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1 依頼

 戸口を開いた瞬間に視線が集まるのを感じて、依与(いよ)は僅かに顔を顰めた。自らがどのような様子であるかは、つい先ほど近くの建物で偶然ガラス窓に映ったのを見て、仔細まで記憶していた。濃い藍色の男袴に、長い黒髪、白くほっそりとした頬、やや大きめの瞳に、細い手足。

 それだけならば女学生で通るだろう。実際、下級武士の娘とはいえそれなりに家は裕福で、場合によってはこの東京で何がしかの学校に通っている人生もあったのかもしれない。彼女は一瞬そんなことを思い、すぐに振り払う。

(絵空事でしかない)

 今の彼女は、どう見ても学生とは認められないだろう風貌だった。袴のあちこちは擦り切れ、裾や襟元には小さな裂けが目立ち、所々は赤黒い血痕さえ染みついている。髪は乱れ、生来の癖のついた猫毛もあってあちこちでウェーブして跳ねている。肌もまた服装同様にそこかしこに汚れと傷がついていた。

 夕飯時である。一体何事かという雰囲気が数多くの視線と共に彼女を貫いたが、しかし店の人間は店主も客も無関心を決め込むことにしたようで、すぐに皆が顔を背けるのが分かった。

 店は、洋食店を名乗っていた。名乗っているだけで、店構えは江戸の世と変わりない木造の古い外観で、出している食事もまた半分――というか八割ほど――は店主の想像上の西洋食なる創作料理であり、昨今街に僅かずつ開店しているらしい本物の高級な洋食店の影すら踏めない奇怪な店だ。客層も大分怪しい。来年あたり、廃銃令がそろそろ布告されるだろうというこの明治の世にあって、まだ腰に誇らしげな大小を――手銃(てじゅう)出臨射(でりんじゃ)を――提げている浪人まがいの人間までが卓についている。

 依与は店の中をざっと一瞥する。すぐに内部の客全てを見て取り、その中に目当てを見つけて、つかつかと早足に店舗奥の席へと向かった。

「私は羽場依与(はばいよ)。渡壱藩自然科学奉行の羽場家の娘です。あなたに依頼があります」

 声をかけた相手は、席について正体不明の濁ったスープを啜る男だった。食事中に突然名乗りを上げて頼み事まで行う――礼儀も何もあったものではない蛮行だったが、男は気にした様子もなくゆっくり木の匙で冷めた汁と野菜くずを一口飲み下すと、斜めに依与を見上げてみせた。

 男は、依与以上に目立つ容貌をしていた。まずもって依与を捉えたその両の眼が、澄んだ冬空のような青なのである。

「まるでダイムノベルの冒頭のようだな。一体ここはいつから西部のサルーンになったんだ?」

 低く滑らかな声で言って、男は薄暗い室内ですら眩しく輝く麦穂色の髪――日本男児ではほとんど見ない、長めで額の中央で軽く分けたような髪型だった――を揺らして口の端を片方だけ僅かに上げてみせた。頬も額も、手の平も指も、依与の肌よりなお白い。鼻が高く、眉間から鼻先への筋がぴしりと立っている。年の頃は三十台後半といったところか――無論、依与には見慣れぬ異国人であるため正確なところは分かったものではなかったが。

 男の格好は薄暗い室内でもはっきりと見える。隙の無い洋装だ。糊の効いたシャツにベスト、それに上着。足元のブーツだけがやや浮いているが、それよりも目立つのは、すぐ傍に机に立てかけて置かれた一振りの米刀だった。薄っすらと弧を描く黒い鞘と鈍い真鍮のような色をした鍔、複雑に巻かれた菱目状の柄糸――新大陸の荒野で無数のソーズマンが振るう、アメリカ特有の刀剣に思わず一瞬、依与は目を奪われた。

「座ると良い。まず満席になどならない店だ」

 と男が視線で机の向かいの席を指してくる。促されて着席した後で、依与は相手の言葉が驚くほどに流暢な日本語だと認識していた。言葉が通じない可能性も大いに考えていたというのに。

「さて。渡壱藩の羽場家というと、先の戦の最中に新政府側と幕軍との衝突に巻き込まれて屋敷が焼失、一族も絶えたと聞いているが」

 突然に言われて、依与は息をつかえさせた。どこから説明したものかと考える間もなく相手の方から先んじてそんな背景を言い当てられるとは。

「羽場依与といえばかの藩で有名な二大研究家の暮秋(ぼしゅう)家と羽場家のうちの、羽場家の次女だな。まだ十代だったか……」

「数えで十八です」

 反射的に答えながら、ますます依与は困惑する。間近でなど見たこともないアメリカの白人が、日本の中部地方の山間に位置する小さな藩の下級武士の次女まで把握しているとは何事なのか。

「あなたは一体、何者なのですか?」

 思わずそんな問いを発してしまう。男は短く息を吐いて微かに肩をすくめたようだった。

「そう言う君は一体誰だと思って声をかけてきたんだ?」

「腕の立つ、荒事を含むトラブルの解決役を生業としている人間、です。護衛や交渉、仲裁など、様々な物事でこの東京において活躍していると噂に聞きました」

「噂? どうやって集めた?」

「人の多い場所で、何度か雑踏の中に紛れて聞き耳を立てたのです。多くを聞いて、その後で、入ってきた声の内容を一つ一つ精査して知りたいことだけを抜き出す。それで、あなたのことも知りました」

「なるほどそれはずいぶん簡単そうだ」

 どこか呆れ気味に男は言って、青い瞳を僅かに鋭くさせて依与を見やる。暫く観察して、依与はこの男が基本的に笑みを浮かべず、愛想というものを親の腹に置き忘れてきたかのような表情や口調を己が態度の基底状態としていることに気づいていた。男は外国人であるために表情が読みづらいことを前提にしてなお、どこかとっつき辛い印象が強かった。

「確かに、そうしたことは何度かやったな。この辺りに住んで暫く経つ。こういう店にいるとたまにトラブルが持ち込まれるんだ、今の君のようにな。それであれこれ手を貸すことはある」

 それで、と彼は指先で机を軽く叩く。

「君は何を求めて俺などのところに来たんだ?」

「依頼したいのは、二つ。ある物を奪い返す手伝いと、渡米のための便宜を図って欲しいのです」

「渡米、だと?」

「はい。あなたはアメリカに強いコネがあると聞いています」

「ないわけではないがな。それで、奪い返すというのは?」

「我が羽場家が暮秋家と共に残した遺産が、新政府の手の者に不当に奪われてしまったのです。ご存じの通り羽場家は焼け落ち、私の両親も兄弟も、一族は皆死にました。しかし私だけは命からがら渡壱藩を逃れ、この東京に落ち延びて隠れ住んでいたのです。こちらには家に所縁のある人間もいましたから」

「だがその存在が知られ、持っていた遺産とやらを奪われたと?」

「あなたはアメリカにいた頃、極めて優れた剣客だったと噂されています。新大陸の開拓地で多くの戦いを経験し、その活躍は現地で語り草になっているのだと。それに、従軍経験もあるのだとか」

「剣客、か。この国だとそういう風に表現するわけだな。実体はもう少し荒っぽい、ただのソーズマン(swordsman)だが」

 言って、男は目を細める。

「新政府相手に、彼らに焼かれた家の娘に与力して遺産の奪取を行う、ということか。そんな、端から見ればテロリストのような依頼を受けるとでも?」

「私は別に武力で体制転覆を目論む輩ではありません。それを証明するものもありませんが。代わりに、価値ある報酬なら用意できます」

 言って、依与は懐から数枚の紙を取り出す。丁寧にたたまれたそれらを広げると、中にはまだまだ珍しいインクとペンで描かれた精密な線画のようなものが数字や説明書きと共に記されていた。

「これは――新式の『太平造』、手銃の新モデルの設計か?」

「はい。旧江戸モデルではなく、今現在陸軍省が採用している形式のものです。我が羽場家はこうした開発にも手を貸していました。家が滅ぶ際、多くのこのような兵器情報を持ち出しました。私に協力してくだされば、まとめてお渡しいたします」

 一息に言う依与に、男は軽く首を振った。

「見る限り適当な代物ではなさそうだが、この手の情報を欲しがるのは政治家や兵器会社だろう。安い飯所でたむろする一人のアメリカ人には扱いにくい情報だ」

「欲しがる相手というならば、もう一つ上げられます。政治家や企業――故国のそうした人々の思惑を汲んで、他国で諜報活動に従事する情報要員です」

 それまで余裕をもって微量の皮肉っぽさだけを滲ませた無表情を貫いていた男が、この指摘には身を固くして、明らかに驚きを態度として表出していた。

「いつ頃どこの港でどういう人間が現れたのか。どこの町でどういう出来事に誰がどんな関わり方をしたのか。一人一人の情報は僅かでも、多くの声を覚えておけば意外なところが繋がり、隠れた事実が見えてくることがあります」

 東京の町を歩く度に、この数年間、自身の身を守るため情報を求め人々の会話をとにかく聞き集めてきた。軍人や警官もその中に多く含まれる。そこで、男がどうやらアメリカのそういった筋の人間ではないかと疑われていることを知った――そこまで説明しようとしていたのだが、男は先に奇妙に納得したような表情で呟く。

「……ふむ、聞き耳というのも案外馬鹿にならないものだな。最もここまでいくと、人間業とも思えないが」

「ご自身が実際に『そう』だと認めるのですか?」

「別に困るものでもないしな。君がどこかに駆け込んだところでどうにでもなる。そうだな、あれこれのトラブルに関わったのも、そういう立場が理由となってのことでもある。羽場家についての知識も、仕事上把握したものだ」

 しかし、と男は続けた。

「君は無茶苦茶だな。『恐らく』荒事に長けた何でも屋のような存在がいると知り、『恐らく』その相手は米国の怪しい身分の人間であり『恐らく』美味しい機密情報を餌にすれば協力を得られると踏んで、『恐らく』新政府の人間相手でも戦ってくれるだろうと考えたわけだ。その上、国外脱出を考えて何とか渡米しようと俺に繋ぎを頼むつもりであったと。一体全体、奇跡が幾つ重なることを期待してここに来たんだ?」

「もし上手く行かねば、何か他の方法を考えて行動し続けるまでです。遺産の存在は、私にとって命よりも重いのです。奪い返す他に、道はありません。命懸けで取り返さねばならない。その上でもし生き延びるなら、この国に居続けることもできない事情があります」

 試せることは全て試すだけ。無理矢理言い切ると、しばし黙り込んでから彼はふっと小さく掠れた吐息と共に、頬をピクリとさせた。もしかすれば苦笑したのかもしれない。何かを見透かされたようで、依与は内心で小さく心が怯えそうになるのを自覚していた。

「それで? 奪われた遺産とやらは、どういうもので、どこにあるのか分かっているのか?」

「はい。暮秋家と羽場家で書かれた書物なのですが、今は運河沿いの倉庫の一つに運び込まれています」

 依与は今度は東京の一部の地図を描いた紙を取り出して広げた。この場所に駆け込む前にざっと描いたものだったが、細かな通りまで精密かつ正確に描かれている。以前見た最新の地図の記憶を参考にしたものだった。

「昨日、突如潜伏していた家を襲われ、奪われた後で、ここの倉庫に持ち込まれました。そこまでを突き止めたのが今日の昼。そのまま何とか逃げ延びて、噂を頼りにここに来たのです」

「そのワイルドな身なりの理由が分かって良かったよ」

「遺産の書は暗号を交えて記されたもので、ぱっと見ですぐに価値が分かるものではありませんが、新政府はそれでも重要な情報があると見ているようです。私にとっては、これを持ち去られることも、写しを取られることも防がねばならない書です」

「内容は? 暮秋家や羽場家というと、特に化学や、機械設計でも有名だったか。新しい薬品や兵器の設計でもあるのか? 新政府はそうしたものを求めて先には暮秋家や羽場家を襲って焼き、今は君から遺産を奪ったと?」

「そんなところです。家は逃げ延びる私にそれを託したのです。誰かに奪われるわけにも、易々と渡すわけにもいきません」

 ふん、と男はしばし地図を眺めてから、「この描きは一芸として売り物になるな」などと呟き、それから顔を上げた。

「いいだろう。条件として、もしこの件でひどく社会や、無辜の人民に仇なすようなことになりそうなら、俺はすぐにでも降りる。それでよければ、手を貸そう」

「協力してくれるのですか?」

 驚きと共に依与もまた顔を上げた。視線がかち合うと、男は硬い表情をそのままに首肯した。

「ああ。渡米云々はとりあえず置いておくとして、遺産の奪還に関しては手伝ってもいい。こちらとしても少し気になるところだ」

 何はともあれ、協力を得られそうである――その事実に、ギリギリの緊張感が少しだけ緩み、むしろどっと疲れたような気分に襲われる。だが顔には出さないようにして、依与は咳払いして誤魔化した。

「一つ問題があります。場合によっては軍や警官を相手にせねばなりません。羽場家が滅んで以来、この東京で私に協力してくれた護衛の者は武芸に通じていましたが……昨日、奪われた遺産の行先を調べる中で交戦し、命を落としました。相手は個人ではなく組織で、しかも容赦はしないでしょう。あなたも極度の危険に見舞われるかもしれませんが、私には他に荒事の協力者の当てがない」

 無茶な話だ、と言いながら依与自身が自覚していた。たった一人雇って、国家の武力に反抗するかもしれぬ、などとは。

 しかし、男は依与のそんな弱気を感じ取ったのだろうか、むしろ自信満々といった様子で、傍らの刀を手に取り、立ち上がる。そうして頭上から、これまで依与が人生で聞いたこともないほどの自尊心に溢れた声が降ってくる。

「それに関しては、そうだな、一つ教えておいてやろう。君は私が武芸に優れていると考えて協力を求めたようだが――私は、私が君の考え以上に優秀だと知っている」

 完全無欠に真顔のままでそんな言葉を吐く様に、この人間は大丈夫だろうか、とまた別種の不安が兆したが、既に遅い。事は始まり、夜は更けはじめていた。彼はそんな依与に構わず、刀を腰に差しながら、

「そういえば名乗っていなかったな。俺はルイス。元荒野のソーズマンにして、元北軍兵士、元保安官助手、そして今となっては社会の敵だ」

 と自己紹介したのだった。


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