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幻術師の泡沫花嫁  作者: 染井由乃
第四章「鈍色と人魚姫」

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第一話

 梅雨の時期に入ったのか、このところ連日雨が降り注いでいる。ただでさえ気が沈みやすい季節なのに、屋敷内の重苦しい空気がそれに拍車をかけていた。


「千花さま……旦那さまがそろそろ発たれるようです」


 窓辺で雨を眺めていると、りんさんは気まずそうに報告した。今日は、彼が一週間の出張に出発する日だ。帝都の近くの港町で貿易船に組み込まれた術具の最終点検をしにいくのだという。


 浅海家がある街でもあるのだが、一緒に移動する案はわたしと彼のどちらからも上がらなかった。わたしは今日のお昼過ぎに、兄が寄越してくれる浅海家の馬車に乗って移動する予定だ。


「お見送りをするわ」


「はい……」


 わたしの熱が長引いて、起き上がれるようになったのはつい昨日くらいのことなのだが、そのあたりからりんさんたちもわたしと彼の険悪な空気を感じ取っているようだ。すずさんがあんみつの材料を用意してくれたと聞いたが、この状況では彼に振る舞う勇気はなく、今も保冷庫に仕舞われている。


 階下に降りると、外套を纏った彼が水野さんから鞄を受け取るところだった。一週間ぶんの旅支度がされているだけあって、いつもの鞄より一回り大きい。彼と再会してから一週間も離れるのは初めてのことで、こんな状況でも心細く思った。実家に帰りたいのは事実なのに、わたしはよくばりだ。


「お嬢さま……歩いて平気なのですか」


 こんなときでも、彼はわたしの体を案じてくれるようだ。


「ええ、おかげさまで」


 無理やり微笑みを取り繕うも、ぎこちなさは拭えなかった。いつもはなんとも思わない沈黙が、やけに重苦しく感じる。


「雨が降っているから……気をつけて行ってきてね」


「……はい、お嬢さまも」


 一瞬だけ視線が絡みあい、すぐに彼のほうから逸らされた。


 そのやり取りを最後に、彼は鞄を片手に出て行ってしまった。わたしを待っていたわけでもなさそうだから、あとすこしでも来るのが遅れていたら見送りは叶わなかっただろう。


 水野さんの手で扉が閉じられたあとも、しばらくそのまま扉を眺めていた。


 ……貿易船は、雨宮家が関わっている事業だと言っていたっけ。


 一週間の滞在の間に、あの令嬢とも会う機会があるのかもしれない。貿易船の完成を祝って、宴も開かれるのだと聞いた。


「千花さま……そろそろ戻りましょう」


 りんさんの声かけに、はっとする。油断すればずっと彼と令嬢のことを考えてしまいそうだ。


「そうね、わたしの荷造りも終わらせないと」


 部屋に戻り、りんさんたちに手伝ってもらっている荷造りと身支度を再開する。一週間にも満たない滞在であるので、大した準備はいらないのだが、りんさんたちが上等な着物をいくつも詰めてくれている。「旦那さまの愛情をお見せするいい機会ですから」と昨日までは楽しそうに荷造りしていたが、わたしと彼の微妙な空気感に気づいてからは何も言わなくなった。


「千花さま……その……」


 鏡台の前でわたしの髪を整えながら、すずさんはおずおずと口を開いた。


「ご実家に……戻られても、大丈夫なのでしょうか。その……お背中の傷を思うと、心配でなりません。ここにいたほうが安全なのではありませんか?」


「すず!」


 咎めるようなりんさんの声が飛んできたが、すずさんはじっと鏡越しにわたしを見つめてきた。きっと、問いかけるのにも勇気がいる言葉だったのだろう。櫛を持つ手が、わずかに震えていた。


 ……わたしなどを、心配してくれているのね。


 自然と頬が緩む。彼女たちにはいちどきちんと事情を説明しておいたほうがいいだろう。


「ありがとう。確かに……背中の傷は父の暴力によるものよ。すずさんの心配ももっともだわ。……わたしの涙が真珠になるのは見たわよね?」


 道端と路地で、彼女たちはわたしの涙が真珠に変わる場面を目撃しているはずだ。わたしが拾いもしなかったはずのそれらは、後で綺麗に磨かれて小物入れに収められていた。何も言わずに、ふたりは黙ってかき集めてくれていたのだ。


「父は、あの真珠を得るためにわたしに暴力を振るっていたの。泣かせるには、それがいちばん手っ取り早いでしょう?」


「……そんな!」


 りんさんも荷造りの手を止めて、すずさんの隣にやってきた。迷ったような様子で、りんさんも口を開く。


「それならば、なおさら千花さまをお帰しするわけには参りません」


「ううん、今は大丈夫なの。お父さまが病気で……もうわたしを殴る力もないわ。今は兄さまが屋敷を取り仕切っているの。兄さまはわたしに優しくしてくださるから、心配することは何もないわ」


 それでも、軽やかな気持ちでわたしを送り出す気にはなれないのか、ふたりは軽く俯いていた。わたしの境遇を憐れんでくれているのかもしれない。


「一週間後には、帰ってきてくださるのですよね? 旦那さまと……仲直りしてくださいますよね?」


 すずさんが、不安げに瞳を揺らしながらわたしの膝に縋りついてくる。わたしと彼の態度はそれほど彼女に心配をかけてしまっていたらしい。


「帰ってくるわ。そういう約束だもの」


 そっとすずさんの手を両手で包み込む。それと時を同じくして、扉が叩かれた。りんさんが一礼をしてから、応対に行ってくれる。


 扉を叩いたのは、どうやら水野さんのようだった。袖口や肩がわずかに濡れていて、手には一通の文を持っている。りんさんはそれを受け取り、差出人を確認した。


「どうやら、浅海藍さまから千花さまへ急ぎのお手紙のようです」


「兄さまが?」


 これから帰るというときに、いったいどんな用事だろうか。用件にまるで心当たりはない。


 りんさんから文を受け取り、封紙を開いて文を広げてみる。中には手短に要件だけが書かれていた。


『月雲殿から正式に離縁の申し出がありました。月雲殿から頂戴した結納金は全額返すことで話がまとまっています。父は今日明日の命だろうからきみを虐げることはありません。安心して帰ってきなさい』


 さっと血の気が引いていく。


 けれど、頭は怖いくらいに冷静に内容を理解していた。


 そっか、そうよね、そうなるわよね。


 あんな振る舞いをしておいて、どうして彼が引き続きこの屋敷に置いてくれると思ったのだろう。あるいはわたしが浅ましく隠していた恋心が、ついにばれてしまったのかもしれない。


 いずれにせよ、わたしは彼に見限られたのだ。


「千花さま……!」


 半開きになった扉の向こうから、今度は瀬戸さんが焦ったように駆け寄ってくる。瀬戸さんもまた、外に出たのか上着が雨に濡れていた。


「何ごとですか」


 りんさんがわずかに眉をひそめる。慌ただしい振る舞いを咎めているのだろう。だが、瀬戸さんはそれどころではないというように続けた。


「その……予定にないお客さまがいらしていて……」


「お客さま?」


「はい……! 雨宮薫子さま、とおっしゃるご令嬢が、使用人とともに屋敷の中へ入ってきたんです!」


「え……?」


 同時に階下から知らない人々の声が聞こえてきた。主に若い女性たちの声だ。


「様子を見て参ります」


 りんさんがすぐさま立ち上がる。すずさんもそれに続こうとしていた。


「待って」


 これはもう、使用人たちだけで収められる事態ではないのだろう。


「わたしも行くわ」


 兄さまの手紙を懐にしまい、りんさんたちとともに部屋を出る。玄関広間から繋がる階段に差しかかったところで、鮮やかな竜胆色の着物を纏った令嬢と目があった。


「あら、ごきげんよう。あなたが彼の前の奥さま?」


 赤い紅がよく似合う、はっきりとした顔立ちの令嬢だった。やはり、花見のときに馬車に閉じ込められていたあの令嬢だ。あのときは令嬢らしいお淑やかな女性だと思ったが、今はまるで真逆の印象を受ける。すでに我がもの顔で玄関広間に立ち、使用人たちに荷物を運ばせている姿を見る限り、我の強さが浮き彫りになっていた。


「わたくしは、雨宮薫子。まもなく朔さまの新しい婚約者になる者です。……千花さん、あなた離縁されたのでしょう。あなたのお兄さまともすでに話はまとまっていると聞いたわ」


 彼から、直接聞いたのだろうか。わたしの知らない場所でそんなにも話が進んでいるなんて思ってもみなかった。


「離縁された身の上でありながら、まだ図々しくこのお屋敷に居座るおつもりなの? 早く出て行きなさい」


「お待ちください。わたくしどもは月雲からなんの指示も受けておりません。急ぎ月雲に確認をとらせてください」


 りんさんが、毅然とした態度で薫子さまに告げる。確かに今ならまだ、急ぎで使いを送れば彼の乗った馬車にまにあうかもしれない。


 薫子さまはにこにこと微笑んだまま、懐にさしていた扇を手に取ると、なんの前触れもなく扇でりんさんの頬を打った。


「りんさん……!」


 頬を打たれた拍子に倒れ込んだりんさんを、慌てて抱き起こす。唇の端が切れたようで、りんさんの口もとには赤い血が滲んでいた。


「雨宮さま……なんてことを!」


「使用人風情がわたくしに意見するからそうなるのよ。……早く出ていかないのなら、次はそっちの女をぶつわよ」


 わたしとりんさんに寄り添うようにしてかがみ込んだすずさんを見て、薫子さまは唇を歪めた。姿かたちはまるで違うのに、不思議と父の醜さを彷彿とさせるひとだった。


「勝手に押しかけておいて、そんなの――!」


 食ってかかろうとするすずさんを、手で制する。


 確かにわたしたちに直接なんの話もなかったことは気にかかるが、兄さまからの正式な手紙といい、薫子さまの訪問といい、わたしの知らないところで三者の合意の上で動いていたことなのだろう。お金で一時的に買われただけのわたしには、詳しい事情を伝える必要はないと判断したのかもしれない。


 ……ひょっとすると里帰りをきっかけに、だらだらと帰る日程を延期して、自然消滅のようなかたちで縁を切るつもりだったのかもしれないわね。


 兄さまと薫子さまの行動が早かったから事実が露呈しただけで、遅かれ早かれこうなっていたのだ。わたしが今更どうこう言っても、もうどうしようもないのだろう。


「わかりました。出て行きます。……部屋にある荷物だけ取りに行かせてください」


 薫子さんを見上げお願いするも、ふと、見知らぬ女中たちに腕を掴まれるほうが早かった。


「買われたお人形同然のあなたに、持ち出せるような荷物があるものですか。あなたの持ちものはすべて、月雲さまのものよ。着物を脱がせないだけ温情と思っていただきたいわ。……さっさと出て行きなさい」


「千花さま!」


 りんさんとすずさんが、慌ててわたしを引き止めようとする。しかし、彼女たちもすぐに薫子さまの女中たちに腕を掴まれてしまった。


「そのうるさい双子の女中も一緒に捨ててしまいなさい」


 扉が大きく開かれ、突き飛ばされるようにして外に出される。大ぶりの雨の中に、三人で転がるようにして地面に崩れ落ちた。


「それではごきげんよう。朔さまのことはわたくしがお幸せにしますからご心配なく」


 薫子さまの鮮やかな笑みを最後に、屋敷の扉はためらいもなく閉められた。痛いほど勢いの強い雨粒が、容赦なく降り注ぐ。


「千花さま……」


 りんさんとすずさんが、わたしを雨から守るように抱きしめてくれる。


「千花さま……こんなのって、あんまりです」


 すずさんが、涙声で嘆いた。確かに、あんまりなのかもしれない。けれどわたしには似合いの結末だ。


 ……罰を受けるときがきただけだわ。


 復讐される立場でありながら、彼への恋心を浅ましく隠してそばにいた。その報いを受けるときがきただけなのだ。


 機を見計らったかのように、門の前に馬車が止まる。すこし早いが、浅海家から迎えの馬車がきたようだ。


「……ふたりは、月雲家に戻って。あなたたちの主人は、彼だもの」


「千花さまにこんな理不尽な仕打ちを許したのだとしたら……わたしたちはもうあの方に仕えたくありません」


「そうです! 連れて行ってください!」


 ふたりがいてくれれば、確かに浅海家での暮らしも格段に明るいものになるだろう。だが、忌まわしい思い出がこびりつくあの場所に、彼女たちを連れて行きたくはなかった。


「浅海の家は……とても暗いところなの。あなたたちには似合わないわ」


 立ち上がり、軽く泥を払ってからふたりに笑いかける。


「わたしによくしてくれてありがとう。部屋にある真珠は、あなたたちと水野さん、瀬戸さんで分けて。わたしからのお礼よ」


 浅海の家からでは、裏路地の支援も叶わないだろう。それならばあの真珠ももう必要なかった。


 やってみたい、と思い描いたことのすべてが、簡単に打ち砕かれていく。この世にわたしをくくりつけている糸の一本一本を断ち切られているような感覚だった。


「さようなら、りんさん、すずさん」


 ……さようなら、朔さま。


 結局ただのいちども呼ぶことのなかった彼の本当の名を心の中で呟いて、馬車へ向かう。御者が、馬車の扉を開いて慎ましく礼をしていた。


「千花」


 馬車の中から、静けさを秘めた穏やかな声がする。懐かしいひだまりと薬の香りに、勝手に涙があふれだした。


「千花、おいで。つらかっただろう」


 馬車の中から伸びてきた腕に絡め取られるようにして、身を委ねる。


「兄さま……兄さま……わたし、捨てられてしまいました……!」


 嗚咽を漏らしながら、抱き寄せられるがままに兄さまの胸に顔を埋める。着物が濡れるのも厭わず、兄さまはわたしの頭を撫でてくれた。


「縁がなかっただけだよ。……大丈夫、千花は兄さまがいれば幸せだろう?」


 頬に張りついた黒髪が剥がされて、兄さまの痩せ細った手が頬に添えられる。もう、この手しか縋るものがなかった。


 ……いいのかな、もう、何も考えなくても。


 何かを成そうと夢見るのも、期待するのも、恋をするのも、疲れてしまった。風のない湖のように凪いだ心がほしい。優しい兄さまの言葉だけ聞いて、兄さまの手に縋って何も考えずに眠る、獣のような毎日に溺れたかった。


 ……でも、兄さままで失ったら、わたしはどうすればいいの。


 とても悲しいけれど、兄さまにはきっと多くの時間は残されていない。そう遠くない未来に、わたしはひとりぼっちだ。


 その不安を見抜いたように、ぎゅう、と肩に回った腕に力が込められる。


「大丈夫だよ、千花。――絶対にひとりになんてさせないから」


 大雨の中、馬車の車輪がからからと回る。


 兄さまの言葉の意味するところを考えるのも億劫で、ただ懐かしい香りの中で意識を手放すように眠ってしまった。

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