄ませる。何も言わずに、兄さまが頭を撫でてくれた。わたしを、この世のつらいことからも快いことからも遠ざける、淡い夢に誘う手だ。


「きみとこの景色を眺められる日が来るとは思わなかった。……しあわせだよ」


 兄さまは欲がない。こんな結末を幸せだと思うなんて。けれどその静けさも、兄さまの好きなところのひとつだった。


「……はい、兄さま、わたしもしあわせです」


 本当のところは自分でもわからないけれど、これもひとつの幸福だと思った。


 これはきっと恋でも、家族愛でも、友人に向けるような親愛でもない。わたしと兄さまのあいだにあるのは、熱も揺らぎもない、ただ自分のかけらを求めあうような、静かな慕わしさだった。


 ……彼への愛とは、まるで違う。


 未練がましく彼のことを思い出してしまい、ふ、と自嘲気味な笑みがこぼれた。それに気づいたのか、兄さまがくすぐるようにそっと額にくちづけてくれた。


「どうしたの、千花」


 そっと、弄ぶように髪を撫でられる。彼よりも冷たい、骨ばった手だ。


「いいえ、ただ……手に入れられなかったものを惜しんでいただけです」


「そうか。外の世界を知ってしまったから、苦しくなったんだね。……海の外の世界に憧れてしまった、人魚の姫君みたいだ」


 そうかもしれない。海の中のことしか知らなければ、余計な苦しみなど味わわなかったのかもしれない。


「ぼくが人魚姫の兄ならば、姫を鎖に繋いでも海の上になど行かせなかったのに。……ぼくも、そうすればよかったかなあ」


 兄さまの指に、長い髪が絡む。分厚い雲の隙間から、焼けるような夕日がのぞいていた。


 ふいに兄さまが、げほげほと苦しげに咳き込んだ。思わず兄さまにもたれかかるような姿勢から体を起こし、兄さまの背中をさする。


「兄さま……? 大丈夫ですか?」


 兄さまはわずかに涙目になりながら頷いた。ようやく咳がおさまったのを機に、彼は静かに微笑んだ。


「……砂浜に出てみようか、夕焼けが綺麗だ」


 そのときが来たのかもしれないと、なんとなく思う。こくりと小さく頷いて、そっと兄さまを抱きしめた。たまよりもひと回り小さい、痩せ細った体だ。


「はい……兄さま。おともいたします」

 




 夕暮れの砂浜は、潮風が吹き抜けていて思ったよりも清々しかった。風に煽られる髪を片手で押さえながら、目を細めて遠くの夕暮れを見やる。


「きれい……」


 分厚い鈍色の雲に、鮮やかな橙色が溶け込んで、空を燃やし尽くそうとしているかのようだった。帝都の街灯の柔らかな色とはまるで違うのに、どうしてか彼のことを思い出してしまう。空を燃やし尽くすような激しさが、彼に似ているからなのかもしれない。


「昔は裸足で駆け回っていたなあ……」


 兄さまは懐かしむように告げると、ふと、草履と足袋を脱ぎ捨てて、裸足で砂の上に立った。上等な喪服姿のまま、裸足で砂の上に立つその姿はなんだかちぐはぐだ。けれど、兄さまが解放された証のようにも見えた。


「千花もどうだい」


「ええ」


 兄さまの真似をして草履と足袋を脱ぐ。恐る恐る素足を白い砂に沈めると、思ったよりも不安定でふらついてしまった。


「危ない」


 傾いた体を、兄さまがすかさず抱きとめてくれる。


「ありがとう、兄さま」


「すこし歩こうか」


「ええ」


 手を繋いで、裸足のままあたりを歩き回る。おぼつかない足もとがなんだかおかしくて、意味もなくくすくすと笑った。つられるように兄さまも笑っていた。


 途中で重たい羽織を脱いで、そのまま砂浜に打ち捨てる。なんだか、心まで軽くなるような気がした。


 目を瞑って、体全体で潮風を受ける。ひらひらと、長い髪が後ろへ靡いていた。


「千花」


 夕暮れが空を焼き尽くすころ、兄さまは懐から折り畳まれた薄い紙を取り出した。夕暮れに透けた紙のあいだに、粉状の何かが溜まっているのが見える。どうやら薬包紙に包まれた粉薬らしい。


「口を開けてごらん」


「あ……」


 兄さまは包みを折りなおして、飲みやすいように調整していた。悲しいことに、手慣れている。おそらくその薬をわたしに飲ませようとしているのだろう。


「だいじょうぶ。お医者が処方した苦痛を和らげる薬だよ」


 なぜそんなものを、と今更聞く気はなかった。一瞬のためらいを掻き捨てて、餌を待つ雛のようにそっと口を開け、目を閉じて薬を待つ。さらさらと口の中に入れられた粉薬は、甘苦い味がした。


 水がないのでなんとか苦労して飲み下す。そのあいだに、兄さまは羽織から綺麗な緋色の幅広の帯のようなものを取り出していた。あれは、わたしが幼いころに使っていた兵児帯だ。細く折りたたんで、紐状になっている。


「兄さまは……? 兄さまは、お飲みにならないの……?」


「ぼくはちゃんと最後まで苦しまないと。……きみを道連れにするんだから」


 兄さまはわたしの右手を、指を絡めるようにして握り込んだ。その上から、紐状に細くした兵児帯をぐるぐると巻きつけた。鬱血するくらいの強さだったが、このくらいがいいのだろう。指先に血が通わなくなることなんて、もう心配しなくていいのだ。


「ごめんね、千花。こんな結末しか用意できない兄さまで」


「いいえ……いいのです。ひとりぼっちになるよりは、このほうがずっといい」


 わたしにはもう、黒猫のたまも、彼もいないのだ。わたしに唯一残された兄さままで失ったあとのことなんて、想像するのも嫌だった。


「浅海家の歴史を学ぶたび、ほんとうはずっと思っていたんだ。……こんな家は、終わらせたほうがいいって」


 兄さまがわたしを道連れにしようとする理由は、わたしをひとり残していくことを心配しているから、というだけではないのだろう。


 兄さまは、人魚の涙に翻弄された代々の浅海家の娘たちの過去に心を痛めていた。きっと記録に残っていないだけで、わたしのような目にあった娘はいただろう。二度と人魚の涙を流す娘をこの世に誕生させないという意味では、ここで浅海の血を絶やすのは賢明なのかもしれない。


「ふたりで、人魚の呪われた血をおしまいにしよう。……愛しているよ、千花」


「はい、千花も兄さまが大好きです」


 背伸びをして、そっと兄さまの頬にくちづけた。くすりと笑った兄さまが、お返しにわたしのこめかみにくちづけてくれる。お別れのくちづけだ。


 ……こんなことなら、彼にいちどでもくちづけておけばよかったかしら。


 命を終えようかというときにも、わたしはどうしようもなく欲深い。


 つまらない意地に流されず、恋慕う人の唇の感触くらい知っておいてもよかったのに。


 お慕いしております、の一言くらい、伝えておいてもよかったのに。


 何もかも、今更だ。兄さまの手に引かれるようにして、波打ち際に足を進める。初夏の季節に差しかかったとはいえ、夕暮れの海は想像以上に冷たかった。


 ざぶざぶと緩やかな波の中に足を進める。喪服は水を吸っていっそう深い黒に染まっていた。夜が近づいてくる薄闇の中で、わたしと兄さまの手を結ぶ赤い紐だけが鮮やかだ。


 ……わたしと兄さまの死の知らせを聞いたら、彼はどんな反応をするのかしら。

 忌まわしい浅海の家がようやく終わってくれたと、安堵するのだろうか。いい気味だと思うだろうか。


 悲しんでほしいなんて贅沢は言わない。せめて、嘲笑ってほしかった。


 そこまで考えてふと、彼が言っていたことを思い出す。


 ――でも……あなたはよくわからないひとですね。こんな傷で涙してくださるなんて。――あのときは、泣きも笑いもしてくださらなかったくせに。


 彼はわたしの父に刺されたあのとき、確かにわたしだけを見ていた。


 わたしはあのとき、どんな表情をしていただろう。ただ驚いて、恐ろしくて、息ができなくなって、呆然と彼を眺めていたのではなかったか。


 彼からしてみれば、彼が殺されようというときにも表情ひとつ変えない残酷な「お嬢さま」に見えたに違いない。こんな状況になってみれば、無関心がどれだけつらいかわかる。


 せめて、笑ってほしいのだ。愛情を得られないのなら、せめて、ざまあみろ、いい気味だと嘲笑ってほしいのだ。どんなかたちでもいい、心に揺らぎを生んでほしい。


 そう思うほどに、焦がれている。お互いに、焦がれていた。


 ……あのころの彼はきっと、わたしを好いてくれていたのね。


 今更気づくなんてわたしは本当に馬鹿だ。救いようがない愚か者だ。


 ……ごめんね、たま。


 せめて彼に、あなたが刺されたときは死ぬほど悲しかったのだと、伝えておけば救われる心があったのだろうか。確かめる術はもう、どこにもないけれど。


 水が、口もとまで迫っていた。苦痛を覚悟してぎゅう、と目を閉じる。眼裏に浮かぶのはやっぱり、彼の悪戯っぽい微笑みだった。


 ……大好きだったな。


 王子さまを殺さずに泡になる道を選んだ人魚の姫君も、こんな気持ちだったのだろう。姫は苦しくなかったのだだろうか。泡になるのは、痛くなかっただろうか。


 海水を吸い込んで、むせ込みたいがうまく吐き出すこともできない、反射的に兄さまの手を強く握りしめた。兄さまも同じように手を握り返してくれる。薬を飲んでいない兄さまは、きっと私より苦しいだろう。


 遠くから、誰かがの声が聞こえていた。水の中で鈍く響いたその音が、現世のものなのか、あるいは死後の世界のものなのかはっきりしない。苦痛が生み出す幻聴なのかもしれなかった。


「――さま……! 千花!」


 ぶくぶくと頭上へ向かって細かな泡が浮上していく。まるで自分の体がきれいな泡になってくれたみたいだ。


 その瞬間、細い水の流れが腰に巻きつくような感触があった。はっとしたのも束の間、その細い水流は縄のように私の腰を捕えて、勢いよく砂浜に引き寄せていく。あまりの勢いの速さに眩暈がした。


 腰くらいまでの高さまで引き戻されたとき、背後から誰かに抱きとめられる感覚があった。目を開けようとするも、海水が染みてうまく瞼を上げられない。


「千花! 千花、しっかりしてくれ……!」


 わたしを抱きしめるそのひとは、煩わしそうにわたしの右手に巻かれた紐を断ち切ると、ざぶざぶと水をかき分けながら砂浜へ向かった。隣で別の気配がして、兄さまを同じように引き上げているのがわかる。


「千花……!」


 砂浜にたどり着くなり、そのひとはわたしを横たえて、呼吸と脈を確認していた。どちらも荒いものの、途切れてはいない。


 それがわかった途端に、力強い腕にかき抱かれた。まるで二度と離すまいとするような仕草に、じわりと目頭が熱くなる。


 海水を拭うように目もとを指で擦られて、ようやく視界が開ける。薄水色の瞳から、ぽたぽたと涙がこぼれていた。


「……たま」


 どうして、ここにいるのだろう。彼はもう、わたしのことなどいらないはずなのに。


「そうです、あなたのたまですよ。……飼い猫を残して死のうとするなんて、あなたは飼い主失格です、千花お嬢さま」


 すり寄るように抱き寄せられると、勝手にぽろぽろと涙がこぼれた。それはやっぱり真珠になって、砂浜に落ちていく。


 隣では兄さまが咳き込みながら砂の上に横たわっていた。そばには水野さんらしき男性の姿がある。


「やっぱり……お前は、あの、従者だったんだな……月雲。……この手でちゃんと殺しておけばよかった」


 息も絶え絶えに、兄さまは薄く笑いながら呪いの言葉を吐いた。呼吸が荒い。ただでさえ命の終わりを迎えようとしていた兄さまには、わずかなあいだ海水に浸かっただけでも大変な負担になったはずだ。


「それはこちらの台詞だ。お嬢さまにまとわりつく化け物は、早々に始末しておくべきだった」


 彼の言い回しに、やはりあの夢で見た冷酷な声の持ち主は兄さまなのだと確信する。「とって」とせがんだわたしの願いを、彼は叶えてくれたということになるのだろうか。


「……千花を離せ。お前に穢されるくらいならぼくが連れて行く」


「今にも死にそうなくせに何を言う。それに――お嬢さまはもうとっくにぼくのものだ」


 彼はわたしを引き寄せると、前髪を掻き上げて額にくちづけた。翳りを帯びたまま挑発的に薄く笑う姿に、ぞわりと肌が粟立つ。


「お前……っ」


 体さえ動けば今すぐにでも殴りかかりそうな勢いで、兄さまは彼を睨みつけた。こんな顔は初めて見る。年相応の青年らしい、衝動と熱を秘めた顔だった。


 彼は兄さまの睨みを鼻であしらうと、兄さまのそばに控える水野さんに視線を移した。


「水野、そいつを連れて行け。くれぐれも殺すなよ」


「は」


 水野さんは兄さまを軽々と抱き上げると、砂浜を足早にかけて行った。どうやら浅海の別邸に向かっているようだ。


「お嬢さま、あのお屋敷をお借りします。湯浴みの用意をさせますので、まずはお身体を温めましょう」


 まるですこし雨に濡れて帰ってきたわたしを迎えるかのように、彼はいつも通りに振る舞った。


 けれど、声の端々には深い憎悪とも言えるような怒りを感じた。それだけに、平常を装っているのが却って恐ろしい。なんと返せばいいのかわからず、彼から逃れるように顔を背けて頷いた。


 背けた顔の前に、彼の手が現れ、そのまま片手で頬を挟まれるようにして再び彼のほうを向かされる。微笑んではいるが冷えきった瞳と無理やり目を合わされてしまった。


「お声を聞かせていただかないと、息が詰まっているのかと不安になります」


「……だって、怒っていて怖いのだもの」


「これだけのことをしでかして、ぼくが怒らないとでも思っていたんですか? ……どうやら色々と話しあう必要がありそうですね」


 逃れられない圧力を感じて、思わず肩を震わせる。余計なことを言ってしまったようだ。


 彼はわたしを横抱きにすると、ゆっくりと立ち上がった。夕焼けが終わり、雲の隙間に三日月が見える。にじんだ青白い光が、どうしようもなく美しかった。

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