第三話
「月雲、お前これ相当痛むだろ……腱まで切れてる。よくそんな平気な顔できるな」
月雲邸につくなり、彼の部屋で早速治療をする運びになった。りんさんたちに水と清潔な布を持ってきてもらい、今は傷口を綺麗に洗ったところだった。彼は寝台の上で背中にクッションを当てて体を起こしているような体勢で、水野さんたちが運んできてくれた机に手を乗せていた。
机の上で彼の傷口を確認した桜木さまが、寒気を覚えたと言わんばかりに身震いする。わたしは深くまで傷口を見ていないが、それだけ痛々しいのだろう。
「このくらい、なんてことない。……お嬢さま、お見苦しいところをお見せするわけには参りませんので、湯浴みでもなさっていてください。ぼくの血で汚れてしまったでしょう」
「あなたが嫌じゃなければ、こうして手を握っていたいわ……」
昔の彼は、よくわたしにそうしてくれていた。父に殴られてぐったりとしているときには、朝が来るまでずっと抱きしめてわたしの背中を撫でてくれていたのだ。
「嫌では……ありませんが」
「いいなあ、俺も千花ちゃんみたいな可愛い女の子に手握られたい」
彼の傷口を拭きながら、桜木さまは唇を尖らせた。
「千花、ちゃん……? お前、いい加減にしろよ、お嬢さまに向かって」
わなわなと震えながら、彼は桜木さまを睨みつけた。見ているこちらがびくりとするほど鋭い視線だ。
「えええ、じゃあなんて呼べばいいの? 千花さま?」
こんなに睨みつけられているのに、桜木さまはまるで動じていない。それが余計に彼の苛立ちを増幅させている気がした。
「お前如きが名を呼んでいい方じゃない」
「拗らせすぎだって、朔くん」
なんとなく、彼をここまでうまくあしらえるのは桜木さまくらいなのではないかと思った。一見険悪な空気を醸し出しているが、彼は本当に嫌いな相手には言葉も交わさないような気がする。友人というのは、本当なのだろう。
「じゃあ、流石に痛そうで可哀想だからちょっと寝ててね。すぐ覚ましてやるからさ」
「お前、余計なこと――」
桜木さまが彼の頭に手をかざすと、握っていた手がすぐに脱力した。クッションにもたれかかるようにして、静かな寝息を立てている。
「今のも、幻術ですか……?」
「そうそう。局所の麻酔でもいいんだけど、あいつが起きてたら千花ちゃんとまともに話せなさそうだったし。……まあ、月雲と俺じゃ力の差がありすぎて、そう長くもたないんだけどね」
くすりと笑いながら、桜木さまは彼の右手に手をかざし始めた。
ぴくり、と握っている彼の左手が震える。眠っていてもなお痛みを覚えるような治療なのかもしれない。思わず、彼の左手を握り締め、手の甲をさすった。
彼の右手の甲の傷口はみるみるうちに治っていった。初めに血が止まり、深く抉れていたような傷が盛り上がってくる。やがて表の皮膚がぴたりとくっついて、後には線状の傷痕を残すだけになった。
「すごい……」
こんなふうに怪我を治す場面は初めて見た。わかっていたことではあるが、幻術の偉大さを改めて思い知る。
「月雲ならもっと早くうまくやれるよ。自分で自分を直せないのは、こいつの最大の欠点だな」
彼の右手にかざしていた手を引っ込めて、桜木さまはわずかに眉を下げた。
「他のみなさんは、ご自分でご自分の傷を治せるものなのですか?」
「意識と力が残っていれば、一応ね。幻術は感情だとか思い込みだとかにも左右されるから……こいつはあんまり、自分の体が大事じゃないのかもね」
だとすればそれは、わたしたち浅海家のせいだろう。彼の心の傷をまたひとつ見つけてしまい、思わず顔を俯かせる。本来ならば、わたしはこうして彼の手を握っていていい人間ではないのだ。
「桜木さまは……彼のことを、よくご存知なのですね」
「幻術師の養成学部で同じ寮室で暮らしてたから、多少は知ってるよ」
「そうですか……」
わたしは桜木さまに会うまで、彼が幻術師の学校に通っていたことも知らなかった。もっとも、聞いてもわたしには教えてくれないだろうと勝手に殻に閉じこもっていたせいなのだけれども。彼に拒絶されるかもしれないのが嫌で、踏み込めなかったわたしは本当に弱虫だ。
「ちなみに学生時代の月雲は、いつでも首席だったけどものすごく無愛想で、俺以外に友だちはいなかったよ。寂しいやつ」
からかうように眠る彼を見つめて、桜木さまは笑った。大勢に囲まれた学生時代ではなかったとしても、桜木さまのような人が隣にいてくれたのは心からよかったと思う。
「いいお友だちなのですね、おふたりは」
「俺はそう思ってるけど、月雲はいっつも冷たいからなあ。でも、千花ちゃんと再会してからの月雲はちょっと柔らかくなったよ。千花ちゃんが来て、よっぽど嬉しかったんだなあ……」
よかったよかった、と微笑みながら桜木さまは彼を眺めていた。そのまなざしは慈しみにあふれていて、まるで彼の兄のようだ。
「そうだと、いいのですが……」
どうも、桜木さまはわたしと彼の関係に思い違いをしているようだ。
彼は、今もわたしを許していないはずなのだから。一見柔らかな会話の中にも、確かに棘は潜んでいる。今日だって、一瞬だったが底冷えするような憎悪を向けられた。
……でも、大切にしてくれているのも、確かだと思うわ。
これ以上ないくらいにわたしを気遣ってくれているし、何不自由ない生活をさせてくれている。彼にとってわたしは、ただ憎いだけの復讐相手というわけでもないのだろう。それが余計に彼を悩ませていそうで、心苦しかった。
「それより、月雲の小さいころの話聞かせてよ。千花ちゃんのお屋敷にいたんでしょ? 何かこいつの弱みになるような話はないの?」
桜木さまは興味津々と言った様子で目を輝かせていた。まるで悪戯好きの子どものようだ。
「弱みになるようなお話は何も。彼は、ずっと可愛らしいひとでしたよ。いつでもわたしのそばにいてくれて……わたしにとっては片割れのような存在でした」
「お嬢さまと使用人なのに? ずいぶん距離が近いんだね」
桜木さまの疑問はもっともだろう。普通の伯爵令嬢であれば、使用人と、それも異性の少年と親しく触れあうことはない。
「そう、ですね……我が家はすこし、特殊だったのです」
言葉に迷った末に、そう表現することしかできなかった。誤魔化されたことがわかったのか、桜木さまは軽く首を傾げてこちらを見つめている。
「ふうん……まあ、どの家にも言えない事情はあるだろうね」
桜木さまが軽くへらりと笑うと同時に、眠っていた彼が身じろぎをした。桜木さまが引き攣った微笑みを浮かべて彼を眺める。
「もう起きたよ、化け物かな? 俺も結構力は強いほうなんだけどな……」
「……人を化け物呼ばわりするな」
気だるげに抗議しながら、彼はゆっくりと起き上がった。寝起きの重たそうな瞼がなんだか可愛らしい。
「手はどうだ? 動くか?」
桜木さまに促され、彼は右手を閉じたり開いたりした。指先も滑らかに動いている。
「問題ないようだ。……手をわずらわせたな」
「え、それまさかお礼言ったの。……せっかくの桜の季節に雪とか雹とか降るのは嫌だなあ」
「お前な……」
桜木さまは大袈裟なくらいに身震いして、彼を眺めていた。彼が素直に感謝の意を伝えるのはそんなに珍しいのだろうか。思わず、くすりと笑ってしまう。桜木さまも、釣られるようにくすくすと笑った。
「なるべく綺麗に直したつもりだけど、傷が消えるかはわかんないよ」
ひとしきり笑ったあと、桜木さまは彼の右手を見つめて告げた。彼は特に気にしていないようだ。
「別にいい。令嬢の体でもあるまいし」
「お前かお前の叔父さんが治せば、綺麗に消えたと思うんだけどなあ」
頭の後ろで手を組んで、桜木さんは椅子にもたれかかった。聞き逃せない単語に、思わずふたりの会話に飛び込んでしまう。
「……叔父さまがいらっしゃるの?」
初耳だった。彼が月雲家の当主となったからには、彼の身もとを明らかにした月雲家の身内がいるとは思っていたが、それがその叔父さまなのだろうか。
「お前、千花ちゃんにそんなことも話してなかったの?」
「……お嬢さまのお耳に入れるほどのことではない」
「入れるほどのことだって! ……なんだか放っておくととんでもない方向にすれ違っていきそうだなあ、このふたり」
呆れたようにため息をついて、桜木さまはわたしと彼を見比べた。
「もともと、月雲家の幻術師といえば、朔のことじゃなくて、叔父さん――朧さんのことだったんだよ。帝都一の医師であり幻術師。朧さんにかかれば治せない病はないと言われるほどだったんだ」
そういえば、噂だけは聞いたことがある。母の治療を依頼しようとしたが、結局診察前に母の命のほうが尽きてしまったのだ。そのときは帝都一の幻術師としか聞いていなかったが、ひょっとすると彼の叔父さまのことだったのかもしれない。
「叔父って言っても、朔とはひとまわり弱しか離れてなくて、ずいぶん若く見えたよ。……俺も何度か会ったことがあるけど、朔と瓜ふたつで、まるで兄弟のようだった。だからかな、今でも朔と朧さんを混同している人が多いんだ」
彼とそっくりな叔父さまだなんて、是非とも会ってみたい。
……でも、彼とひとまわりも歳が離れていない方なら、どうして彼に月雲家を譲ったのかしら?
年齢を考えれば、叔父さまが当主を務めるのが自然なように思うが、どうして姿ひとつ見せないのだろう。
「叔父さまは、いまどちらに……?」
何か事情がありそうでおずおずと聞いてみると、彼はわずかにまつ毛を伏せた。
「……行方不明なんです。三年前から」
「行方不明?」
桜木さまもまた、どこか憂いを帯びた表情を見せた。
「どこいっちゃったのかねえ、朧さん。月雲の十倍くらい優しい人だったんだけどなあ」
「十倍くらいは余計だが……まあ、確かに優しい人だった。無欲で、いつも穏やかに微笑んでいて……ぼくを拾って、月雲家に連れてきてくれた」
浅海家から逃げ出したあと、彼に手を差し伸べたのはやはり叔父さまなのだろう。帝都一の医師であり幻術師が治療したときけば、彼のあの傷が治ったのも納得だ。
「手がかりは、まるで掴めないの……?」
この様子だと、きっと彼は叔父さまに会いたいだろう。何か、事件に巻き込まれているのでなければいいのだが。
「それが、何もないんだよね。あんまり考えたくないけど……これでも一応身元不明の遺体も洗ってるんだ。すくなくともこの三年の死者のなかに朧さんはいない。帝都にいるなら……たぶん、どこかで生きているんだろうね」
人々に顔を覚えられるくらい有名な幻術師だったのに目撃情報がないということは、どこかに隠れているのだろう。それが、自分の意思かどうかは別として。
「でも案外、月雲が花嫁を迎えたって聞いたら会いに来てくれたりして」
「……だといいが」
桜木さまの楽観的な言葉に、彼も小さくふ、と笑った。やはり、彼は叔父さまに会いたいのだ。懐かしむような柔らかな微笑みがそれを物語っていた。
部屋の置き時計の鐘が鳴る。時計の針は夕方の五時を指していた。いつのまにかすっかり夕暮れになってしまったらしい。
「さて、俺はそろそろお暇しようかな。……月雲、今日明日はちゃんと休めよ。本部には言っておくから」
「……わかった」
彼は何かいいたげだったが。大人しく桜木さまの言葉を受け入れることにしたようだ。桜木さまは満足げに微笑んで、わたしに向き直る。
「千花ちゃんも、じゃあね。また月雲の話しよ」
悪戯っぽく笑う桜木さまに、彼が苦言を投げかける。
「お前……お嬢さまに余計なことは言っていないだろうな……?」
「言ってない言ってない」
立ち上がって、桜木さまの後へついていく。扉の外にはりんさんたちがいるだろうが、玄関まで見送ったほうがいいだろう。
「千花ちゃんは月雲についててあげて。俺はここでいいから」
桜木さまの柔らかなまなざしを受け、こくりと頷く。今日は、その言葉に甘えさせてもらおう。
「今度はゆっくり遊びにいらしてください」
「うん、すぐにでもお邪魔するよ。またね」
桜木さまはわたしの手を取ると、指先にちゅ、とくちづけた。
よその国ではそういう挨拶をすることがあると書斎の本で読んだが、実際にされたのは初めてだ。挨拶とわかっていても、なんだか戸惑いを隠せない。
「あ……」
「――これくらいして焦らせないと、あいつ一生手出してこないよ。びっくりさせてごめんね」
耳打ちするように桜木さまは囁いて、意味ありげな笑みを浮かべた。食えないひとだ。
「桜木……お前、復帰したら覚えてろよ」
寝台の上から、彼は射殺さん勢いで桜木様を睨みつけていた。当の桜木さまは意にも介さぬ様子でへらりと笑う。
「月雲が復帰いちばんに俺にすべきことは、傷を直したお礼の酒でも奢ることじゃない?」
「お嬢さまに気安く触れた輩に奢る酒はない」
「ああ怖い怖い、怒らせちゃったっぽいなこれ」
焼き殺される前に退散しよ、と物騒なことを言いながら、桜木さまは廊下へ消えていった。扉が閉じたあとも「きみたちもずいぶん綺麗だね。名前は?」などと軽薄な台詞が聞こえてくる。おそらくりんさんとすずさんに言い寄っているのだろう。呆れた人だ。
「お嬢さま、お手を」
すぐ背後で声をかけられ、びくりと肩を跳ねさせる。いつの間にか寝台から出てきたらしい彼が、半ば強引にわたしの手を包み込んだ。
「怪我が治ったばかりなのに……横になっていないといけないわ」
少なからず血も失っているのだ。桜木さまは傷は治してくれたが、おそらく失った血の補充はしていないだろう。ふらついたり、めまいがしたりするかもしれない。
彼はわたしの手を引いて寝台のふちに座らせると、向かいあうようにしてわたしの目の前に跪いた。
「あいつに穢された右手を綺麗にするほうが先です。じっとして」
濡れた布を指先に押し当てられたかと思うと、そのままゆっくりと丁寧に拭かれる。きついお酒の匂いがした。おそらく酒精で消毒しているのだ。
「大袈裟ではないかしら? 外国では挨拶だと本で読んだわ」
「ここは帝都で、あなたはぼくの妻なので」
それだけ、桜木さまの行動が気に食わなかったのだろう。汚れがないか点検するようにわたしの手をまじまじと眺める彼が、なんだかおかしかった。
「ふふ、怪我したのはあなたなのに、変なの」
くすくすと笑うと、彼もまた存外楽しそうにこちらを眺めていた。こうしていると昔に戻ったような気がする。
「ね、ここへ座って。痛みを吹き飛ばすおまじないをしてあげるわ」
彼の手を引いて、自らの隣に座らせる。寝台が、ふたりぶんの体重でぎし、と軋んだ。
彼の右手をそっと両手で持ち、傷痕をなぞる。
「あなたの痛みが、泡になって消えてくれますように。海に還りますように。人魚が食べてくれますように」
幼いころ、母がしてくれたおまじないだ。人魚を思わせるような言葉からして、おそらく浅海家内でのみ伝わっているものだと思う。
そのままそっと彼の右手を掲げ、傷痕にくちづけた。痛みのある部分にくちづけるのは、人魚の涙を流す娘だけがやる慣わしで、力のない他の者は言葉だけを唱えるのだ。
「っ……」
彼が、言葉もなく息を呑むのがわかった。窓から差し込んだ焼けるような夕焼けの中で、まっすぐに彼と目があう。
「ふふ、すこしはよくなったかしら」
頬を緩ませて彼に語りかけたとき、ふと、彼の手の甲に薄く紅がついてしまったことに気がついた。
そういえば今日は化粧をしていたのだ。朝から紅を引き直してもいないのに、夕暮れまでしっかり残っているなんて、月雲家の化粧道具はそうとう質のよいものを使っているらしい。
「ごめんなさい、紅がついちゃったわ。さっきの布はあるかしら」
酒精が染み込んだ布でなら、きっと綺麗に落とせるだろう。そばにある机の上にでも置いただろうかと視線を彷徨わせたそのとき、視界の隅で彼が自らの右手にそっとくちづけるのが見えてしまった。
彼は長いまつ毛を伏せて、ゆっくりと手の甲に唇を押し当てていた。ついさきほど、わたしがくちづけた箇所だ。
直接くちづけられているわけでもないのに、かあっと体が熱くなる。あれでは、間接的にくちづけているようなものだ。
その上あろうことか彼は、そのままわずかに赤い舌先を覗かせて、手の甲に薄く残る紅を舐め取ってしまった。頭の中が、沸騰したように熱くなる。
「そ、そんなものを舐めては駄目なのよ……! か、体に悪いわ……」
「そうですか? 甘くて花の香りがしましたが」
「はしたないもの……紳士が、そんなことをしてはいけないのよ……」
「あいにく、人間の作法に疎い獣なもので」
何を言っても勝てる気がしない。きっと今のわたしは、夕焼けでは誤魔化せないほどに真っ赤になっているのだろう。そう思えば思うほど恥ずかしくて、ぎゅう、と目をつぶった、
閉じた瞼の向こうで、くすくすと彼が楽しそうに笑う声がする。どうあっても、彼には敵う気がしなかった。




