4 抜刀
護送の馬車は、簡素な造りだった。昼間に辺りを行きかうようなものとは違い、無骨で華がない。
依与は狭い座席に座らされていた。特段拘束はされていないが、目の前には武装した敵が座しており、そもそも狭い車内ではわざわざ縛らずとも碌な身動きは取れない。
敵は、軍服姿ではなかった。どちらかと言えば警官の制服に近いが、細部が色々と異なる。そして傍らには、あの見たこともない銃器が置かれていた。
「それは、芥子仁木場式の新式銃ですね」
依与が指摘すると、黙っていた敵の男がじろりと両眼を依与に向けた。場数を踏んだ兵法者に特有の瞳だった。
「なぜ知っている?」
「噂を聞きましたので」
と言って薄く笑ってやる。だが敵は挑発には乗らず、「噂か。便利なものだな」と吐き捨てた。
「短距離での制圧能力と、中距離での狙撃能力を両立する、連発可能な小銃。野戦用だけでなく、都市部のような場所での戦闘をも想定した新たな時代の武器――突撃銃という名称もあるそうですね」
依与は諳んじるように言って、畳みかける。
「芥子仁木場だけじゃない。明治の世となり、新政府は武郎任具M弐機関銃や或日示七擲弾発射機など新たな思想に基づいた新式兵器の開発を行っていると聞きます。諸外国が未だ原始的な銃砲を研究し始めたこの段階で、これら圧倒的な先進的武装を持てば、世界で大きく優位に立てるでしょう――火薬という問題を除けば」
「分かっているならば、協力せよ。羽場家の娘よ」
重々しく言い返す相手に、依与は内心でようやくだと気を引き締める。会話でも何でも、相手の注意を逸らして、何とか脱出せねばならない。ほとんど不可能ではあるだろうが、何とかせねばならない。。
「硝石鉱山を有する国や、日本より大規模に火薬製造の可能な国が銃器技術を急速に伸長させれば、この国の優位は無くなるどころかむしろ不利に落ちる。鎖国も終わり、銃器技術の流出はこれから絶対的に増える。あなたたちはひたすら、焦っているのですね」
「諸外国の脅威はすぐそこにある。少々の兵器技術の優位などでは、圧倒的な資源の大小の差は埋まらんだろう」
いいか、と男は身を乗り出して、至近距離から依与を睨み付けて威圧する。
「お前の故郷の藩は滅びた。家族もまた失われた。だが今協力しさえすれば、両家の名誉は回復できる。日本は精強な軍だけでなく世界の数世代先の銃器技術で朝鮮も中国もインドも、ロシアもアメリカも、欧州すらも征服できるだろう。日の本の国が世界の中心に据えられ、全てを導くのだ。その基礎として、羽場・暮秋法は永遠に称賛されるだろう。このままではお前は誰からも罵倒され裁かれ死ぬだけの罪人だが、その身に抱えた知識を明け渡せば全て変わるのだ。家や藩といった程度ではない、国家の、この日本の栄誉栄光を導くための道を作ることができるのだぞ。誇りある選択だろう」
「その顔は、憶えています」
ぴしゃりと言ってやる。「何?」と戸惑う男の顔は、勿論初対面だった。しかし――
「見たことがあります。何度も。国という権威に自らを預け、過激な空想にふけり楽しむ幼稚な人間は、皆同じ顔をしていますから」
嗤ってやる。一瞬、男は呆気にとられた後で、素早く腕を振るった。熱と激痛が頬骨に走り、殴られたことを依与は少し遅れて感覚する。だが、笑みは崩さない。
「この程度の痛みが、極楽だと思えるような未来が待っているぞ。その態度でいる限りな」
脅しと共に、更に男は腰から手銃を抜いて、銃口を依与の腕に押し付ける。殺せば全て無駄なのだからまさか容易に発砲はしないだろうと思いつつも、本能的に依与の内側で恐怖や恐慌が蠢く。必死で押さえつけながら、更に依与が相手の気を引こうと言葉を考えていると、出し抜けに馬車の天井部分から声が降ってくる。
「無駄だろう。科学の子の覚悟はお前たち半端者の比ではない」
そして声と同時に、天井の木材を貫いて黒い何かが依与の眼前の男の頭に突き下ろされた。鈍い音が響き、男が白目を向く。突き入れられたのは、米刀の鞘だった。一体全体、天井の上からどうやって狙ったのか、ほとんど魔法のような業に依与は考えていたはずの言葉を失う。
更に、「邪魔だ」と同じ者の声が発せられたかと思えば、馬車を操っていた御者が悲鳴を上げて路上に転げていく。どうやら蹴り落とすか何かしたらしい。すぐに馬車は速度を下げ、停止した。側面の扉が開かれ、あまりの早業に反応できていない依与に声がかかる。
「逃げるぞ」
ルイスだった。先に襲撃された際、川に落ちて逃げ延びたのだろうか、髪も服も濡れて湿ったまま、何事もないかのようにいつもの顔でそこにいる。
腕をとられ、馬車から引きずり出されて、依与は深夜の町へと連れ出されたのだった。
*
東京は広いが、人の足は短い。逃げると言っても身一つでは、大した距離は稼げない。
「横浜に向かうべきだな。俺のコネが使えるとすればそこだ」
数キロほども走って、ルイスは息一つ上がっていなかった。彼一人ならばかなりの距離を逃げおおせるだろう。一方で依与の方はといえば、半死半生といった感じだった。限界を超えて心拍と手足を酷使し、倒れる寸前だった。
ルイスが足を止めたのは、依与の限界を察してのことである。一時間以上夜中の町を駆けて、とりあえず辿り着いたのは整備中の公園だった。明治に入り西欧の公園というものを東京も取り入れはじめ、大規模なものがいくつか既に完成している。だが二人のいる場所は、まだ造成半ばといった状態で、作りかけの小さな池と東屋か何かの土台が見える他は、ただ広いだけの土地だった。まばらに生えた木々が周囲から少しばかり視線を遮るが、それだけだ。がらんどうの土地だった。
「休んだら逃走の続きを、と言いたいところだが、恐らくここには上手く誘導されたな。敵の動きを避けて逃げたつもりだったが、銃撃に適したような場所に誘い込まれたか」
危機的な事態を涼しい顔で確認するルイスに、呼吸を無理やり整えながら依与は「何故です」と掠れ声を向けた。
「なぜ私を追ってきたのです。敵は、恐らく私の警備に意図的に隙を作っていました。秘密を知ったかもしれないあなたを誘き寄せるために。あなたのいう通り、すぐ敵が殺到します」
それも、普通の相手ではない。
「あの家で私たちを襲ったのは、恐らく『抜銃隊』です。陸軍省ではなく警察の内部に創設された、銃術に優れた人間による選抜戦闘部隊。新式の装備に熟練した、東京でも指折りの脅威です」
「なるほど。確かに、面白い獲物を使っていたな」
ルイスは自らの肩口や横腹を見やって言った。弾丸に擦過されて衣服が裂け、血が滲んでいるのだ。よくその程度で済んだものだと依与は息を呑む。死んでいてもおかしくなかったというか、死んでいないことが奇跡のようなものではないか。
「なんだ、君は俺が一人逃げてどこかに消えることを望んででもいたのか? 依頼をしてきたのは君自身だろうに」
「ギリギリまではどうにかするつもりでいましたから。それでも、遅きに失しました。まさか抜銃隊や新式銃までこれほど迅速に投入されるとは。それに」
と依与は目を閉じて、過ちのことを考える。どこから選択を間違っていたのか――故郷から逃げた時か、この数年の潜伏か、ルイスを雇った時なのか。行き詰まりを前にして、己の全てが愚かしく思えてくる。
「そもそも私は、あなたを騙しました。羽場暮秋法がこの国や世界に巨大な影響を与えるとてつもないものであることを伏せたまま、事態にあなたを引き込んだ。事ここに至っては、どうしようもない。ならば、身勝手な話ではありますが、あなた一人でも逃げ延びて欲しいと……」
ルイスは強い。だが、完全武装の抜銃隊を前に何をどうするというのか。危険な仕事を依頼したのは確かだが、無駄に死んでほしいわけではないのだ。
だがルイスは依与の言葉などどこ吹く風で、「知ったことか」と吐き捨てた。
「君の事情など、知ったことか。やるべきが眼前にあるならやるだけだ。羽場暮秋法に関しては、俺や君の個人的なあれこれなど霞むほどの話だろう」
あまりにも率直な言葉だった。火薬の製造量の急激な増大がもたらす戦火を考えて依与は行動していたが、ルイスもまたそのために命を懸けたというのだ。実際に殺されかけておいて、やるべきこと、などと易々言えるようなものでもない。
「あなたは、本当に、変人なのですね」
「おい」
「ですが、私は、最早、何を何の為に行っているのか、何もかもの底が抜けてしまったような気分です」
土の上に膝をつく。萎えた足は、二度と動き出さないような気すらしてくる。
「多くを失いました。故郷、家、家族、縁者――皆非業の死を遂げました。あなたの言う通り、私もまた、『やるべきこと』を成そうとして、これまで動いてきた。けれどこれだけ失い続け、今あなたすら大きな危険にさらしている。一体、悪の報いとは何か。善の報いとは何か。正しきことをしようとしているなら、なぜ皆ひどい目に遭ったのか。それは自分がやろうとしていることが正しくなかったからなのか。それともそもそも世には救いがなく、正しかろうが悪かろうが報いなどないのか。最早、何もかもが価値を失ってしまうように思えてきます」
もう、ここまででいいのではないか。これ以上はいいのではないか。
渡壱藩を脱出して以来初めて、そんな言葉が頭に浮かんでいた。
「依与」
と、名を呼ばれて、依与は身を固くした。この男が名を呼ぶのは、そういえばこれが初めてではなかったか。
「君は、悪行にとっての唯一にして最悪の報いは何だと思う」
投げられた問いはあまりに茫漠として、哲学的だった。答えに迷っていると、ルイスはすぐに言葉を続けた。
「当然、答えは『悪を成すということそのもの』だ。それ以上の報いなどない。刑罰やしっぺ返しは、単なる社会運営のための措置や、偶然でしかない。罪への報いは、罪そのものだ。善行にしても、話は同様だ」
それからルイスは腰の刀に軽く右手で触れる。新大陸産の刃に宿るものを感じ取るかのように、彼は柄を指で撫でる。
「俺もまた、故国では多くの敵意を集めた。今のアメリカ社会が抱えるクソみたいな悪意と敵意をコンプリートしたと言っていい」
「あなたが、ですか?」
「ああ。荒野のソーズマンとして生きていた頃、俺は何度か迫害される先住民に力を貸した。多くの人間と敵対したよ。それに、南北戦争以前から黒人とも親交があってな。彼らのために動いたことも多くの怒りを買った。戦後は悲惨な扱いをされた労働者をどうにかしようと動いて、ピンカートン探偵社とも争った」
不愛想極まりないこの男が、アメリカで行った数々の物事――『やるべきこと』を想像して、依与は微かに混乱する。どこか皮肉気なルイスが、まるで年端も行かない子供のように、ただ真っ直ぐ条理を貫こうとしていたというのだ。
「確かに、世は常に不条理で駆動されている部分が多くある。ひたすら敵意ばかりを集め、反感ばかりを買い、何度も殺されかけた。それでも、戦争での活躍や助けた相手との縁で何とか生き伸びて、ほとぼりを冷ますために形ばかりの役職と共に日本に渡ったわけだが。俺も今の君のような立場に、何度か立たされたよ」
泥を膝に付けて、傷だらけで行き止まりに跪く。こうした場所を経験した人間が目の前にいるという事実に、依与は何も言えずにいた。
「だがそれは人の世の不条理であり、善悪と言う意味そのものの条理は変わらずそこにある。俺はそれを知っている。いいか、意味は実在しないが、存在はするんだ。人の行いは純然な善そのものにも、悪そのものにもなりえないが、それでも善に漸近する行為には意味と価値がある。善に近づく行為を行ったという事実自体が、鉄と鋼の論理によって価値であるために。逆説的だが、完全たりえない善をそれでも求める行為こそが、完全たる善を意志するただ一つの方法なんだ。限られた情報と技能、経験と立場、全てを賭けて、人はできる限りの価値を掴もうとする。そして価値を目指すならば、より正確に価値が何なのかを考え、出来うる限り知らねばならない。そんな形式の生存の中、人はより価値のあるものを善と呼び、逆を悪と呼んできた」
荒野において、法も文明社会も遠い生と死が塗り分ける開拓地を戦い抜いた男が語る善悪は、奇妙な迫力で依与に迫る。言葉通り意味そのものがそこにあることを意識させるかのような感覚が、ルイスの、こんな時ですらひたすら通りの良い美声と共に頭上から注がれる。
「君もまたそうした事実を知り、それに基づく信念の行動者だと思ったからこそ、俺は協力し、今ここにいる。だから、君が折れるな。善を成せ。正しきを追え。自らが奴ら敵よりも悪だと思うならここで終わればいい。だが違うというならば――俺を使って生き延びろ」
燦然と。凛然と。夜風の中、絶対に聞き逃すことを許さない声と言葉が、依与に向けられていた。
息を吸う。乱れた呼吸と鼓動が、それでもどこかに収束しようとする。はい、と声にならない声を口にして、なんとか立ち上がろうとしたところで、周囲から無数の靴音が聞こえてくる。灯りが木々の間からいくつも現れ、二人を取り囲む。
「こんな場所に本当に追い込まれるとは、愚かな者たちだ」
ランプを下げた男の一人――自動小銃を肩から下げた抜銃隊だ――がルイスと依与を見て、嘲笑うように呟く。
「なに、こうした場所の方が俺もやりやすいんでな」
平静そのものといった様子で応えるルイスに、相手は理解できないものを前にした呆れのようなものを顔に浮かべて、警告を行ってくる。
「その娘を引き渡せば――」
「どうせ殺す気だろう。無駄口を叩くな無能者め」
遮って罵倒したルイスが、左手を腰の刀の鞘に沿えて、逆の手を柄にかける。
「新大陸の特殊ブレードか。そんな原始的な武装で、我々を相手にする気か? ついこの間まで銃器そのものを扱ってこなかった西欧人が」
「確かに、俺はこの国の最新銃器を知らないが――」
と、言い差しながら、ルイスは微かに姿勢を変えた。敵に対して半身になり、靴先が地を擦って体重を分散する。
背後から見ている依与には、何か言い知れぬ、ぞっとするような変化が起こるような、奇妙な感覚が湧き起こっていた。
「お前たちもまた、あの荒野を知らない」
という一言と共に、何かが夜闇の中に煌めき、夜気が乱れる。
ゴトリ、という音がして依与が視線を向けると、地面に突撃銃の半分だけが落ちていた。機関部の真ん中から冗談のように綺麗に二つに割れている。断面はまるで鏡のようだった。
遅れて、濁った悲鳴が上がる。胴を思い切り逆袈裟に切り裂かれた敵の男が、地を吐きながら倒れる。
周囲の抜銃隊の人間たちも、たっぷり数秒間、何が起こったのか理解していないようだった。およそ人間ではありえないような速度で、ルイスが腰の刀を抜き打ちしたのだ、と皆が理解する頃には、ルイスは余裕をもって、踏み込んだ地点で刀身を振り下ろし、付着した血を地面に払っていた。土の上に赤い飛沫が綺麗な弧を描いて落とされる。
今更ながらに、依与は彼の米刀の刃を初めて目にしたことに気が付いていた。
「クイックドロウ。荒野の決闘の速度が、これだ」
誰もが、ルイスの言葉に一時押し黙った。眼前の光景が現実だとは皆思えなかったのだ。
それでも、抜銃隊はさすがに精鋭だった。すぐに周囲で数人が連携し、複数方向から十字砲火を加えようと突撃銃を構える。
だが銃口が向けられるより早く、ルイスは地を蹴って相手の一人にとびかかっていた。しなやかな動物が自然界で最適の動きを極めたかのような、半ば人を脱したような動作だった。両手で柄を把持し、左右の握りで梃のように柄を小さく動かすと、その上の白刃が魔法のように大きく旋回する。
刀身は八十センチもない。だが踏み込みと腕の伸びや捻りを入れた背中に腰、全身の連動が間合いを手品か何かのように伸ばしている。発砲前のライフルをすり抜けて、米刀の刃は敵の腕をたった一振りで断ち落とす。悲鳴を上げる敵にルイスはそのまま向かい、体捌きで腋をすり抜けて背中側に回る。他の抜銃隊は味方を盾にされた形になり、一瞬動作が詰まる。その一瞬で、ルイスは身を低くしながら敵の背中に回った勢いをそのまま利用してUターンし、別の敵へと向かう。またも振るわれた刃が、今度は足首を切り裂き、返す刀が腹部を一閃する。
振るわれる刀の刃すら、高速での体捌きの一部として、重心移動に完璧な形で利用して、ルイスは動き続ける。あまりに見事な剣と身体の一体化した運動が、尋常な動作ではありえない動作の手数の短縮を可能としていた。
「ファニング。止まらぬ凄まじい勢いの連撃を、俺たちは柄の動きが扇ぐような動作に似ていることに例えて、そう呼ぶ」
瞬く間に数人を斬り倒して、ルイスは呟く。誰に聞かせるでもない、ただこの戦の場そのものに宣言するかのように。
彼は遠間からの銃撃すら予測しているかのように足さばきで躱し、近い順に敵に肉薄し、攻撃しながら更なる射撃を同じ動作で躱し、切り裂いた敵の倒れる一瞬を目くらましにその影から影へと飛び回る。
生まれて以来銃術に励み、先の戦でも活躍したであろう歴戦の銃客集団たる抜銃隊が、次々と地に倒れ、切り伏せられ、数を減らしていく。
やがて、ほんの数分ほどだろうか――端から見守る依与にとっては何時間にも感じられたが――が過ぎて、気が付けば辺りには静寂が戻っていた。
誰も彼もが倒れ、見通しの良くなった広い土地の上で、新大陸最強のソーズマンの一人だけが、いつもと変わらぬ、どうということもないといった顔で立っていた。