2 奪還
日本は、古くから火の国だった。
千年以上の昔、列島では中世の頃には既に火薬が実用化され、様々な道具が――多くは兵器が――作られ使用されていた。その上、優れた金属加工技術もまた各地で興り、進歩してきた結果、火薬技術と合わさって早々に金属製の精巧な火器が実用化されていった。
こうした技術を、大真面目に神仏の奇跡が成さしめたものだと語る人間もいるのだが、依与には少しその気持ちが分かる気がした。なにせ、十九世紀も終盤に入った現在ですら、諸外国はようやく単純な銃砲を実用化しつつある、といった程度なのだ。この島国では、既に元寇の折には先込式の火縄銃が実用化されていた上、銃身内に螺旋状の溝を刻むライフリング技術の研究すら始まっていたのだというから、段違いも段違い、一足飛びどころか三足四足と飛ばしたような技術進歩のスピードであると言える。
当然、国内の戦乱において火薬を使用した火器は多用され、中世から近世にかけて武力を担う者たち――武士にとっての定番の武装と化した。安土桃山時代以降は彼らが持つ大小と呼ばれる二種の携帯式銃器――手銃と呼ばれる小型銃器と、出臨射と呼ばれるさらに小型のポケットサイズ銃――を腰に下げる事で武士階級は身分を示すようになり、江戸の世では携帯が義務化されたこともあって「武士の魂」とまで呼ばれるようになった。
開国によって海外の文化文明が流入する今、武士階級の解体と共に廃銃令が敷かれるとの噂だが、まだまだ「大小」は日本の民にとってその精神性や文化において大きな意味を持つ。
そういうわけで、夜闇の中、依与の目的の倉庫を守る数人の兵もまた、腰に大小を提げていた。着ているものこそ洋式の軍服のようだったが、二丁の銃を下げる姿は変わらない。
「それなりの手練れに見えるな。立ち振る舞いが、徴兵で昨日今日田舎から出てきたような新兵ではない」
路地の影に隠れて依与と共に様子を窺うルイスが小声で呟く。東京中に張り巡らされた運河の一つに沿って建てられた、まだ新しいレンガ式の建物のうちの一つを、ルイスの言葉通り隙のない動作で警戒している兵士が守っていた。
いずれ東京にも港ができるだろうと巷間には言われているが、まだ最寄りの大規模な港と言えば横浜であり、東京は直接川に入り運河を辿っての物流が盛んだった。こうした倉庫の並ぶ川沿いの景色はあちこちにある。知らねば誰もが素通りするだろう。だが――
「こんな場所をこんな時間に警戒しているということは、君の言う通りあそこに目的のものがあるんだろう。空振りでなくて安心した」
「武装した複数の兵を見て安心と言える図太さはどこから来るのでしょうか」
「勿論、己が才覚からだ。他にあるか?」
ルイスが真顔で言ってのける。外国人は意思表示が強くはっきりしていると聞いたことがあったが、これは少し違うアレかもしれない、と依与は考えて、それから彼の腰に目をやった。そこには、専用のベルトに差された刀がある。米刀、と日本人が呼ぶ、独特な形状の刀剣だった。
日本が火の国だとするならば、アメリカという新興国は荒野に斬撃の吹きすさぶ、アウトローたちの開拓と争いの国、鋼と刃の国というのが依与の認識だった。欧州からやってきた様々な国の移民たちが急速に開拓した広大な大地であり、その広大さと開発の速度のために多くの荒事も内包していた。先住民の虐殺と侵略、南北に分かれての内戦、そして無法の荒野に巣食うアウトローや強盗団たち……即席の町ブームタウンでは保安官が賞金首に睨みを利かせ、カウボーイたちが酒場で騒ぎ、ソーズマンが大通りの真ん中で一対一の決闘を行う。
荒野の開拓と戦いの中で、アメリカ人たちは彼ら独自の刀剣、日本では米刀と呼称される刀を作り上げた。芯鉄と皮鉄と呼ばれる素材の積層、折り返し鍛錬による強化、焼き入れなどの工程を経て、他国には見られない、美しい反りと波紋、そして強靭な粘りと恐ろしいほどの鋭さを持った刃が完成するという。
依与にとっては何もかもが誰かから聞きかじった話でしかない。いや、なかったのだが、今はすぐ傍に実物がある。その実物の持ち主が、依与に問いかける。
「ここをどうやって突き止めた?」
「あなたのことと同じ、噂を追いました。昼の間から歩哨が立っていて、厳重な警備をしている倉庫が一つだけあると。水運関係者が話題にしていました。それに、昨日のうちに何かがこれまた大仰な警備をつけて運び込まれたと」
「どうにも、あからさますぎる気はするな」
どこか不満げに鼻を鳴らし、それからおもむろにルイスは路地から歩み出る。
「何を――」
「ここで隠れていても始まらん。手っ取り早く行こう」
あまりに自然な動作で、つかつかと倉庫へと近づいていく。既に辺りは夜闇の中とはいえ、街灯くらいはある。あっさり軍服姿の男の一人がルイスの姿を認め、すぐさま腰の手銃を抜いた。
さすがにこれは、ルイスにも予想外だったらしい。「なんと」と呑気な声を上げつつ――彼は即座に疾駆していた。
依与の目からは、ほとんど消失としか言いようがないほどの急激な動作である。倉庫を守る兵からしてもそれは同じだったらしく、抜いた銃を向ける間もなく気が付けばルイスに肉薄されていた。そのままルイスは相手の懐に深く踏み込み、腰の刀の鞘の鍔元を掴んで柄頭を相手の腹へと突きこんでいた。横隔膜を下から突き上げられたのか、奇妙な呻きと共にそいつが崩れ落ちる頃には、別の兵たちが事態に気づいて殺到し始めていた。
横合いからルイスに手銃が向けられ、全く警告も無しに発砲される。銃声に依与が身を竦めるが、ルイスは当然の如く既にその場を飛びのいており、同時に先に倒した兵の手からもぎ取った銃を投擲していた。発砲した兵の銃に見事に命中し金属同士が固い衝突音を響かせる間に、またもルイスは冗談のような速度で接近し、今度は足を払うと同時に襟元を掴んで相手を地面に叩き伏せていた。
三人目、四人目と、次々に銃を持った敵が襲い掛かるが、ルイスの動作は全く変わらなかった。ブレもズレもない、ただただ速く、先に動こうが後に動こうが先をとって敵を無力化していく。投げ飛ばし、蹴り抜き、時に腕を搦めて関節を破壊し、銃把を掴んだ指を折る。
瞬く間に十数名もの兵を打ち倒して、ルイスは依与に向かって軽く、こっちにこい、というように手を振った。呆然としていた依与は何秒もそのまま立ち尽くした後で、彼に駆け寄る。
「仮にもただの軍人を打ち倒す、というのはどうかと思って躊躇していたんだがな。羽場家と新政府の間に何があるにせよ、一兵卒は善悪以前のただの職業人だから、と。まさか言葉より先に銃口を向けられるとは思っていなかった」
おかげで迷うことなく全員をのしてしまえたわけだが、と事も無げに嘆息するルイスに依与は言葉もない。優れた剣客、どころではなかった。この男は、刀も抜かずに、手銃で武装した兵士を十人以上相手にして、全員昏倒させたのだ。
「格好からして陸軍の兵だ。しかし、やはりおかしい。あからさまな警備といい、どこか誘い込むようなやり方だ。そもそもこれだけの人間を集めてずっと貼り付かせておく余裕があるなら、さっさと遺産とやらを移動させてしまえばいい気もするが」
顎に指を軽く当てて――どうやらこの男はこうしたポーズを含め、いちいち所作がやたらと優雅で美麗に決まる性質らしい――考えてから、彼は首を振った。
「いや、ともかく、中を確認するのが先だな。あれこれここで考えても仕方がない」
また、依与を置いてさっさと歩いて行ってしまう。慌てて後を追い、依与はルイスと共に倉庫の扉を潜った。搬入用ではない小さな扉は一応鍵がかかっていたが、ルイスが刀の鞘で一撃するとあっさり開いた。
レンガ倉庫の内部は、木造りの家とは異なる匂いに包まれていた。土と石の匂いに、川の傍だからか水場の香りが混じっている。
内部の造りは単純で、勝手口から続く小さな事務所めいた部屋以外は全てががらんとした広い一続きの空間になっている。壁にはガス灯もあったが灯されておらず、代わりに手持ちの石油ランプが火を点けられたままで置き捨てられていた。先にルイスに倒された兵が室内で使っていた物だろう。依与とルイスは事務所に置かれたランプを手に取り、倉庫スペースに足を踏み入れた。
広い倉庫内には、ほとんど物がなかった。燃料の入った容器などの他は建物自体のメンテナンス用具などが僅かにあるくらいで、他には壁際の一角に何かの書物や書付が大量に積まれているだけだった。その紙の山に二人は近づく。
「これが目当てのものか?」
「ええ、そうです」
確認するルイスに、依与はランプで照らされた紙束の群を目にして頷く。見覚えのある資料が多数存在するのが、一目見るだけでも分かった。古い和綴じの本や、紐で簡易的にまとめられただけの紙束、大判の用紙に描かれた無数の図、暗号のような数式めいたなにかが書き連ねられた書に、参考となったらしい和書洋書の数々。
「なんという量だ。手軽に持ち出せる分量ではないぞ」
ルイスが呻いた。実際、資料は一抱えなどという生易しい量ではなく、持ち運ぶならば荷車か何かが必要になりそうな数の紙片や書籍からなっている。
「奪還というからにはもう少しコンパクトなものを想像していた。何故君はこのことを言わなかったんだ? 何か上手く運び出す方法を考えないとどうにもならないぞ」
至極当然の疑問を口にしながら、ルイスは資料の前に膝をついてランプを傍らに置き、いくつかの手書きの書や紙束をめくって内容を検める。依与は思わず止めようとしたが、彼は戦いと同じく異様に素早く行動し、彼女に先んじていた。
「全てが何かの研究のメモや結果を記したものか。確かに所々暗号化されているが――大まかな内容くらいは分かりそうだな。金属触媒を用いた反応がいくつか……メタン、一酸化炭素、二酸化炭素に――こちらは耐圧容器に接続部、何かのプラントの設計のためのアイディアか――いや、待て」
ぶつぶつと呟きながらものすごい勢いで資料を確認するルイスに、依与はほとんど戦慄していた。戦力として、また米国への繋がりを求めて依頼を持ち込んだ相手だが、超絶的な腕前の武芸を見せたかと思えばこれほど専門的な物事の書かれた資料を見て、この短時間で大まかな概要を知ろうとしている。情報要員ともなれば学も必要なのかもしれないが、この男のそれはかなりのものらしい。
予想外だった。だからこそ、依与は当初から考えていた通りの行動を決心した。
「何だこれは――そんなことが、いや、しかし」
「ルイス、ここでゆっくりしていて良いのですか」
声をかけると、彼ははっとして身を起こした。この男としては珍しいことに、端正な顔貌に驚きが浮かんだままだった。資料の内容によほどショックを受けたのか、いくらか視線を彷徨わせ、しかしそれでもやるべきことを見失わずルイスは倉庫の窓から外を窺う。
「そうだな、ここをすぐに離れねばならない。さっきの銃声は目立っただろうし、水路の上流にいくつか小舟も見える。増援かもしれん。陸からも来るだろうな」
「ええ、脱出しなければ」
「問題はこの資料だな。倉庫の敷地には馬もなかった。水路に小舟でも残っていればいいが、あったところで逃走のルートが限定されすぎる」
勘案するルイスを尻目に、依与は懐から小瓶を取り出し、中身を迷わず資料に振りかけた。
「なにを――」
「燃料油です。離れて下さい」
振り向くルイスに構わず、更に依与は倉庫に残された金属の燃料容器――恐らくは灯りのための灯油だろう――を、口を開けて資料の傍らに倒す。
さすがに察したのだろう。ルイスが後ずさる。
一部を消せれば、と思っていたけれど、燃料まであるとは運が良い――そんなことを考えながら、依与は服に隠したマッチを取り出しかけて、止めた。床に置いたランプには既に火が灯っている。なんとも都合がいい。
迷わず、彼女はランプを燃料で濡れた書の群の中に叩きつけた。女の力でも、ガラスでできたカバーは衝突に耐えられずにあっさりと砕け散る。そして当然、その中の灯芯は火が付いたままに燃料に触れた。
湿った川沿いの倉庫内でありながら、風通しは悪くなかったのだろう。あまり湿気てはいなかったらしい書の群が、すぐに炎に包まれる。煙の悪臭を吸い込まないよう袖で口元を抑えて、依与は火に背を向けた。
「逃げましょう。火災がますます人を集めます」
ルイスは依与の言葉に渋面を向け、しかしそれ以上何も言わずに倉庫の出口へと向かう。
一度だけ、彼は炎を振り返った。そこで焼けるものの意味を彼が半ば以上理解していることを、焔の色を映して玄妙な色合いとなった青い瞳を見て、依与は確信していた。