3 判明
からがら、という感じだった。
レンガの倉庫は外壁までは火が回り辛く火災というほどの火災にはなっていなかったがそれでも人目を引いたし、予想通りかなりの数の兵が集まりつつあった。
何とかその包囲をすり抜けて、依与とルイスは倉庫とは別の川の岸辺に建てられた民家の前にいた。先の現場からはそれなりの距離を空けた場所である。
とりあえずは、潜伏して落ち着く場所が必要だった。夜更けになり、屋外をふらついていては目立つ。
「少し前に、世話になっていた家です。元々、渡壱藩の出身の者が住んでいて、私にも良くして下さいました」
家は昔ながらの木造の古いもので、それなりの広さの、どこにでもあるようなものだった。だが、玄関から声をかけても人気はなく、仕方なく依与が戸を開くと、嫌な香りが鼻をついた。
無言で、ルイスが大きく玄関戸を開き、土足のまま上がり込んでいく。後を追うと、すぐに臭いの正体が判明した。居室の板材の上に、年老いた夫婦が骸となって転がっていた。
「ああ……何ということを……」
「何かを聞き出そうとしたのか。苦痛を与えるための傷が多くあるな」
遺体の傍らにルイスが屈みこんで、様子を調べる。あちこちに傷がつけられ、血臭が肌にも衣服にも纏わりついている。
「だが途中で諦めて、殺したらしい。致命打となった傷自体はシンプルで、迅速に命を奪うためのものだ」
「愚かなことを……この者たちは何も知らぬというのに」
嘆いて、依与はその場に座り込む。昨日から休みなく動き、疲れ切っていたが、それ以上に悲惨な虚無感が襲い掛かってきていた。何もかもが呑み込まれ、自分の行為をも無意味化するような虚ろな気分がどっと圧し掛かってくる。
「藩も父母も兄弟も、そしてこの東京で仕えてくれた者も縁者も、皆亡くなってしまった」
この家が最後の頼りだったのだ。藩を逃げ延びて数年、結局一人となった。まるでこれでは自分が死を運ぶ厄災のようではないか、と依与は床に手の平を置き、爪を立てた。
「彼らもまた、あの資料がらみで殺された、ということだな? だが彼らが何も知らないと分かって、殺して捨て置いた」
何もかもが無茶苦茶だ。そんなことをしてどうなるのか、後を考えれば途方もなく愚かな行為だろう。だが、軍であれ何であれ、この程度の行動は予想して然るべきだったのだ、と依与は考えていた。
黙り込んで己が過ちを反芻する依与に、ルイスは背を壁に付けて立ち、じっと依与を見下ろす。しばし間を置いてから、彼は確認を口にする。
「君は、あの資料を……遺産とやらを、持ち出す気など無かった。そうだな?」
あれは、運搬用の乗り物も無しに持ち出すことを考えるような量ではなかった。彼はそう付け加えて、結論する。
「最初から、焼き払うこと自体が目的だった。違うか?」
「……もし多くの余裕や幸運があれば、持ち出したかもしれません。ですが、よほどの運に恵まれなければ、焼くことになるだろうとは思っていました」
「俺に最初からそう話しておかなかったのは?」
「不意を突くほうが、焼きやすいからです。資料の内容は難解ですが、もしあなたが興味を持ってそれを奪おうと考えれば、今度は新政府や軍ではなくあなたに資料の内容が渡ることを防がねばならなくなる」
「誰にも渡せない。危険は冒せない。だからこそ、奪還を偽って接近し、さっさと焼いてしまう、か。馬鹿げた話だが――しかし、あの資料が『本物』ならば確かにそうするだけの価値があるな」
「あなたは、やはり、あれを理解したのですか。あの短時間で」
「理解というほどは理解していない。だが、あれがどういう目的で何を作るためのものかの概要は、分かる」
それから彼は、何かを覚悟するように長く息を吐いてから、静かな室内に慎重に声を響かせる。
「俺の認識を話そうか。あれは、誰も見たことのない革新的な……アンモニアの生成法だ。水素と窒素を反応させて窒素化合物を得る手段だ。俺が見た資料の一つでは、こう呼称されていた――『羽場・暮秋法』と」
依与は彼が口にした名称に、ぶるりと身体を震わせた。何もかもの起こりとなった、恐ろしい名前だった。羽場・暮秋法。羽場家暮秋家の両家が見出したる、この世の秘儀。
「……あなたは学問もまた武芸同様に優秀なのですね」
「こう見えて少しばかりインテリでね。付け焼刃だが。君こそ年若いというのにあれを理解しているのか」
「付け焼刃のレベルではありません。驚嘆すべきものです。私は専門の教育は受けませんでしたが、家で父や兄の研究の話をよく耳にしましたから、聞きかじった程度ですが知識の欠片があるのです。あなたも『羽場・暮秋法』の内容が分かるなら、それが存在すること自体が何を意味するのかも、理解していますね」
「ああ。だがあれは……本物なのか。つまり、あの理論は、単なる空論や実現不能な錯誤や解決不能の課題を抱えたようなものではなく、実行できるものなのか」
「ええ。既に両家は実験レベルですが、あの方法に基づいて生成を成功させていました」
彼はどこか遠くを見るように視線を依与から外す。
「あれが実際に使われれば、この国は無尽蔵の火薬を得ることになります」
依与が言うと、ルイスは顎を微かに上下させて同意してみせた。
「火薬の主成分は硝石だ。この生成法があれば、従来の自然を使ったごく小規模なやり方や、硝石鉱脈の発掘に頼った手段を捨てて硝酸を得ることができる」
言い当てて、ルイスは部屋の壁の向こう、広がる東京の街並みを見透かすような目をしていた。
「この国は、火の国ではなく業火の国となるだろう」
「それこそが、我が羽場家や、暮秋家が恐れたことなのです」
依与は疲労で細くなった声で、何とか説明する。
「元々渡壱藩は何代も科学研究を行ってきた藩であり、その中心的存在が羽場家と暮秋家でした。何代も研究を続け、多くの成果を上げ、そして戊辰の戦の折、羽場家と暮秋家は長く続く家の歴史の中でも最も革新的な成果を生み出した。同時に、彼らは自分たちが生み出してしまったこの新技法、『羽場・暮秋法』を葬ることに決めたのです」
「これほどの技術なら、家の名が世界に永遠に記憶されるだけの称賛を得られるだろうにな」
「両家は、己が名誉よりも他者の命をとることに決めたのです。江戸の世からすでに、征韓論などの対外侵略論が存在したことは、ご存じですか?」
「半島の支配権を主張し、進出を唱えるものだな。維新においても攘夷論と合わさり、勢いを強くした。ついこの間の政変で一応は抑えられた形だが、台湾出兵のこともある。今も燻り続け、何か少しでもきっかけがあれば再燃しかねない、という状況らしいが」
「そもそもこの国は、大昔にも半島を経由して大陸まで手を伸ばそうという時期がありました。結局その侵略も失敗しましたが、失敗の大きな原因の一つは、火薬量の上限でした」
元々、日本の銃砲技術は世界の数世代先を歩んでおり、戦争において技術が持つ力という面では圧倒的なものがあった。
にもかかわらず、日本が版図を海の外に中々拡大できず、結局は江戸の世で鎖国するに至ったのは、火薬が自由に大量生産できない類の物資だったが故である。旧来の方法では糞尿などの腐敗物から時間をかけて少量を得るしかなく、生産量はごく限られていた。いくら高性能な銃が大量にあろうが、弾が無ければ無用の長物であり、弾に込める火薬が無ければ弾もまた役立たずである。
江戸時代の鎖国にはキリスト教を排する目的もあったが、先進的な銃砲技術や火薬技術が、火薬に乏しい日本から無駄に流出し、硝石資源などが豊富な諸外国に渡った場合の危機を避けるためという目的もあった。
もし、火薬資源量というボトルネックが排されたならば、どうなるか。未だに槍や刀剣を掲げて騎馬突撃する海外の軍を前に、ライフルや手銃で遠距離から凄まじい火力を投射できる日本の兵は、どれだけの戦果を上げられるのか。
ともすれば、半島や清どころではない、世界中に支配を広げられるかもしれない。
夥しい血を流し、多くを撃ち殺すことで。
「戦火と殺戮の凄まじいまでの拡大を予期し、防ぐために技術を隠滅することとしたのか。革新的な発見を成しながら、他方で世の悲劇を考える慧眼も持ち合わせているとは」
ルイスとしては珍しいことに、声には称賛の響きが乗っていた。
「当時、渡壱藩は微妙な立ち位置にありました。幕軍と新政府軍の間で、どちらに着くか揺れていたのです。渡壱藩主の赤山家はこの両家の新技術の存在を、両家に潜ませた間者によって知り、両軍のうち勝ったほうへと恭順の意を見せて藩を生き延びさせるための手土産にしようと考えました。内容の詳細こそ知らないものの革新的な技法があるということだけは察知していたのです。赤山家はだから、この技術を隠し、研究成果を一部を残して焼いてしまった両家の勝手な行為に激怒しました。そしてあろうことか、両家の新技術の存在を情報として両軍に流してしまったのです。結果、佐幕勤王両派の軍勢が両家に襲い掛かり、藩内で激突しました。戦闘の中で両家は略奪に遭い、焼かれ、滅びました。跡継ぎも殺され、あるいは火に巻かれて亡くなり、私は両家から最後の一揃いの資料を託され、僅かな手勢と共に逃がされました。それから数年、東京に潜伏していましたが、つい先日とうとう発見され追い詰められ、数人の護衛も失うことになり――奪われた資料をなんとか消し去るためにあなたを頼ったのです」
ここまでの事情をまとめて吐き出すと、依与は横たわる骸を見つめて、何もかもを間違え続けてきたような気分に襲われた。
ルイスはこんな状況ですら出会った時と同じ表情、同じ雰囲気のまま、しばし目を閉じて考えていた。腰に差した刀の鞘が、暗い室内で彼の動きに合わせて小さく揺れている。
「何故君は、資料を残しておいたんだ? 奪われる危険を考えれば、さっさと消しておくべきだとは考えなかったのか?」
「それは……両家が私に託したものですし、おいそれとは消し去れないと……」
「それはそうだろう。だが、渡壱藩から東京に逃げてもすぐに資料を焼かなかった理由は、もう一つあるんじゃないか」
指摘されて、依与は目の前の骸すら一瞬忘れてルイスを見上げる。
「君は巷間の噂を盗み聞きするだけで俺の存在に辿り着いたと言った。正直、まともじゃない。雑踏の無数の声を聞いても普通の人間は欠片も覚えていられないだろう。後でその中から有用な情報を抜き出すなど、普通の人間には不可能だ」
壁から背を離し、ルイスは指摘を続ける。
「あの倉庫を突き止めたのも同じ。まああちらは敵もまた大げさな警備で誘っていた感があるのだから、より容易だったかもしれないが、それでもだ。それから、出会った時に報酬の一例として見せた設計図や、この街の手書きの地図も。あまりに細かいところまで正確に描かれていた。君は報酬として渡せる情報が幾つもあると言ったが、どう保管しているんだ? 最も重要な羽場暮秋法の資料だけでも大ごとだというのに。それに、羽場・暮秋法のような専門的な内容を、跡継ぎですらない女性の君が何故ある程度理解できるのか。専門的な教育は受けていないと言っていたな」
「それは……」
言葉に詰まってしまう。適当に誤魔化せばいい、報酬はどこかに隠してあるだとか――そう思うのだが、疲労と、なによりルイスのよく通る声での指摘が、抗弁する気力を失わせていた。
そして、ルイスが結論を口にする。
「羽場・暮秋法の資料は、まだ消えていないんだろう。なぜならそれは、君の頭の中にあるからだ」
彼は人差し指で自分の側頭を軽く叩いて指し示す。
「異様に良い記憶力。まるで写真か何かのように、見たものをそのまま細かな部分まで憶えてしまえる、特異な能力。そういう記憶力を持つ人間がごく稀に存在するというのを、聞いたことがある。君は、その一人なんじゃないか? 立ち聞き程度で多くの情報を得られる理由。詳細に描かれた銃器の情報や、手書きだというのに正確極まりない地図。全て、君が常人の持ちえない記憶能力を持っているからではないか。科学知識にしても、家が保有していた書や親族の会話から次々に情報を覚え込んだ結果ではないのか。もしそうなら、敵がさっさと資料を移動せずにあの倉庫にあからさまな警備を置いたのは、君を引きつける為だったんじゃないか。敵もまた君の記憶力のことを知っていて、この上ない機密情報である羽場暮秋法を頭の中に持つ君を、何が何でも確保しなければならないと考えている――まかり間違ってどこかに情報として流せば取り返しがつかないからな」
とん、とん、と話を進めながら彼は頭部に当てた指をリズミカルにタップさせていた。
「君は、記憶するために資料をすぐには捨てず、逃げた先の東京に持ち込んだ。細かな部分まで閲覧し、頭の中に写しをとるために」
最早、言い逃れのしようもない。ただただ何もかもを認めて、依与は頷いた。
「その通り、です。昔から、そうでした。見たものは何もかも、そのままの形で頭に残る」
今目にしている悲惨な光景も、事実を突きつけるルイスの姿も、全て。
「だがまだ疑問がある」
タップしていた指が止まる。
「君は最初から羽場・暮秋法の資料を奪還するつもりはなかった。むしろそれを消し去るためにこそ動いていた。だが一方で俺に接触する際、戦力としてだけではなくアメリカへの渡りをつける事をも望んでいた。君は君自身を媒体として、資料の中身を国外に持ち出す気だった。つまり君の依頼には、君が頭の中の知識と共に国外脱出、あるいは亡命することが含まれていた」
彼はしゃがみ込んで、依与と視線の高さを合わせた。
「君は命を懸けてでも、と言っていたな。死を恐れてはいないと。資料を消し去り無尽蔵の火薬で世界が焼かれる未来を回避したいならば、自分自身を消す道もあったはずだ。君の行動は一見、矛盾しているように見える。何故だ?」
ひどい言葉だ、と依与は心の中で考える。死ぬ道だってあっただろう、とは。だが実際、真実だった。覚悟だけで言えば、ある理由さえなければそうすべきだと常に思っていた。
ある理由、つまりは――
「確かに、私はこの記憶と共に消え去るべきなのかもしれません。ただ――ただ、これはさもしいことなのかもしれませんが……あの研究結果を見て……まるで神仏の御業に触れ得たかのような奇跡の顕現を見て、新政府がこれを利用したらという危険と同じくらいに、思ったのです。素晴らしいと。人間が生み出したとは思えぬ奇跡だと。こんなものを完全に消してしまって、本当に良いのかと。命を惜しむよりも強く――惜しいと、思ってしまった」
開陳する。結局の理由はこれだった。目の前の戦乱と平和、兵器と技術革新、国家と政治……何もかもの現実よりも手前に、依与は羽場家と暮秋家が見出した手法のとてつもない輝きを見ていた。人類が世界という混沌に立ち向かい、考え、試し、気の遠くなるほどの手間をかけて少しずつ秘密を解き明かし辿り着いた一握りの知識というものが、依与にとってはどんな物より輝かしく見えたのだった。
人々の命が懸かっている。国際的な戦乱が起こるか否か懸かっている。だというのに、東京に落ち延びる過程で資料の意味を知っていながらそれを消さず、丁寧に一つずつ覚え込んだ。
私は、何なのだろうか。一体全体、何を何の為にしてきたのか。自問が湧き上がる。答えようがない問いが胸の内で膨らみ続ける。
しかして、それにあっさりとルイスは回答してみせた。
「なるほど。君は科学の子というわけだ」
という一言が間近から依与に飛び込んでくる。
同時に、全く見たことのないものが眼前にあった。真顔という二文字ばかりが貼り付いていたはずのルイスの顔に、初めて薄っすらと笑みが浮かんでいたのだった。元々端正な顔立ちだからか、それとも別の理由か、彼の笑みはひたすら柔らかく、どこか嬉しそうで、なんとも見栄えが良いものだった。
残念ながら、すぐに彼は元の表情に、というか元々よりもやや厳しい顔へと表情を変えてしまう。
「だが、そういうことであれば、まだまだ俺たちは荒事の最中にあるということになる。資料が消えた今、技術は君の頭の中に残るのみ。当然、敵は必死でこれを奪おうとする」
やれやれ、といった様子で被りを振って、立ち上がる。
「はじめから、今回の依頼は国家どころか、世界規模の技術を巡るものだった。そんなものに俺は手を出してしまったわけか……」
騙してしまったことについては、謝らねばならない。だが依与が何かを口にする前に、何か鋭い破裂音が立て続けに響いていた。耳を貫き骨を打つような大音声である。
部屋の、道路に接する側の壁が木くずを散らしながら盛大に弾け飛んでいた。たまらずその場に倒れ込みながら、依与は焦げ臭い煙のような香りを吸い込んでいた。
爆薬。薄い家屋の壁と見て、外から破ったのだ、と理解する頃には、木切れが飛び散り大穴の開いた壁の向こうから数人分の人影が素早く室内に飛び込んでいる。
ルイスは爆破で吹き飛ばされずに上手く身を伏せたらしく、素早く立ち上がって応戦しようとしていた。人間離れした反射に依与は目を奪われる。
だが、侵入した敵が彼に向けたのは、手銃や、陸軍で通常使われる遠距離用のライフルなどではなかった。ごつごつとした金属で作られた中程度の長さの銃身と、ライフルとは異なる手銃のようなグリップ。銃身から真っ直ぐ伸びてそのまま肩に垂直に当たるような設計のストックに、機関部の下から突き出た緩やかなカーブを描く大容量のマガジンらしきもの。
どれも、依与の知る銃器ではなかった。
発砲される。銃声が無数に重なって響く。流れ落ちる滝の水音ように、素早く連続した銃声だった。
ぐ、っとルイスが呻きを上げた。飛び退って射線を回避したはずが、従来の銃器にあり得ないほどの連続射撃によって捉えられ、その身を銃火に掠められたらしい。
ルイス、と声を上げようとするが、爆発の衝撃で依与は身を横たえたまま朦朧としていた。ルイスは部屋から別の部屋へと追い込まれながら後退していき、やがて依与の視界から姿を消す。連続した銃声が何度か響き渡り、徐々に距離を遠くして、それから何かが川に投げ込まれるような水音が微かに聞こえた。
依与は無理矢理にでも起き上がろうとして、しかし何者かに襟首を掴まれて地面に倒された。板間に打ち据えられた傷みが意識を走り、そして滲んでいった。