5 同じ言葉
巨大な船の上には、意外と湿った空気が流れていた。海上に出るのは依与にとって初めての事であり、波の強さも、海面から立ち昇る水気も、新鮮だった。端から端まで海しかない光景は驚嘆すべき眺めであり、偶に波間に見える生き物たちは見慣れぬ外見で興味を引かれる。
抜銃隊を撃退したルイスは、その混乱に乗じて依与を連れて逃走を再開し、たった数日後には彼女を米国に向かう船の上にまで導いていた。まだ一般の人間の海外渡航は難しいというのに、あまりにもスムーズに手続きが進んでいた。ルイスのコネというものの力が思った以上のものであったわけだが、元兵士や名うてのソーズマンだった経歴が彼の人生に無数の人間を結び付けているのかもしれなかった。敵意や悪意だけではない縁を。
そうであればいい、と考えていると――
「近い将来、俺たちアメリカ人の刀剣による戦闘術は、時代遅れとなるだろう。世界の戦いは銃器が主流になる。ソーズマンの歴史もすぐに過去のものとなるだろうな」
物珍し気に景色を眺める依与に、傍に立つルイスが出し抜けにそんなことを言ってのけた。
「あれほど一方的に勝利しておいてですか?」
振り返って訊くと、彼は「運が良かった」と信じ難い返しをしてくる。
「相手もまた少数精鋭だったからな。あれが数押しするような戦いなら、こっちが同じ人数、米刀で武装した剣客を用意したところで、一方的にやられるだけだったかもしれん。それ以前に、俺ほどの達人は稀だ。あの新型の銃器も並大抵のものではない。世界の戦の主流は、銃撃戦になるだろう」
そこまで話してから、彼は「しかし、本当にアメリカに渡るとはな」と空を見上げた。
「君が海外に出たことで、日本は死に物狂いで羽場暮秋法を自力開発しようとするかもしれない。どこまであの手法の情報が残っているか、分かったものではないしな。となれば、対抗力として、諸外国に羽場暮秋法を上手く流すこともいつか必要になるかもしれない。だがそれはそれで、新たな戦乱を生みかねない」
今後どう振る舞うべきか――まだあまり具体的に考えられてはいないが、難題には違いなかった。なにせ、依与が宿すのは、世界を一変させる技術である。どう扱うか、どれだけ考えても慎重になりすぎるということはない。
「結局、私のしたことには意味があったのでしょうか。羽場暮秋法は、何をどうしたって戦を生むしかない、忌まわしい業なのだとすれば……」
命からがら日本を離れ、見知らぬ土地に向かって、それでどうするというのか。茫洋とした未来を考えていると、ルイスがいつの間にか、いぶかしげな顔をしていた。
「君は、正しく教育を受けたことは無いのだったな」
確認の言葉に、頷く。
「正しい跡取りではありませんでしたから。兄ならばきちんと体系的な学びを進めていたのですが」
父は依与が勝手に見聞きしたものから学ぶこと自体は止めなかったし、そのことを喜んでもいた。だがあくまで余興のようなものであり、真っ当な知識自体は兄に授けられ、受け継がれるはずだった、と依与は説明する。
と、話しているうちに、ルイスはやや信じ難い反応を示した。何と、小さく声まで漏らして、笑っているのである。こらえきれないといった様子で、口に手を当てて肩を震わせていた。
「いや、すまない、亡くなった家族について話しているというのにな」
「それは、別に良いですが……」
この男がまさか声を上げて笑うとは一体全体何が起きたというのか。呆気に取られていると、ルイスは「いや悪い、まさか分かっていなかったとは思わなくてな」と付け加えた。
それから息を整えて、甲板の縁に背を預けてから彼は依与に教えてくる。
「ごく基本的なことなんだが」
と前置きし、空中に人差し指を向ける。空気をかき混ぜるように、くるくると小さく回してみせる。
「羽場・暮秋法のような、窒素固定の手法がまず役立つのは、別の分野かもしれない。いいか、米でも小麦でも野菜でも何でも、農作物に必要な三大成分は、リン酸、カリウム、そして窒素だ」
言葉の意味を即座に取れずにいると、彼は依与にずいと指を向けて、
「もし窒素化学肥料が実現すれば、見たこともないほどの量の農作物が生産できるかもしれない、ということだ。これまで空気中の窒素の利用は誰にとっても難しい問題だったが、羽場・暮秋法はこれを解決する。ことによっては、火薬以上の巨大な意味を持つだろう」
「そんな、ことが――」
あるというのか。
どこか出来過ぎではないかという思いが依与に兆した。人を殺す火薬の原料と、人を生かす農作物の栄養素が、同じ業から生み出されるなどと。
「今、世界は技術の進歩とともに人口を急速に増やしつつある。しかし農作は農地面積当たりの限界に行き当たっている。君が死なずに生き延びて持ち出した技術には、この先の時代の、数十億数百億の人間の未来が詰まっているかもしれないわけだ」
面白がるような声の響きに、依与は完全に自らの想像力の限界を超えた話だということだけは理解していた。改めて、とんでもない知識を憶えてしまったと自覚する。だが、先ほどまでとは違い、自分が持ち出した記憶に、何か、異なる肌触りのようなものを感じ始めていた。
「危険な技術には変わりない。誰に伝えても結局、火薬の大量製造には繋がってしまうだろう。だが上手くすれば、戦乱を最小限に抑えつつ農作物の肥料効果を最大化できるような伝え方があるかもしれない。誰に、いつ技術を流すのか。そう考えると、大きな『やるべきこと』が目の前にあると、そうは思えてこないか」
目線を向けて問うルイスに、依与は半ば無意識に、頷いていた。
ある。きっと、あるだろう。遺されたもの、失われた人々から継いだものを、正しく伝播させる。途方もなく難しく険しい道たる、『やるべきこと』が。
意味はある。実在せずとも存在する。ルイスの言葉の意味が、今更ながらに理解され始めていた。
同時に、一人でこの道を成すことの無謀も理解できていた。だからこそ、自然と依与は提案していた。
「無茶なお願いですが……協力してくださいませんか? 私には、アメリカに何の繋がりもない。言葉すら知らぬのです。大した見返りも用意できませんが、どうか――」
真摯に頼み込もうとして、依与の言葉は途中であっさりと彼の声に断ち切られた。
「君の事情など、知ったことか」
ルイスは、全くいつも通りの顔で、いつしかと同じ言葉を依与に向けていた。
知ったことか。不愛想極まりない声音が言い切るその続きを、依与は知っている。あの夜に言われた言葉そのままだからだ。
「やるべきが眼前にあるならやるだけだ」
同じ口調で同じ言葉を呟き、鋭い刃を腰に下げた不愛想な自信家のアメリカ人は、依与に向かって右手を差し出したのだった。
「握手はまだ、日本人には一般的ではないのですが」
「それも、知ったことじゃない」
笑って、依与は自らもまた手を伸ばした。