第8話 君を知っていると言った、その声が
「アオイ……って、誰?」
目覚めた瞬間に口をついたその名前は、私の記憶には存在していなかった。
けれど、夢の中では確かに――
誰かの手を強く握って、何度も何度もその名を呼んでいた。
胸の奥がずっと、ざわついている。
まるで何かが“そこ”にあるのに、取り出せないような感覚。
「……ちひろ?」
不意に部屋の扉がノックされて、エルネストが顔を覗かせた。
「すまない、顔色が優れなかったので。昨夜の疲れが出たか?」
「ううん、平気。ちょっと夢見が悪かっただけ」
彼は私をじっと見て、小さく息をついた。
「君は、何か隠していないか?」
「……え?」
「昨夜から、何度も名を呼んでいた。“アオイ”と」
その言葉に、心臓が跳ねた。
「え、それ……私、寝言で……?」
「悪いと思ったが、魔瘴の影響かもしれないと、気にしていた」
私はふるふると首を振る。
「その名前、まったく覚えてない。でも、夢の中で私は――すごく大事な人を呼んでる気がした」
彼の顔に、一瞬だけ見えた不安の色。
それは、まるで“知られたくない過去”に近づいている誰かを見たような、微かな陰りだった。
◇ ◇ ◇
その日の午後。
王都から緊急の伝令が届いた。
「何者かが王城の外郭で“聖女”の名を語って暴れているとの報せです!」
「聖女の……名?」
私が戸惑っていると、伝令の騎士は続けた。
「名乗ったのは、“シズク=アオイ”と名乗る女性です!」
――その瞬間、私の意識が、真っ白になった。
アオイ。
あの夢の名前が、現実に。
「……会わせてほしい」
「ちひろ、それは危険だ。偽者かもしれない」
「でも、もし本当に“知ってる人”なら……私は、向き合いたい」
エルネストがわずかに口を開きかけ、そして――沈黙した。
その沈黙が、私には少し、苦しかった。
◇ ◇ ◇
王城の離宮。
衛兵に囲まれていた少女は、見た目こそ異国風だったが、年は私と近い。
「あなたが、“ちひろ”……?」
声は、震えていた。
「わたし……わたし、覚えてる。あなたが誰なのか」
私は無意識に、一歩踏み出していた。
「私、知らないの。何も覚えてない。でも、あなたの声が……夢の中と、同じだった」
その瞬間、少女――シズクの目に、涙が溢れた。
「あなたは、私の親友だった。私たち、一緒に“ここに来た”んだよ……!」
“私たち”?
“ここに来た”……?
「待って……異世界に来たのって、私“だけ”じゃなかったの……?」
脳が混乱する。
言葉も感情も、追いつかない。
だけど、心のどこかが確かに震えていた。
その震えは、“真実”に手が届きかけている感覚だった。
◇ ◇ ◇
部屋に戻ったあと、私は、ひとりベッドに腰を下ろした。
そこへ――エルネストが、静かに入ってきた。
「……彼女に会ったのか」
「うん。何も思い出せなかった。でも、彼女の涙を見て……ウソではないと思った」
彼は、しばらく何も言わなかった。
ただ、静かに私を見ていた。
「君が何者で、どこから来たのか。……俺は、知っていた方がいいのか?」
その問いは、まるで“自分自身の存在意義”を問うように聞こえた。
「……私は、私が何者でも、あなたのそばにいたいと思ってる」
正直な気持ちだった。
「でも……私の過去が、“あなたの敵”になるなら……」
「やめろ」
エルネストが一歩、近づく。
強い瞳で、まっすぐ私を見る。
「君が誰でも関係ない。いまここにいて、俺と共にある。……それが、すべてだ」
その言葉に、私は――何も言えなかった。
ただ、胸の奥が、どうしようもなく熱くなった。
けれどその夜、私はもう一度、夢を見た。
今度は、もっと鮮明に。
赤い空。
黒い塔。
そして、私の手を掴んで泣いている、“彼”。
「ちひろ……お願い、戻ってきて……!」
その声は、エルネストのものではなかった。
――でも、どこかで聞いたことがある。
この世界に来る“前”の、私を呼ぶ声。
それは、まだ明かされていない“本当の物語”の扉だった。