第3話 距離ゼロの共同生活、始まりました
契約の儀から一夜明けた朝。
私はまだ、自分が“王太子妃”になったなんて信じられないまま、ふかふかのベッドから体を起こした。
「おはようございます、聖女様。……いえ、妃殿下とお呼びすべきでしょうか?」
「ちょっ、待って。まだその呼び方に慣れてません……!」
侍女のクラリスさんがくすっと笑いながら、ティーセットを置く。
ふと部屋を見渡すと、昨日までは“来賓用”だった部屋の装飾が、微妙に変わっていた。
ドレッサーが増えていたり、クローゼットの中には何着ものドレスや下着が……。
──ああ、ほんとに「ここの人」になっちゃったんだ、私。
「殿下はすでに執務室にいらっしゃいますが、朝食はお二人でとのことでしたので、お迎えが来るかと」
「え、二人で……!? 朝ごはん!?」
そういうのって、新婚夫婦がやるやつじゃないの!?
◇ ◇ ◇
「……何をそんなに緊張している?」
言われなくても、めちゃくちゃ緊張してます。
だって目の前にいるのは、契約したばかりの“夫”であり、王太子であり、感情が読めなすぎる氷の男・エルネスト。
朝食は長いテーブルの端と端。
まさに「貴族スタイル」の距離感だったけど、それでも私はドキドキが止まらない。
「い、いただきます……」
「いただこう」
静かに食事が始まる。
焼きたてのパン、ハーブ入りのスープ、果物のジュレ──全部美味しいのに、味が頭に入ってこない。
「……眠れなかったのか?」
ふと、エルネストが尋ねた。
「……うん。ちょっと、まだ実感がわかないというか」
「君にとっては非現実の連続だろう。だが、この世界では、君の存在は“希望”だ」
彼の言葉は、まっすぐだった。
口調はいつも通り冷静なのに、どこかほんの少しだけ、気遣いのようなものが混じっていた。
「……昨日の夜、少し話せてよかった。あんなふうに話したの、初めてだったから」
私がぽつりとつぶやくと、エルネストの手がわずかに止まった。
「……俺も、だ」
「えっ?」
「君と話すのは、妙に……楽だった」
……やめて、その一言、いろんな意味で効くんですけど……!
◇ ◇ ◇
その日の午後、私は王城内にある「聖女の書庫」へと案内された。
ここには、歴代の聖女や魔法に関する記録が保管されているらしい。
エルネストは仕事で執務室に戻ったけど、「ここなら落ち着くだろう」と言って、専属の案内人までつけてくれた。
「妃殿下、こちらが“魂の契約”に関する記録です」
書庫の奥。
そこには、古びた一冊の魔導書があった。
《契約とは、魂の結びであり、運命の共有である。 だが心が繋がらぬ契約は、力を歪ませる──》
……え?
ページをめくる手が止まる。
《契約相手の心が閉ざされたままでは、“聖女の力”は暴走する危険がある》
……って、えっ……それ、すごく……不穏なんですけど……!?
◇ ◇ ◇
夜。
夕食のあと、私たちは王城の中庭を散歩していた。
月明かりに照らされた石畳を、並んで歩く。ほんの少しだけ、彼との距離が縮まった気がした。
でも、あの魔導書のことが頭から離れない。
「ねえ、エルネスト。魂の契約って、心も繋がってないと危ないんだって……」
私が口にすると、彼の足が一瞬止まった。
「……その記述を見たのか」
「うん。でも、まだあなたのこと、何も知らないし……私、ちゃんと聖女として機能できるのかなって」
すると彼は、ゆっくりと私のほうを向いて言った。
「……なら、少しずつ知っていけばいい。互いに」
「……え?」
「君の心を、俺に見せてほしい。そして……俺の心も、君に」
──その言葉は、まるで“冷たい氷”が少しずつ溶けていくような、そんな音がした気がした。
ほんの少し、彼が笑ったように見えたのは──きっと、私の見間違いじゃない。