EP5 大阪 二ヶ月後
箕面公園へはバイクで1時間かかった。
休みの日曜日は特に予定がなければ箕面公園を1日中探索して回ったり、ただただ座って物思いに耽っていた。なぜ箕面公園だったのかは説明ができない。他にも良い公園が近くにあったはずだが、いつも足が向かうのはこの公園だった。バイクで往復2時間かかったのも良かったのかもしれない。近すぎず、遠すぎずだった。バイクに乗ることはストレスの発散になったし、普段話し相手のいないに僕にとっては、バイクとの対話は大切な時間の使い方であった。一番好きだったのは箕面滝という日本滝百選にも選ばれている滝の近くでコンビニで買ったおにぎりを頬張ることであり、猿を眺めながら読書することだった。この時期僕は19歳だったが、大阪の繁華街に出て買い物をしたり、友人を作って遊びに行くということはしなかった。性格上できなかったといっても良いかもしれない。1人でいる方が圧倒的に楽だったし、箕面公園の滝の前で辻仁成や村上龍の小説と向き合う方が圧倒的に楽しかった。
観光客のあしらい方に慣れた母親猿が子猿をその背に担いで器用に木をよじ登っているのが見えた。歩き方がすこし乱暴かもしれない。子猿は振り落とされまいとしがみ付いている。その必死の形相が面白くていつまでも見ていて飽きない。母親が急に振り返り、僕と目を合わせ威嚇する。僕は慌てて目線を遠くに逸らしてから本に移す。敵意がないことを相手にみせる。どうか襲ってきませんように。しばらくして恐る恐る目線を上げるとそこにその親子はいなかった。すこし残念ではあったが、本に再び集中した。
2時間もそこにいただろうか、辺りが暗くなり始めたので帰ることにした。夕方や夜の大阪での運転はいつまでも慣れなかった。遊歩道を下りる人の列に並び、道を下っていくと、駐車場に近づいたところで1人の女性に話しかけられた。
『ちょっとすみません、あのバイクの持ち主さんですか?』
僕よりも少し歳上みたいだ。よく見ると僕のバイクの隣に全く同じバイクが止めてある。カラーで年式が違うと分かるが同じヤマハのバイクだった。
『そうです、 僕と同じバイクですね。お困りですか?』
『ああ、良かった。髪の毛にヘルメットの跡らしきものがついているから、もしやと思って。勇気を出して話しかけて良かった。実はエンジンが掛からないんです。さっきから100回はキックしたかしら。』
そう言ってウンザリした顔で腰と足を摩りながら彼女は言った。
『よくありますよね。僕もしょっちゅうです。最後にキックしたのはいつですか?』
僕たちのバイクはヤマハ製でクラシックな外見とシンプルなメカニズムが売りのバイクだった。最新式のバイクに比べたら作りが単純なので、整備などで素人が手を出す余地はあるが、始動のためのセルモーターすらついていない、いささか旧式すぎるバイクだった。最後にキックをしたのは3分くらい前だったみたいなので、あと10分くらい触らずに放置して再度チャレンジしてみましょうと言った。エンジンはほんのり暖かかったので、冷え切る前に再始動させたかった。放置している間にプラグやガソリンの有無など、調べれられるものは調べてみた。僕に発見できる異常はなかった。
『大阪ナンバーじゃないから、地元の人じゃないんですよね?訛りもないし。』
橘リカと名乗った女性は腰まである長い髪の毛を触りながらそう聞いてきた。自身も出身は関東で大阪へは就職のために来たのだそうだ。フルフェイスのヘルメットを被るためだろうか化粧も薄く、ピアスなどもしていなかった。完璧な標準語でこちらが怯んでしまうが、コンビニで鍛えたエセ標準語でこちらも返した。
『瀬戸内の生まれです。大阪にある月神自動車工場の期間工で来ています。あとどれくらいいるかわからないけれど。寮に住んでいてここから1時間くらいですね。』
『期間工?こんなに若いのに?』
聞き飽きた質問を頂いたが、ここも丁寧に返した。理由があってお金を貯めるためだと説明した。尋ねられて人助けをし、その上嫌われたらいくら僕でも立ち直るのに2日はかかる(笑)。10分経ったのでキックをしてみた。3回目で”プスん”と反応し、4回目でエンジンが元気よく回った。エンストしないようにすこしアクセルを開け気味に回し、エンジンがしっかりと熱を保つまで待った。
『ありがとう。助かりました。私の住まいはあなたの寮と同じ街だから一緒に帰りましょうね。途中の道の駅でコーヒーでもお礼に奢らせてね。』
リカさんの先導で帰路についた。彼女のライディングはいささか攻撃的で乱暴であったので、おっとり型の模範ライダーの僕は遅れまいと必死にバイクを操作した。公園から僕たちの住む街への道は緑が多く、適度なカーブもあって昼の運転は楽しいが、この時間(夕方)にもなると慣れていない人にはいささか骨のある作業だった。途中の道の駅で降りてから開口一番リカさんに少しペースを落としてくれと懇願した。自分がいかにヘタレであるかを強く主張した。
『みんなに言われるわ(笑)。もっとペースを落とせって。ごめんなさいね。わたしジキルとハイドみたいに変わってしまうのかしら?でも正直ね。女とツーリングすると男の人ってカッコつけてスピードを出しすぎる人の方が多いから。以前一緒にツーリングした男性はスリップしてバイクは大破、彼自身は救急車で運ばれていったわ。全治2ヶ月だったかしら?』
薄暗かったさっきとは違ってしっかりと夜になって暗くなっていた。明るい自販機と街灯の灯りの下で見るリカさんは最初の印象と違って見えた。とても綺麗な人だった。
『僕は今死ぬのは嫌なんです。』
僕は顔を赤らめながら、悟られまいと必死に無表情を繕い、少しでも大きく見せようと胸を張った。はっきり言ってデカい以外に武器がない。リカさんは笑って頷いてくれた。それから再び運転し、彼女のアパートの近くのコンビニで少し話をして別れた。同じバイクを所有していることと、僕が若かったせいで警戒心もなかったのだろう、彼女の方から連絡先を交換してくれと頼まれた。僕の方は携帯を持っていなかったので(連絡が必要な相手は両親だけだ)相手は驚いたが、彼女は持っていたので僕は寮の電話番号、彼女は携帯の電話番号を教えてくれた。
大阪に来てからは必要なことを必要な量だけ口に出す生活だった。たまに話すのはルームメイトだけだったが、シフトの関係上彼とはあまり顔を合わせなかった。リカさんと温かみのある会話ができて楽しかった。そして楽しいという感じはいつぶりだろうと考えた。人と関わって楽しいと感じたことは久しく感じたことがないなと思った。