第三話
街の中心部にある甘味処へ入ったのとほとんど時を同じくして、ざあざあと雨が降り始めた。窓からは慌てたように軒下へかけていく人々の姿が見える。
「わたしたちが千花さまと同じ席についてしまっていいのでしょうか……」
りんさんが、どこか居心地が悪そうにちらちらとあたりを見渡す。水野さんと瀬戸さんに至っては、どうしたらそんなに小さくなれるのかと言うくらい肩を縮めていた。
「いいのよ。お礼のためにみんなで来たのだもの」
あんみつとお茶を五つ注文して、店内をぐるりと見渡す。学校帰りなのか、袴姿の女学生たちが数人で固まって、あんみつを片手に会話に花を咲かせている。他にも若い恋人たちや、老夫婦の姿があった。聞こえてくる声は笑い声や弾むような言葉ばかりで、幸せな気持ちになる。
「水野さんや瀬戸さんとこうして同じ席に座るのは初めてね」
向かい側に座ったふたりに微笑みかけてみる。実を言うと会話も挨拶程度しか交わしたことがない。ふたりとも寡黙なたちなのか、直接仕えている彼ともあまり話していないようだ。
「俺たちは……その、あんまり話すのがうまくなくて」
「それに、奥さまと話なんてしたら、旦那さまにどんな目で見られるか……」
ふたりは震え上がるように顔を見合わせた。これは意外な反応だ。
「彼……あなたたちにはそんなに厳しいの……?」
わたしの知らないところで、使用人に厳格な面があるのだろうか。彼が水野さんたちを雇った経緯を考えれば、彼らに厳しくなどするはずないと思うのだが。
「厳しいなんて、滅相もない。これ以上ないくらいよくしていただいています」
「ただ、奥さまは男とふたりきりで話すような身分の方ではないのだから、不用意に近づかないように、と言われているだけです」
確かに浅海家では男性の使用人と会話をしたことは皆無に等しいが、知らないところで彼にそんなに気を遣われていたとは思わなかった。温室での会話といい、彼はどうも、わたしを過大評価しているような気がしてならない。
「あとはきっと、単純にやきもちですよ! 旦那さまは千花さまに、ご自分以外の男性とお話ししてほしくないのです!」
すずさんがきらきらと目を輝かせる。
「だって、千花さまをお迎えするためにずっとずっと頑張っていらしたのですよ。ご自分だけのものにしたいに決まっていますよね」
「すず、あまり余計なことは言わないのよ」
りんさんが溜息まじりにすずさんを咎める。すずさんはどうも、わたしと彼の関係に夢を見ているようだ。
……でも、もし彼がやきもちなんてやいてくれたら嬉しいわ。
彼に不快な思いはさせたくないのに、彼が本当にわたしをひとりじめしたいと思ってくれているのか気になって仕方がなかった。
「千花さま、あんみつが来ましたよ」
りんさんが、店の女中から小さなお盆を受け取ってわたしの目の前に置いてくれる。あんみつは赤い漆の器に盛られていて、甘い黒蜜の匂いがした。
次々とみんなのぶんも運ばれてくる。五人で座るには少々手狭な席だったが、その窮屈さがなんだか楽しかった。
「いただきます」
わたしの挨拶を皮切りに、彼らもばらばらと手を合わせた。すぐにすずさんが歓喜の声を上げる。どうやら甘いものが好きらしい。りんさんはそれを嗜めつつも、頬の緩みを抑えきれていなかった。
水野さんと瀬戸さんは黙々と食べているが、食べっぷりからして甘いものは嫌いではないようだ。元々わたしがあまり間食をしないため、屋敷で甘味が出てくることはほとんどなかったが、彼らにお裾分けする意味でもこれからは積極的に頼むようにしよう。
他愛もない会話も交え、あんみつを綺麗に食べ終わったころには、半刻近くが過ぎていた。おしゃべりしているあいだに雨が止めばいいと思っていたのだが、雨足の強さは変わらない。
「俺たち、近くまで馬車を連れてきます。奥さまたちはここでお待ちください」
「ありがとう。でもひどい雨だわ。……お店で傘を借りられるかしら?」
「平気です、羽織があるので」
水野さんと瀬戸さんは羽織を肩にかけ、止めるまもなく店から出て行った。大股でばちゃばちゃと駆け抜けていくふたりの姿が窓から見える。
「では、わたしはお支払いをしてまいります。千花さまはすずとここでお待ちください」
りんさんには、あらかじめいくらか預けてある。そこから五人分のあんみつ代を支払ってくれる手筈だ。
「ありがとう」
あっという間に席にはわたしとすずさんだけが残された。すずさんは跳ねる雨粒にすら目を輝かせて、にこにこと外を眺めている。あんなにおとなしいりんさんと、始めのころ見分けがつかなかったのが嘘のようだ。
「千花さま、あんみつありがとうございました。とてもおいしかったです!」
「今度、お屋敷でも作ってみましょう。みんなで食べるのがわたしも気に入ったの」
「ぜひ! あんみつの材料を揃えておきますね」
この調子では明日にでも準備ができてしまいそうだ。休みの日があれば、きっと彼にも食べてもらおう。
「あれ、千花ちゃん。奇遇だねえ」
ふと、通路から明るく弾むような声をかけられる。はっと顔をあげてみれば、そこには桜木さまの姿があった。仕事中なのか黒い外套姿だが、両脇には可愛らしい女性をふたり連れている。
「桜木さま……このあいだは月雲の治療をありがとうございました」
席から立ち上がり、お辞儀をする。にこにことあんみつの話をしていたすずさんも切り替えて同じように礼をしていた。
「いいよ、元はといえば俺のせいなんだし。すずちゃんとあんみつ食べに来たの? いいねえ」
どうやらあの後しっかりすずさんたちの名前を聞き出していたようだ。油断も隙もない。
「でも、過保護なあいつがよく許可したね」
「あ……実は、内緒で出かけているのです。その……どうか、ご内密に」
裏路地の支援をしたい、という話をするときにこの外出のことも打ち明けようと考えているが、その前に桜木さまからわたしが外出していたことが漏れたら話が拗れそうだ。
おずおずとまつ毛を伏せていると、大きな手に肩をぽんと叩かれた。
「言わないよ。――でも、気をつけて」
耳打ちするように、桜木さまの顔が近づく。ふわり、と爽やかで柑橘類を思わせるような香りがした。香水をつけているのだ。
「――最近、この辺で事件が続いている。千花ちゃんみたいな若い可愛いご令嬢が、次々死んでいるんだ。しかもみんな、心臓を抜かれているらしい」
「心臓を……?」
あまりに物騒な事件に、言葉もない。桜木さまはわたしから顔を離して、どこか憎悪をにじませて告げた。
「見た目は眠ったように綺麗な遺体なんだけど、心臓だけが綺麗になくなっている。そしてどの子もみんな見事な沈丁花を握るようにして指を組んでいるんだ。……悪趣味だね」
真面目な顔をするときは、普段は軽薄そうな桜木さまにも彼とよく似た鋭さがあった。それだけ、無念の死を遂げた令嬢たちを悼んでいるのだ。
「やり口からしてまず幻術師だろう。それも……かなりのやり手の幻術師だ。幻術師の中ではそいつを『帝都の死神』と呼ぶやつもいる。……ふつうの人間じゃまず太刀打ちできない」
「帝都の、死神……」
確かに、多くの人は幻術師を相手にすればほとんど勝負にもならないだろう。大勢の人間で大量の武器を構えてようやく、対等の戦いができるかもしれない。それだけに、幻術師になる人間の人格や思想は厳しく査定されるのだと聞いた。わたしが知る限りでは、幻術師による犯罪は初めてだ。
「だからこう見えて、今もひとりぼっちのお嬢さんを見つけてはお家へ送り届ける業務中なんだ。ついでに雨宿りがてらあんみつを食べる話になって寄り道してるだけで……あいつに、『桜木さまはさぼって女の子とあんみつを召し上がってましたよ』とか言わないでね、千花ちゃん! お願いだよ!」
先ほどとはまた違った種類の真剣さで、桜木さまは懇願してきた。半分くらいは本当に業務で、半分は純粋に可愛い女性たちとお茶をしたいだけのようにも思う。思わずくすりと笑いながら頷いた。
「はい、ではお互いここではお会いしていない、ということで」
「ありがとう! 千花ちゃん」
手を握られ、ぶんぶんと握手される。いつか差し出されたあの手は、握手の合図だったのだろう。
「千花ちゃんも気をつけて。まあ、きみにはあいつがついているから、心配なんていらないだろうけど」
それじゃあね、と彼はひらひらと手を振って、ふたりの女性たちと店の奥へ消えていった。
「相変わらず、賑やかな方ですね」
すずさんは桜木さまの後ろ姿をしばらく眺めてから、息をついた。
「ええ、本当ね」
馬車の迎えが来る気配はない。もういちど席に座り、雨音に耳を澄ませながら、窓の外を眺めた。皆、雨が止むのを待っているのか、道ゆく人の影は極端に少ない。
……心臓のないご令嬢の遺体、ね。
そういえば、八重さんもさらりと若い娘の遺体が上がると言っていた。それもこの事件と関係あるのだろうか。
……犯人は、いったい何が目的なのかしら。
沈丁花を持たせることといい、殺人を目的としているというよりは、何か儀式的な意図を感じざるを得ない。そんな犯人がうろついているのだとしたら、確かに今のこの街は物騒だ。
「すずさんも、りんさんも、街へ出るときは気をつけてね。なるべく水野さんや瀬戸さんについてきてもらうのよ」
「そうですね……早くお屋敷に帰りましょう!」
馬車はまだかなあ、とすずさんは窓の外をきょろきょろと眺めた。その視線につられるようにして、再びわたしも窓の外を見やる。
ちょうどそのとき、雨足の強さなど気にしないとでもいうように、舶来の洋傘を指すひと組の男女の姿がぽつりと見えた。女性は美しい竜胆色の振袖を着ていて、傘を指す男性の腕にぴたりと寄り添っている。男性は、黒い洋装姿だった。仲睦まじい、若い恋人たちの姿だ。
そのふたりが窓のそばを通り過ぎたとき、傘からちらりと男性の横顔が覗き見えた。
その瞬間、あんみつを食べ終えたあとの柔らかな幸福感が、一瞬で吹き飛ばされていく。
……たま?
美しい令嬢に傘を差すその紳士は、紛れもなく彼だった。この国では珍しい薄水色の瞳が何よりの証拠だ。わたしの知らない、綺麗な微笑みを浮かべている。
……いえ、桜木さまのように令嬢をお送りしているだけかもしれないわ。
物騒な街中を、令嬢ひとりで歩かせられないと思っただけかもしれない。
けれどその淡い期待を打ち砕くように、令嬢は彼の肩にしなだれかかった。その細い腰を、彼の腕がそっと抱きしめるようにして支える。まるで、愛おしくてたまらないものをそっと慈しむような繊細な仕草だった。
「っ……」
なんだかいてもたってもいられなくなって、思わず席を立つ。背後ですずさんがわたしの名を呼ぶのがわかったが、じっとしていられなかった。
道へ飛び出したときには、その男女はとっくに店を通り過ぎて、どこかの角を曲がるところだった。声などかけたところで、雨音にかき消されてひとつも届かないだろう。
じわじわと着物が水を吸っていく。まとめた髪が雨の重みで崩れて、肩に滑り落ちていた。
……彼、よね、きっと。
朧さんであればいいと思ったが、あの瞳の色も視線の運び方も、わたしの知っている彼そのものだった。心の中でふわふわと膨らんでいた何かが、ぱちんと弾けるのがわかる。
……そうよね、彼にも好いた女性のひとりくらいできるに決まっているわ。
一瞬しか見えなかったが、隣にいた女性は、彼と花見に出かけたときに馬車に閉じ込められていた令嬢だ。確か雨宮家の令嬢と言っていたから、浅海家などよりもよほど格上の名家だった。
ひとつの傘の下で身を寄せあって歩くふたりの姿は、恋人かそれに近しい存在に見えた。あの一件をきっかけに、逢瀬を重ねるようになったのだろうか。
彼は、ひょっとすると後悔しているかもしれない。わたしを貶める手段としてわたしを妻に迎えたはいいが、本当に恋慕う相手が現れたのなら、わたしなどを妻の座に据えたことを悔やんでいるだろう。
ましてやわたしは、本当は彼の妻になれたことを喜んでいて、そもそも復讐にもなっていないのだ。飽きて捨てられるのも時間の問題のような気がしていた。
……ひとりで舞い上がっていて、恥ずかしいわ。
彼との甘い触れあいに、ひょっとすると彼もわたしと同じ想いを抱いてくれているのかもしれないと、わずかにでも期待しなかったのかと言われればきっと嘘になる。でもきっと彼からしてみれば、あのじゃれあうようなふれあいも、昔の延長か、せっかく手に入れた高い玩具で遊んでいるくらいの感覚なのだろう。
「千花さま!? いったいどうなさったのです!? ひとりで飛び出したら危ないですよ!」
慌てたように、傘を差したすずさんが駆け寄ってきた。お店の傘を借りたのだろう。
「こんなに濡れて……! 早くお屋敷へ戻らなければ……!」
すずさんに肩を抱かれて初めて、揺れた袖の重さに気がついた。その拍子にぽろぽろと、光る真珠が落ちていく。
「え……」
すずさんが驚いたように雨水に沈んでいく人魚の涙を見つめていた。
思わず、ひとりでに薄い笑みが浮かぶ。呪われた人魚の血は、涙を雨に紛れさせることすら許してはくれないらしい。




