第4話 笑ったあなたを、まだ知らない
それは、風の強い午後だった。
「……あのっ、これって、どうやって読むんですか?」
書庫の隅っこで、私は古文書と格闘していた。
異世界の文字は、魔導の力が介在しているらしく、読み手の魔力に応じて“意訳”されるらしいんだけど――
それ、私にはハードルが高すぎる。
「む……この表記は古語だ。通常の書に比べて解釈が難しい」
不意に現れたのは、またしても彼――エルネストだった。
「え、なんでここに?」
「気になった。君の様子が」
「……え、ええと、それってつまり、私のこと“心配して”……?」
「“契約者”の状態が不安定になれば、俺の命にも関わる。合理的判断だ」
ですよね~~~。
でも、言い訳が回りくどいあたり、もしかして少し照れてるんじゃないかと邪推してしまうのは、きっと私だけじゃないはず。
「この部分は“聖女の調和”についてだ。君の力は、感情の波に呼応して変化するらしい」
「感情、ですか……?」
「喜び、怒り、恐れ――そして、恋」
「……こ、恋!?」
なんでそこで急に“恋”って言葉、出してくるの!?
その単語だけ妙にハッキリ発音するから心臓が持たない!
私が固まっていると、エルネストはふと、淡く笑った。
「……おかしいな。君の反応が新鮮すぎて、思わず」
え? え???
い、いま、いま――笑った……?
「ねぇ、それ、今の、笑いましたよね!?」
「……少しだけ、かもな」
「うわああ、初めて見た! レア表情! まじレベル5の奇跡!」
私が思わずテンション上がって騒ぐと、エルネストは咳払いひとつ。
「静かに。ここは王室の書庫だ」
「いやでも、あなたが笑うのレアすぎて……!」
「……そうか?」
「はいっ! もう一回、お願いできませんか?」
「……それは無理だ」
それでも、彼の瞳が少しだけ柔らかくなっていたのを、私は見逃さなかった。
こんなふうに、一緒に過ごして、たわいもない会話をして。
きっと、この人にも“普通”の時間が必要なんだと思った。
◇ ◇ ◇
夜。
エルネストは謁見を終え、遅くに部屋へ戻ってきた。
「……何かあったんですか?」
「……少し、面倒な話が舞い込んできた」
彼の声がわずかに低い。
いつもの冷静なトーンではあるけれど、何か引っかかる。
「“王都の南部で魔瘴が濃くなっている”という報せだ。通常の巡回では対処しきれない規模かもしれない」
魔瘴――それはこの世界の“災厄”と呼ばれる現象。
人を狂わせ、大地を枯らし、時に魔物を呼び寄せる。
「……それって、“聖女”の力が必要なやつですよね?」
彼はうなずいた。
「だが君にはまだ負担が大きい。無理をさせるわけにはいかない」
そう言いながらも、彼の目は、どこか迷っていた。
「私、できることがあるなら、やります」
思わず口にしたその言葉は、思ったよりずっと強く響いた。
「あなたの命も繋がってるんでしょう? だったら、私だって他人事じゃないです」
エルネストは、しばし沈黙し、それからゆっくりと私の頭に手を置いた。
「……ありがとう。君は、思っていた以上に強い」
「いやいや、めちゃくちゃビビってますよ……!」
「それでも、前に進もうとするのは、本当の強さだ」
その言葉が、そっと胸に染みた。
彼の手の温もりも、予想よりずっと優しかった。
そして私は、まだ知らない。
その“魔瘴”の影に、私の力を狙う存在が潜んでいることを――