第一話
『親愛なる藍兄さまへ』
硯と細い筆を用意して、黙々と手紙を書き進める。一枚の小さな和紙の上には、庭で咲いていた桜の花びらが数枚置かれていた。帝都の桜も、もうすっかり見納めだ。
これで月雲家に嫁いでからふた月近くが経ったことになる。近況報告を兼ねて、藍兄さまに文をしたためることにしたのだ。
色硝子が嵌め込まれたランプの灯りを頼りに筆を滑らせ、三枚にも及ぶ長文を書き終えたのち、筆を置く。ランプの灯りに文をかざして誤字がないか点検し、そっと折りたたんだ。
封紙で包む際に、文と一緒に和紙の上に置いていた桜の花びらを入れた。開いたときに、きっとひらひらと兄さまのもとへ舞い落ちるだろう。「体を捨ててでも会いにいく」と仰った兄さまへの、わたしなりの想いの返し方だった。わたしが触れた花びらが、兄さまのもとへ舞いおりれば、間接的に兄さまはわたしに会ったような気になってくださるかもしれない。
部屋の隅でわたしの就寝準備を整えてくれていたすずさんを呼び寄せ、文を手渡す。
「悪いけれど、この文を浅海藍に……浅海家のわたしの兄上に出してほしいの」
「かしこまりました! 期限はございますか?」
すずさんは文を両手で受け取ると、大事そうに胸に抱えた。
「そうね……文に忍ばせた桜の花びらがしおれないうちに届いてくれたら、嬉しいわ」
「桜の花びらが……なんだか恋文のように風流なお手紙でございますね」
「そうね、似たようなものかもしれないわね」
愛を込めた手紙という意味では、同じようなものだろう。このふた月の間に兄さまの容体が悪くなっていないか、それだけが心配でならなかった。
ふと、控えめに扉が叩かれる。すぐにすずさんが扉のほうへ駆けていって応対をしてくれた。りんさんが様子でも見にきてくれたのだろう。書物机に向き直り、硯や筆の片付けを始めた。
「こんな遅くまで何をしていらっしゃるのですか?」
近づいてきた甘い声に、はっとする。慌てて振り返ると、わたしのすぐそばには浴衣と羽織姿の彼の姿があった。
「あ……ちょっと、書きものをしていただけ。そろそろ休もうと思っていたのよ」
ランプを消して、椅子から立ち上がる。すると想定したよりも彼と距間近で目があってしまい、どくりと心臓が揺れた。彼の肩越しに、気を遣ったように礼をして部屋から出ていくすずさんの姿が見える。
「お嬢さまからはいつも甘い匂いがいたしますね」
ふっと彼の腕が腰に周り、軽く引き寄せられた。
「今日から新しく、檸檬の香りの香油を使ったのだけれど……そのせいかしら」
夏が近づいてきたからと、りんさんたちが髪に新しい香油をつけてくれたのだ。わたしとしてはむしろ爽やかで清々しい香りだと思ったのだが、彼は違う感想を抱いたらしい。
「いいえ、これはお嬢さまの香りです」
柔らかく抱き寄せられ、首筋に彼の吐息が当たる。背筋にぞわりと甘い寒気が走った。
「それなら、あんまり嗅がないで……恥ずかしいわ」
みるみるうちに顔が熱くなる。このところの彼は、以前よりわたしとの距離を縮めているように思う。
すべては、彼が間接的にわたしにくちづけた日からだ。どうも彼は、わたしに無理やりくちづけたり押し倒したりする以外は、何をしてもいいと思っているような節がある。
「そう言われると余計に放しがたいですが、そうですね……歯止めが効かなくなってもいけませんから、放して差し上げます」
悪戯っぽく微笑んで、彼はわたしを解放した。代わりに、指先をそうっと握り込まれる。
「実は、温室にご案内しようと思って来たのです。一緒に来てくださいますか?」
「温室……? 構わないけれど、こんな時間から?」
時計を確認すれば、あと一刻もすれば日付が変わろうかという時刻だった。寝るには早いが、温室に向かうにも少々不自然な時間だ。
「はい。こんな時間だからこそ、です」
薄水色の瞳が、子どもように輝いていた。彼が、こういう楽しそうな表情をする瞬間も、すこしずつ増えている気がする。それは、わたしにも言えるのかもしれない。
「なあに、怖いことは嫌よ」
くすりと笑って、わたしの手を引く彼についていく。悪戯っぽいまなざしが横目でわたしを捉えていた。
「ここは比較的新しい建物ですから、幽霊など出ませんよ。それより、浅海の家の北の区画のほうが……」
「……怖いことは嫌よ?」
思わずぎゅう、と彼の手を握り込む。くつくつと彼はやっぱり楽しそうに笑っていた。わたしをからかって遊んでいるのだ。浅海の家にいたころからその節はあったが、そういうところは変わっていないらしい。
けれど、彼の昔の面影を断片的にでも見つけられるのは嬉しかった。たまはわたしの親友で片割れで、お兄さまと亡くなったお母さま以外で唯一好きなひとなのだから。
いつか案内された温室の扉の前までやってきて、彼がそっとそれを押し開いた。温室までは連絡通路で繋がっていて、大きな硝子張りの窓が細長く続いている。月の光が、分厚い硝子に滲んできれいだ。途中で階段があり、二階からも降りてこられるようだった。
「こちらです」
通路の先で、硝子張りの重たそうな扉を開いて、彼は温室の中にわたしを招き入れた。ふわ、と温かい空気に迎えられる。
「わあ……! きれい」
温室は全面硝子張りの、丸屋根の小さな建物だった。側面も円柱のようになっていて、どこもかしこも丸みを帯びていて可愛らしい。中にはいくつかの花壇が設置され、隅のほうには木製の長椅子が置かれている。作業の休憩用か、花の観賞用だろう。
「お嬢さまにお見せしたかったのはこちらです」
彼の手に導かれるがままに、ある花壇の前で立ち止まる。ふわり、と甘い香りがする。
「きれいなお花……これは?」
「月下美人です。ちょうど今晩咲きそうだったので、お嬢さまにお見せしたくて」
わたしの背丈ほどの高さに、細い花びらが細やかに重なった純白の花がある。顔を近づけなくとも、あたりは甘い香りに満たされていた。
「年に一、二度しか咲かず、それも夜にしか花開かないのです。貴重な瞬間ですから、お嬢さまにぜひ見ていただきたいと思いました」
「気まぐれなお花なのね。でも、すごく美しいわ。きっとお花の世界のお姫さまね」
目をつぶって、花の香りを楽しむ。それだけ貴重な花ならば、香りもしっかり覚えておかなければ。
「もうすこしで、満開になるはずなんです。よければ座って待ちませんか」
「ええ」
彼の手に導かれ、隅にあった長椅子に座る。硝子張りの丸屋根の向こうには、滲んだ月と銀の星が見えた。朧月夜だ。
「知らなかったわ、あなたがこんなにお花に詳しいなんて。珍しいお花を咲かせているのね」
「お嬢さまは花がお好きですから」
答えになっているようないないような返答で、彼は淡く微笑んだ。
――いつか、このお庭いっぱいにお花を咲かせたいわ。手伝ってくれる?
――はい、お嬢さまのお望みのままに。
幼いころ、浅海家の離れでそう語った日が懐かしい。彼がそんな遠い日のことを覚えているとは思えないけれど、数年越しに約束を果たそうとしてくれているようでなんだか嬉しかった。
落ち着いた甘い香りを胸いっぱいに吸い込んで、静かに息を吐く。
彼と、こんなふうに過ごせる夜がやってくるなんて、この屋敷に来た当初は思ってもみなかった。静寂が、心地よい。夏が近づけば、虫の声が聞こえてくるだろう。
……今なら、わたしの質問に答えてくれるかしら。
今の彼ならば、なんとなく、はぐらかさずに答えてくれるような気がした。それくらい、このところの彼はわたしに心を開いてくれているように感じるのだ。
「ねえ……あなたの話、いちどしっかり聞いてもいい? 浅海の家を出てから――いえ、物心がついてから……月雲の当主になるまで、どんなことがあったのか」
意を決して口を開いてみるも、緊張で心臓が早鐘を打っていた。わたしなどが図々しいと思われてもおかしくはない。
彼は静かに微笑んだまま、遠くを見るような目をした。
「面白いことは、特にありませんよ。物心がついたころには孤児で、帝都の裏路地に転がっていました。法律も倫理も及ばない、この世の闇のような場所です」
存在だけは聞いたことがあるが、まっとうに生きる人は話をするのも嫌がるような場所だった。そこで、幼い彼が暮らしていたなんて、どれほどの苦労があっただろう。
「……どうやって生きていたの」
幼い子どもであれば、一日の食事を手にいれるのも一苦労だったはずだ。現に、浅海の家に来たときの彼は、餓死寸前と言われても納得がいくほどに痩せ細っていた。
「ほとんどはごみを漁って生きていましたが……まれに、施しをくれる裏路地の住人がおりました。それが、ここにいる使用人たちです。すずとりんはぼくに見せもの小屋の客に配る弁当をくれましたし、水野はぶかぶかの靴を、瀬戸はぼろ板で雨を凌げる小さな小屋を作ってくれました。……八重も、夏のある日、脱水を起こしているぼくに水と塩をくれたのです」
八重さんはここに使用人たちは皆、彼に恩があると言っていたが、彼らのほうが先に彼を助けていたのだ。彼は、その恩を忘れなかったらしい。
「その恩を返すために、このお屋敷に雇っているの?」
「そのようなものです。心根の優しい彼らならば、きっとまっとうな仕事さえあれば働き者になるだろうと考えたのですが……変わらぬ者もいましたね」
八重さんのことを言っているのだろう。彼は苦々しい顔で、小さく笑った。
「八重さんは、きっと頑張っていると思うわ」
あれから、彼女の消息はわからない。りんさんたちにそれとなく尋ねてみても、誰とも連絡を取りあっていないようだ。
「お嬢さまは人の善性を信じすぎておられます。……でも、それを眩しく思うのも確かです」
彼はゆっくりと瞬きをしてわたしを視界に捉えた。夜の闇のせいか、彼の所作ひとつひとつが妙に雰囲気があって、見ていて落ち着かない気持ちになる。
「裏路地でなんとか飢えを凌いで生きていたある日、上等な着物を纏った男たちがぼくの前に現れました。あなたの兄上の従者たちですね。訳もわからぬまま馬車に乗せられ、屋敷に着くなり冷たい水で体を洗われて……綺麗な赤い着物を纏ったあなたの前に転がされました」
その日のことはよく覚えている。たまの代わりだと言って少年を連れてこられ、幼いなりにひどく動揺したものだ。
「あのときお嬢さまがぼくを欲しいと言ってくださらなかったら……あなたの兄上は間違いなくぼくを殺していたでしょう」
そんなことはない、と言いきることはできなかった。兄は、わたし以外にはあまり優しくない。わたしの目の前で他者を虐げることはしないけれど、兄の冷酷な一面は、使用人たちの噂話で聞いていた。
「そういう意味では確かにお嬢さまはぼくの命の恩人なのに……こんな真似をしている自分がつくづく嫌になります」
「命の恩人だなんて、思う必要ないわ。そもそも……わたしがたまの代わりを願わなければよかったのだもの」
「それはそれで、ぼくはあの裏路地で死んでいたでしょうね。あのころはもう限界でしたから。ぼくは、お嬢さまに救われたのです」
薄水色の瞳は、不思議な熱を帯びていた。泣いているようにも、敬虔な祈りを捧げているようにも見える。相変わらず、吸い込まれるように美しい瞳だった。
「そこから五年間、お嬢さまにお仕えして……あなたの父君に刺されたあと、ぼくは浅海家の従者の手で運河に投げ捨てられました。あいにく死にきれていなかったぼくは足掻いて、もがいて……気付いたら、叔父に拾われていたんです」
「っ……」
考えていたよりも凄惨な事態に、息を呑む。彼がわたしたちを許さないと考えるのも当然だ。
「この容姿と瞳の色で、叔父はぼくが亡くなった姉の子だとわかったようでした。叔父は姉夫婦が亡くなったあと、ずっとぼくを探していたようです」
もし、もっと早くに朧さんが彼を見つけていれば、彼は浅海家に引き取られることも、死ぬような目に遭うこともなかったのだろう。彼にとっては、苦い思い出に違いなかった。
「回復してからは、叔父に幻術の才能を見出され、一般の教養を一通り学び、十六の春に幻術師の養成学校に入りました。……そこからは大体お嬢さまもご存知でしょう」
そこで桜木さまと出会い、学生時代を過ごして、幻術師として成功を収めたのだろう。まだ二十年とすこしの人生にしては、あまりにも劇的で濃密だ。
「今はこんなに上等な着物を着ていても、元はごみと泥に塗れた人間だったと思えば……この手はどうしても綺麗だとは思えません。――そんなぼくの妻に尊いあなたを貶めたんだ。ぼくは、許されないことをしていますね」
自嘲気味に彼は唇を歪めた。心底つらそうに揺らぐ彼の瞳を見ていられず、思わず彼をぎゅう、と抱きしめる。
「そんなことない、あなたはわたしなんかよりずっと美しいひとだわ。こんなに頑張って生きて、みんなのために力を使っているのだもの……」
暴力を受けて我が身を呪っていただけのわたしとは、大違いだ。傷を受けたまま放置し続けたわたしとは違って、彼は傷を磨き上げ、誰もが憧れるような輝きを放っている。彼はそれに気付いていないらしい。
「お嬢さまにそう言っていただけると、救われるような気がします。お嬢さまより美しいという点には、同意いたしかねますが」
彼は笑うように、わたしの肩に顔を擦り寄せた。
思わず、彼の黒髪をそっと撫でる。むしろ彼の隣にいるために努力し続けなければならないのは、わたしのほうだ。
ちょうどいい機会だと思い、懐から小さな布袋を取り出す。ここには、このところ寝起きで流した人魚の涙が入っていた。
「……しばらく渡せていなかったけれど、これ、差し上げるわ。近ごろは……楽しいことばかりであんまり泣けなくて、数が多くないのだけれど……」
彼は布袋を受け取り、紐を緩めて中身を確認してから、再び丁寧に縛った。それを、そっとわたしの手に握らせる。
「お嬢さまに復讐したくて始めた結婚ですが、これはいりません。お嬢さま自身のためにお使いください」
「え……」
これは、復讐のための結婚だ。わたしから涙を受け取らなければ、彼がわざわざ父の莫大な借金を立て替えてまでわたしを娶った意味がなくなってしまう。
「受け取るべきよ。あなたにはその権利がある」
「権利があっても、これを受け取り続けている限り、ぼくはあなたの父親と同じです。あの方と同じにはなりたくない。ぼくは、お嬢さまから搾取する者になりたいわけではありません」
「っ……」
息が詰まる。頭を殴られたときのように、一瞬視界が暗くなった。
結局のところ、わたしも浅海の人間なのだ。価値のあるものを手渡すことで、彼の隣に居る権利を買い取れると思い込んで、彼が望んでもいないものを押しつけていた。そうすることでしか縁を保てない、浅ましい人間だった。この涙で彼が復讐を遂げられているのだと思い込んで、勝手に安堵していたのだ。
「でもこれじゃあ……まるで復讐になっていないわ」
花見のときも似たような会話をした。あのとき彼は、わたしに嫌なことも怖いこともすべて教えるようにと言った。今のところわたしは何不自由ない生活をしているだけで、何かを我慢しているわけでもなく、彼に人魚の涙を捧げているわけでもない。どこが、復讐のため結婚なのだろう。
「ですから、じゅうぶんなっていますよ。――好きでもない、獣同然の下賎な男に娶られて、こうして時間を奪われているではありませんか」
くすくす、と彼は笑った。本気でそう思っているようだ。彼の指先が、そっとわたしの頬に触れる。親指が、弄ぶように唇を割り開いた。
「あなたは一生逃げられない。かわいそうなお嬢さまだ」
鼻の奥がつんと痛む。なんだか、声を上げて泣いてしまいそうだった。けれどいま涙を流せば、ますます誤解を深めるような気がして、思わず首を横に振りながら彼の胸に顔を埋める。
「違う、違うわ、わたし……すこしもかわいそうなんかじゃないわ」
「そうでも思わないとやっていられませんか? ますます憐れですね」
彼の手が、洗い晒したわたしの髪を梳いた。その仕草があんまり優しくて、結局彼の胸の中でぽろぽろと涙を流してしまう。どういう感情から泣いているのかもよくわからないのに、それはみるるうちに真珠に変わっていった。
「違う、違うの……!」
わたしは、かわいそうなんかじゃない。
だってわたしはきっととうに、あなたに恋をしているから。
恋慕う相手の妻になれた女性のどこが、かわいそうだというのだろう。
喉もとまで出かかったその言葉を告げようとして、唇が震える。この期に及んで醜い自己保身が、その告白を妨げていた。
裏を返せば彼は、わたしが「かわいそうなお嬢さま」でなければこの結婚をおしまいにしてしまうということだろう。人魚の涙で利益を上げるわけでもなく、復讐にもなっていないのであれば、きっと彼がわたしをそばに置いておく理由はなくなる。
彼に「もういらない」と言われることが、何よりも恐ろしかった。想像しただけでぼろぼろと涙があふれてくる。わたしは、彼が復讐を遂げて晴れやかな気持ちになることよりも、彼のそばにいたいという自分の気持ちを優先しているのだ。
……救いようがないわ。
わたしはきっと、誰より醜く浅ましい女だった。
いつか、必ず報いを受けるだろう。罰を受けるだろう。
それをわかった上でも、離れられない。この温もりを手放すことはできない。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
「いくら謝っても逃がしてなんかあげませんよ、千花お嬢さま」
吐息混じりに薄く笑って、彼はわたしの頭に顔を埋めるようにしてくちづけた。その感触がやっぱり慈しむように優しくて、涙が止まらなくなる。
床にこぼれ落ちた人魚の涙の輝きを、これほど醜く思った夜はない。濃密さを増す花の甘い香りの中で、わたしは眠りにつくまでずっと、彼の腕の中で涙を流し続けていた。




