あと一つ、あと一つ
ママは相変わらずボソボソと話している。
周りからは大勢の声が聞こえてくる。
今すぐ逃げ出したいが、体が動かない。まるで自分が椅子と一体化したようにその場から腰を浮かすことすらできない。
Aは寒いのに歯を鳴らしながら冷や汗をびっしょりかいていた。
意に反して八話目が終わり九話目が始まる。
ボソボソと語るママの話が断片的に聞こえてきた。
「あと一つ……もう少し……待ってて……あと一つ」
Aは震えあがった。ママは誰に対して「待ってて」と言っているのか?
その間にもエレベーターの扉が開く音が何度も聞こえる。
Aの番になり、勝手に口が動いて語り出す。
もはや自分が話している気がしなかった。
遂に十話目。
うなだれたママの口から発せられる言葉が鮮明に聞こえる。
「次で終わり。次で終わり。もうすぐ出てくる」
「何言ってんのさ?ママ…出てくるって何が?」
ママの言葉がピタッと止んだ。
そして酒を飲み干すと「次の話」とAを促す。
Aは最後の話を話すまいと必死に口をつぐんだそうだ。
「次の話。早く」
ママが言うと、周りからも「早く」「早く」と急かす声が聞こえてきた。
誰もいないはずなのに、まるで駅の構内にいるかのように大勢の声が聞こえてきた。
「止めよう!」
Aは気力を振り絞って叫んだ。
すると押し潰されそうな圧と大勢の声がピタッと消えた。
目の前にはきょとんとした顔をしたママがいる。
「あれ?」
ママが言うにはAが途中でふいに寝てしまったということだった。
「ごめん、どのくらい寝てたの?」
「10分くらいかな。なんかうなされてたけど怖い夢でも見た?」
そうか。あれは夢だったんだと思ったAは「水流し」を始めてから自分の身に起こったことを話した。