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EP9 リカの場合

リカさんの住むマンションは僕の寮と同じ市内にあった。24歳の若い女性にぴったりの新しくてお洒落な造りだった。周りの建物と比べてもより高い。外壁には塗りたての薄いグレーの塗装が施され、窓も大きく、見栄えがいい。玄関にはセキュリティーのシステムが十分に施されていて、外部の人間が容易に入れないようになっている。ここならリカさんのご両親も安心するだろう。




豪華な外見とは裏腹に、リカさんの部屋はとても簡素で質素だった。何もない部屋、もしくは明日高飛びする人の部屋と友達からは揶揄されていた。そこにはぬいぐるみもポスターもない、テレビすらなかった。洋服ダンスも備え付けの最小のもので、これで一年を通して服が足りるのか?と僕の方が心配になった。床はフローリングでほこりを取るためのクイックルワイパーが置いてある。掃除機もない。パソコンとプリンターを置く机と椅子が目立つ。なぜこんなにも物がないのか?と皆疑問に思っていたが、リカさんが超有名大学を出ているエリートだと皆知っているので、突っ込んで聞く人は僕の知っている限りいなかった。きっと凡人には理解できない理屈がそこにあるのだろう。床に高く積まれた本が肩身が狭そうに佇んでいる。




実はリカさんのお部屋にお邪魔するのは初めてではない。過去に2回ある。でもそれは2人きりとかではなく、リカさんのお友達(男女関係なく)と一緒で、最初の時は鍋パーティーをした。次はたこ焼きパーティーだった。リカさんは料理がとても上手で、しかも誰かに振る舞うことが大好きだった。僕は誰か他の人も呼びましょうと勧めてみたが、リカさんは今日は2人きりがいいと譲らなかった。


『おぬし程度が手込めにできるほどの小さな器ではないわ!』


と、リカさんはお殿様風に鼻で笑って言った。自分でも分かっていることだが、男として見られていない。きっと僕に生殖器がついているなんて微塵にも思ってないだろう。少し癪に触るが、リカさんが連れてくる男友達(少なくともリカさん側の意見として)と自分を比べても魅力がないことは一目瞭然である。例えば何度かお会いしたことのある土井さんは20代後半で外資系に勤めている人で、いわゆる3高を地で行く人だ。いつも良い服を着ていて肌は黒く、歯は白い。他には一度だけしかお会いしていないが、豊さんという人は30代で市内でお医者さんをしている。僕みたいな鈍感な男でも両者が共にリカさんに気があるのがわかる。僕個人はリカさんのような素敵な女性には土井さんみたいな人に彼氏になって欲しいと思っている。リカさんが幸せになってくれたらどんなに嬉しいだろう。




リカさんは台所で器用に手羽に包丁を入れていた。手羽元と手羽先を切り分ける。切り込みを入れ、味が染み込みやすいようにする。大根は今日は煮込む時間がないので薄く切るわね、そういうと材料や出汁をどんどん鍋に入れ、落とし蓋をして煮込み始めた。僕の住んでいる寮には食堂があり、自炊施設はほぼないので、僕は料理ができない。やったこともなく、知識もない。僕には見ているだけだった。15分ほど鶏と大根を煮た後に火を止め、あらかじめ洗米して吸水が終わったお米を炊飯器にかけた。


『煮物はね、温度が下がる時に味が中に染み込むの。だからね、炊き立ては美味しくないの。温度を下げて味を中に染み込ませ、食べたい時に温め直すのがコツよ。お米が炊けて蒸らし上がる頃合いにまた火にかけるわね。』


リカさんはそう言ってお話でもしましょうと床に座った。




『世界一美味いであろう、今夜の食事を作った”わらわ”の肩を揉んで下んせ。』


リカさんはそう言って肩を指差す。僕の顔は引き攣った。いくらなんでもひどすぎる。体に触れさせるのは反則だ。僕はミジンコ以下の存在なのだろうか?ぶつぶつ言いながら仕方なく肩を揉んだ。リカさんから僕の体に触れられたことはあるが、僕からリカさんの体を触るのは初めてだった。胸がドキドキしたが、同時に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。なぜなら僕の手は毎日の機械仕事で爪の間に黒いオイルが入って取れない。リカさんに一番見せたくないのが手であり、指先だった。その手でリカさんの肩を揉むのは気が引けた。もっといい人がいるだろうにと思い聞いてみた。


『土井さんや豊さんにやってもらった方が良いですよ、とくに豊さんはお医者さんで詳しそうじゃないですか?』


『私はね、あなたにやってもらいたいの。あなたの手が好きなのよ。とても大きい手。』


リカさんは目を瞑りながら、あーそこそこ、とか、もっと上とか、細かく指示を出してくる。


『手が滑っておっぱい触っちゃいました!とか、寒いことすんじゃねーぞ!』


リカさんが突然ニヤニヤしながら少し大きな声で僕に言う。この人のあり得ない思考回路に戸惑う。本当に何を考えているか分からない。


『無いものは触りようが無いです、姫様。』


『切腹!!』


炊飯器がアラームを鳴らす。お米の炊き上がりを知らせる。リカさんは膝を立て、キッチンに向かったと思いきや、急に振り返り僕の頭を縦にひっぱたいた。


「次にわらわの胸を貶す者、食うべからずじゃ。」


「堪忍しておくんなまし、お姫様」


「100円じゃ、100円用意してたもんせ」


僕は慌てて財布の中を確認した。100円玉がなく、500円玉しかなかった。リカさんがニヤリとする。お釣りを僕に渡す気はないのだろう。




とても美味しくてとても楽しい食事が終わった後、2人で並んで後片付けをした。僕が皿を洗い、彼女が拭き取る。これだけの作業がとても愛おしく、いつまでも続けば良いのにと思う。


明日は早番なので、もう帰りますと告げると、リカさんはもう少し一緒にいたい、コーヒーでも飲もう。聞いてもらいたいことがあると言う。


『以前あなたに言ったわよね、過去に何があったのかは分からないけれど、あなたは普通の19歳じゃ無いって。』


リカさんはピッタリと体を寄せる。その美しい眼を僕に近づける。絶対に視線をずらさない。今日は一段と顔が近い。苦しい、息がリカさんに当たるのが嫌で呼吸を止めてしまうからだ。


『覚えています。心外でした。』


僕が精一杯返すと


『真面目に聞いているのよ、真剣に聞いて。私の目を見なさい。視線を外さないで。』


言われた通りリカさんと視線を合わせた。とても美しい人だと改めて思った。リカさんはさらに僕に近づき、その両手を僕の肩口に置いた。私には弟がいたのと言う。過去形だった。


『私の祖父はね、関東では指折りの資産家なの。たくさんの会社を経営していているわ、今も現役でね。祖父には男の子ができなくて、子供は私の母だけだったの。そう、つまり私の父は養子っていうわけ。祖父の会社に勤めていた父を祖父が見初めて母と結婚させた。そして私と弟ができたの。弟は私の5歳年下でとてもかわいかったわ。』


肩口に置かれていた彼女の両腕はいつのまにか僕の首を周っていた、彼女は顔を僕の胸に埋める。髪の毛が鼻をくすぐる。


『祖父は父を孫を作る道具としか見ていなかった。結婚してからも父をコントロールしようとしていた。父は貧乏な出ではあったが、苦学して東京の国立大学を出た苦労人だった。父は一生懸命働いて祖父に尽くしたが、祖父は父を認めなかったし、時に父を罵倒した。お前は言われた通りにしとけばいいんだと。弟ができたときに祖父は大喜びした。跡取りができたと喜んだ。同時に父をさらに蔑ろにしはじめた。』


そこまで喋るとリカさんは大きく息を吸い込んで黙った。静かな時間が流れる。首に回った腕に力が入った。とても強く抱きしめられている。


『祖父と父の関係は悪かったけれど、私たちの家族はとてもうまくいっていたの。弟が12歳になるまでは。』


リカさんは嗚咽し始めた。僕の胸が彼女の涙と吐息で熱くなった。震える声でリカさんは続けた。




『ある日弟が自殺したの。原因は父による強姦だった。』







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