第四話
それからわたしは速やかに屋敷に連れ戻され、りんさんとすずさんに押し込められるようにして湯浴みをすることになった。どこかぼんやりとした心地のまま湯船に入れられたところで、ふたりが息を呑む声がする。
「千花さま……その、お背中は……」
震えるようなりんさんの声で、はっとする。彼女たちには肌を見せないようにここまで気をつけてきたというのに、ついにやってしまった。
慌てて背中を隠すようにお湯の中に肩を沈めたが、もう遅いことはわかっていた。
……今日は散々だわ。
背中の傷も、人魚の涙のことも彼女たちにばれてしまった。自分が情けなくて、余計にぽろぽろと涙がこぼれる。それは湯船の中に次々に沈んでいった。
「なんでもないの……見ないで……」
今日ほど、自分がみじめだと思った日はない。父に殴られて寒空の下に放置され、擦りきれた着物の上に雪が積もったときでさえ、今よりはましだった。
ふたりを説得して浴室から出ていってもらい、手早く髪や体を洗う。散々泣いたせいか、なんだか体が重だるい。早く横になりたかった。
ほとんど倒れ込むように寝台に体を預けると、すずさんがいつも通りの微笑みを浮かべて近づいてきた。きっと、あえて何ごともなかったかのように振る舞っているのだ。
「千花さま、先ほどよいものが届きましたよ。ほら!」
すずさんは懐から一通の文を取り出した。見慣れた文字で『浅海千花さまへ』と書かれている。この期に及んでわたしの結婚を認めていないような意地が透けて見えて、思わずふ、と笑えてしまった。
「浅海家の藍さまからです。何があったかは存じ上げませんが……これをお読みになって、元気をお出しください!」
「ありがとう……」
「また、様子を見に伺いますね。ゆっくりおやすみください」
すずさんは気を利かせてくれたようで、わたしの首もとまで布団を引き上げると、一礼をして部屋から出ていった。ひとりきりになると、外の雨音がやけに大きく聞こえる。
寝台に横になったまま、すずさんから受け取った文をさっそく開いてみた。
すると、中から夜の闇を切り取ったような美しい花びらが数枚落ちてくる。わたしが桜の花びらを送ったお返しだろう。
『珍しい黒い薔薇が手に入ったので花びらだけでもお送りします。千花にあげたくて取り寄せたものです』
流れるような美しい文字で書かれた兄さまの言葉を見て、思わず頬が緩む。薔薇に黒色があるなんて知らなかった。寝台の上に散った花びらをひとつひとつかき集め、封紙と一緒に寝台の横の小さな机の上に置く。
『ひとけのない離れを眺めては、千花のことばかり考えています。この命が終わるそのときには、せめて千花の苦痛も道連れにしてくださるよう、神仏に祈る毎日です』
「兄さま……」
はっきりとは書かれていなかったが、病状が芳しくないのは確かだった。同時に、気になることも書かれていた。
『千花が嫁いでから、あの父にも病が見つかりました。近ごろは一日じゅう床に伏せています。もうあまり長くはないでしょう』
父に病が見つかったと聞いても、驚きはしなかった。不摂生な生活をしていたし、浅海家は分家を含めてそもそもあまり体が強くない。わたしもしょっちゅう熱を出すが、それでも浅海家の中では丈夫なほうに分類されるだろう。
実の親に対して冷たいと思われても仕方がないが、父の病状については驚くほど心が動かなかった。むしろ、父が亡くなったあとに兄さまの負担が増えるであろうことのほうがずっと心配だ。
『いよいよというときには、急ぎの知らせを送ります。月雲殿がきみの外出を許さなかったとしても、きっと攫ってでも会いにいきます。それが、きみに会える最後の機会だと思うのです』
やはり、そう覚悟するほどに兄さまの病状は進んでいるのだ。あの優しい温もりを手放すときが近づいているのだと思うと、忌まわしい記憶ばかりの浅海家でも、帰りたくて仕方がなかった。
……彼に、里帰りをお願いしてみようかしら。
買われた身で贅沢な話なのかもしれないが、兄に残された時間は少ない。本当ならば今すぐにでも会いに行きたかった。
そっと兄さまの文を額に押し当て、目を瞑る。いつの間にか涙が滲んでいたようで、目尻に固いものが当たった。
雨音が、意識に蓋をするように降りかかってくる。ぽろぽろと涙をこぼしながら、気づけば夢の中へと誘われていった。
ひやり、と冷たい感触を額に感じて、うっすらと瞼を上げる。いつの間にか室内は橙色の柔らかな灯りに照らされていた。もう夜になったのだ。あれからずいぶんと眠ってしまったらしい。
火照ったような顔を、冷たい布に拭かれる感触が心地よかった。思わず布に頬をすり寄せるように顔を傾けたところで、滑らかに動いていた布がびくりと止まる。重たい瞼をゆったりと開けば、薄水色の瞳と目が合った。
「……おかえり、なさい」
ぼんやりとした意識の中でいつも通りの挨拶をする。わずかだが声が掠れていた。
「ただいま帰りました」
彼が来ているのに横になっているわけにはいかない。なんとか上体を起こそうとしたところで、力強い手に肩を押さえられてしまった。
「じっとしていてください。熱があるんですから」
「熱……?」
「どうやら風邪を引いてしまったようですね。幻術で治療はしましたが、熱が引くまでは横になっていなければなりません」
たかだか風邪で幻術による治療を受けるなんて聞いたことがない。わたしなどには贅沢にも程がある話だった。
「ありがとう……でも、これからはもうしなくて大丈夫よ。大切な力を……こんなことに使ってはいけないわ」
布団を首もとまで引き上げ、彼がいる方向とは反対側に顔を傾ける。彼の顔を見ていると、令嬢と仲睦まじく歩いていた姿が蘇って再び泣いてしまいそうだった。
「こんなこと? お嬢さまを治す以上に必要な場面があるとは思えませんが」
「……嬉しいことを言ってくれるのね」
自分でも驚くほど感情のこもらない声だった。濡れた布で汗を拭いてくれていたらしい彼の手が引いて、代わりにくすぐるように指先で頬を撫でられる。
「どうしました? ご機嫌斜めですね」
「……具合が悪いだけよ」
「そうですか。……代わって差し上げられたらよいのですが」
頬を掠めていた指先が、長い髪の上を滑っていく。そのままひと房だけ持ち上げられる感覚があり、わずかに顔を傾けた。
彼はまつ毛を伏せて、尊いものでも戴くように黒髪の先にくちづけていた。一瞬一瞬がゆったりと流れているかのように見えるほど流麗な仕草で、思わず見惚れてしまう。悔しいくらい、彼は美しいひとだった。
……あの令嬢にも、そうやってくちづけを捧げたのかしら。
この不快なもやもやとした感情に心が支配されている理由は、具合が悪いせいではないとわかっていた。
わたしはきっと、嫉妬しているのだ。彼を縛る立場になどないにもかかわらず、醜い独占欲に勝手に苦しんでいるのだ。
「泣きそうな目をしてどうなさったのです。どこかおつらいですか」
彼の手が、そっとわたしの頬に伸びる。どんな些細な変化でも見逃してくれない彼の目ざとさが、今ばかりは憎らしかった。こうして触れられる距離にいると、今にもこの浅ましい恋心を吐露してしまいそうだ。
……すこしだけでも、彼と距離を置けたらいいのだけれど。
眠る前に考えていたことを頼み込むならば、きっと今だろう。じっと彼の瞳を見上げる。
「あのね……お願いがあるの」
薄水色の瞳が、微かに揺らいだ。思えば、彼に直接何かをねだるのはこれが初めてかもしれない。
「熱が下がったら……浅海の家にわたしを帰してくれないかしら。すこしのあいだだけでいいの」
彼はしばしのあいだわたしを見つめたのち、するりと頬から手を離した。そうして、先ほどまでの心配そうな表情とは裏腹に、震えるように唇を歪める。
「初めてのお願いごとが、それですか。……わかっていたことですが、嫌われたものですね。あんな家でもぼくの隣にいるよりはましですか」
自嘲気味な笑みを返され、はっとする。どうにか体を起こし、慌てて否定した。
「そんなことないわ……! 考えるだけで震えるくらいに嫌な思い出ばかりだもの。……でもあの家には、藍兄さまがいらっしゃるから」
部屋の空気が、ぴり、と張り詰めた気がした。まるでこの家にきたときのような冷えきった視線が突き刺さる。
「お嬢さまは本当に兄君に懐いておられる。……おふたりからすれば、ぼくはおふたりの仲を引き裂いた悪人なのでしょうね」
「……わたしはそうは思っていないわ」
兄さまはきっとそう思っているだろうから、完全に否定はできないけれど。
彼の鋭い視線が悲しくて思わずまつ毛を伏せると、不意に布団の上に置いていた手を掴まれた。指先が食い込むほどの強い力だ。
「よく言いますね。……あの方からの文に泣いて縋って眠るほど、恋焦がれているくせに」
彼から指摘されて、はっとする。眠る前まで握りしめていた文は、気づけば寝台のそばの机の上に置かれていた。おそらく、彼が移動させたのだ。
手紙に意識を奪われた一瞬の隙を突くように、わたしの手首を掴む手に力が込められ、寝台の上に押し倒される。もう片方の手の親指が、掠めるようにわたしの唇を撫でた。
「お嬢さまがくちづけを許さないのは、あの方に唇を捧げると決めたからですか? ぼくに穢されない、綺麗な場所を残しておきたいとでも思ったのですか?」
明らかな苛立ちがこもった、震えるような声だった。そう思い込んでいるのだとしたら、わたしにくちづけを拒絶されたことはさぞ屈辱だっただろう。
「違う。そんなこと考えたこともないわ。お兄さまのことは好きだけれど、それは恋とは違うもの」
「それなら――」
彼の瞳が、縋るように揺れる。ひどいことを言っているのは彼なのに、どうしてか泣いているように見えた。
「――それなら、今すぐぼくにくちづけてください」
「っ……」
今朝までのわたしならば、きっと恥ずかしがりながら彼にくちづけていただろう。恋心を秘めたまま、それでも彼と愛を交わすようなふれあいに抗えずに、きっと唇を捧げていただろう。人魚の涙を失うことになっても、構わないと思ったはずだ。
いや、人魚の涙を失うことには、今も躊躇いはない。裏路地を支援するための資金は、別の調達方法を考えればいいだけなのだから。
だからこの躊躇いはきっと、彼とあの令嬢の姿を見てしまったからだ。
彼は、愛情ゆえにわたしのくちづけをねだっているわけではない。ただ屈服させるためだけに、くちづけを強要しているのだ。
買われた身ならば何も考えずに応えるべきなのだろう。けれど、恋慕う相手に愛情を目的としないくちづけを強いられることが、こんなに虚しいとは思わなかった。
涙が、次から次へとあふれてくる。本当はこんな気持ちで彼にくちづけたくなどなかった。それでもここで拒絶すれば、兄との関係への疑念は晴れないのだとわかっていた。
涙を流したまま、そっと彼の頬に両手を添える。震えてはいけないと思うのに、指先がずっと小刻みに揺れていた。
吐息が溶けあうような距離が甘くて、愛おしくて、そのぶんだけ寂しかった。伏せたまつ毛の隙間から、大粒の涙がこぼれていく。
あとわずかで、唇同士が掠めるというとき、ふいに彼が顔を離した。突然ひらけた視界の中で、彼は薄い笑みを浮かべ、ぐしゃりと自らの前髪を握りつぶす。
「……馬鹿みたいですね、ぼくも、あなたも」
彼は寝台の縁から立ち上がると、吐き捨てるように告げた。
「具合の悪いときに無理を言って申し訳ありませんでした。……ちょうど、来週から一週間、出張業務が入ったのでぼくは屋敷を空けます。そのあいだであれば、浅海の家に帰っていただいて結構です」
ほとんど、投げやりな許可だった。本心では許していないのであろうことがひしひしと伝わってくる。
健気な妻であればきっと、こんな言われ方をすれば帰らないのだろう。実際そうしたほうが彼の機嫌を損ねないことはわかっていたが、兄に残された時間を考えると、この好機を逃す選択肢はなかった。
本来であれば叶わないようなわがままを許してくれたのだ。謝罪と感謝を態度で表さなければ場が収まらない気がして、寝台の上で正座をする。そのまま布団の上で指をついて頭を下げた。
「ありがとうございます――旦那さま」
数秒の沈黙の後、帰ってきたのは乾いた笑い声だった。
「お嬢さまは、どうやら嫌味もお上手なようだ。――最悪な気分です。二度とそんなふうに呼ばないでください」
まもなくして、扉が開閉する音が聞こえた。ぼろぼろと、布団の上に人魚の涙が落ちていく。
彼があの令嬢を好きになるのも当然だ。こんな女が妻では、せっかくすてきに飾りつけられたこの屋敷でも、気が休まることなどないのだろう。
……消えてなくなりたい。
恋に敗れれば、泡になって消えていける人魚の姫君が、今ばかりはどうしようもなく羨ましく思えてならなかった。




