第七話
今日も社で、神崎さんの神様にお供えされた川魚をお腹いっぱいに食べさせてもらい、社の裏山でみんなで遊んでいた時だった。
僕と同い年の平太の様子がおかしい事に気づいた。
いつも小さい子に気を配り、優しい平太が、気難しそうな顔をしてぼうっとしているのだ。今までこんな平太を見たことがなかったので、声をかけた。
「平太、どうしたんだ?何かあったのか?」
「若‥‥‥」
困った顔になる平太は、実はな‥‥と話を聞かせてくれた。
平太の祖父の平蔵さんは、この村一番の猟師なのだが、昨年の冬に風邪をこじらせてからずっと体調が悪く猟師を引退して家でゆっくりしている。先月、おつかいで平太の家に行った時に、平蔵さんに会ったが「若もおおきくなりましたなぁ」なんて、可愛がってもらっていた。
そんな平蔵さんが、すっかり寝込んでしまいお医者様の話ではもう長くないと言われたと言うのだ。
「平蔵さんがそんなになっていたなんて僕知らなかったよ‥‥。ごめんな気付いてやれなくて」
「若がそう言ってくれるだけでじーさんも喜ぶよ」
平太は、そう悲しそうに笑う。
「この村の猪は夏の間は山から降りてこないだろ」
この村の猪は、餌が豊富なこの時期は、山の奥深くにいて出てこない。繁殖期の秋から餌が少ない冬になったら、山を降りて人里近くまで出てくる。
「じーさんはさ、牡丹鍋が好物でさ、死ぬ前に食べさせてやりたいけど、俺じゃ猪のいる山奥まで行けないし、罠張るのもまだ半人前だ。父さんもこの時期は畑が忙しくて頼めないし、どうにかならないかと思ってさ‥‥‥。俺がもうちょっと大人だったら獲ってやれるのにな。はぁ‥‥‥」
大きくため息を吐く平太に「よし、一緒に猪を捕りに行こう」なんて、無茶な誘いは出来ないし「大丈夫」なんて軽々しい言葉はかけれない。僕はただ側にいるだけだった。
夕食後、神様が僕に言った。
『猪を獲ってやりたいのだろう。願えばいい』
そんなことを願ってもいいのだろうか?神様にそう言われて僕は悩んだ。
きっと神様ならそれを可能にしてくれるのだろう。でも、僕がそれを願ってもいいのだろうかと思った。
猟師とは誇り高き者達だ。罠を張るのだって、先祖代々受け継がれてきた誇り。平太はそれを引き継ぐことを誇りに思っているし、平蔵さんを特に尊敬している。
神様に願えば、いとも簡単に猪が手に入るのかもしれないが、それは違うのではないかと思った。
次の日、平太がいなくなった。
「平太を知らないか?」
朝から平太の母親が僕の家に駆け込んできた。起きたら平太が床におらず、探しても一向に見つからないらしい。僕は血の気が引いた。
「もしかしたら、平太は山に猪を捕りに行ったかもしれないです」
僕は、昨日の平太との話をした。この時期、猪がいるのは、山に入って一時間以上もかかる奥深く。いくら初夏とはいえ、子供一人が立ち入って無事に居られるほど山は優しくはない。山にいる獣は猪だけじゃないのだ。
血相を変えた大人達が、総出で捜索に出ることになった。
日が落ちても松明を灯した大人達は捜索をやめなかったが、平太は見つからない。僕も手伝うと何度も家を飛び出そうとしたが、その度に母に引き止められる。
あんなに、追い詰められた顔をしていた平太に、あの時なにかひとつでも言葉をかけれなかった自分が悔しくてたまらなかった。せめて、一人で行かせず、何の役にも立たないかもしれないが僕も一緒に行くと言ってやれなかったことを後悔した。
『若、願え、願うのだ』
僕の神様が言った。
神様に願いを聞き届けて頂くことは、奇跡の所業。普通は一生に一度も叶わない程の奇跡。
なぜ僕の神様は、こうも簡単に僕に願えと言うのだろうか?
僕は怖くなった。まるで、禁戒。本当に願っても良いのだろうか?
でも、神様に縋って平太が助かるのなら、僕は罰を受けても幸せだと思った。平太に何かあれば僕は一生後悔するだろう。平蔵さんも悲しませたくはない。
「神様、平太を助けてください」
『相分かった。聞き届けよう、その願い』
しばらくして、平太の母が「平太が見つかった」と知らせに来た。
慌てて草履を引っかけ、もつれる足を夢中で動かし走る。
社に。
そこには、平蔵さんと泣きながら抱き合う平太がいた。
「‥‥‥」
僕は、なんとも言えない気持ちになり、平太の無事な姿をただ眺める。自然に溢れる涙は止め処なく、でも泣き声は堪えずとも出なかった。
平太が無事で安心した。孫の無事に涙する平蔵さんの姿に、こんなにも思い合う家族が、家族を無くさずに済んで、神様への感謝と僕自身の大事な友達の気持ちの気付かなさに改めて情けなくなった。
しばらくして、無事を知らせてくれた平太の母が追い付き、涙し立ち尽くす僕の肩を擦りながらこう言った。
「平太ね、森の中で足を滑らせて転げ落ちて、足を挫いて動けなくなってたみたいなのよ。でも、気付いたら社にいて、挫いていた足ももとに戻ってたんですって。神様が私達の願いを叶えて下さったんだわ」
それを聞いて何だか救われた気がした。
神様は僕に『願え』と言った。それは、いくら“よりどころ”だからってそう何度も願っていいのか、まるで罪のような禁戒でとても恐ろしかった。
平太の母が「私達の願い」と言ってくれた。そうだ。平太の無事を願っていたのは僕だけじゃない。平太の家族だって、友達だって、この村の人達だって、みんなみんな願っていたのだ。
それがとても僕の救いになった。
でも、平太の無事を願うのはとても当たり前の事なのに、僕は僕のことしか考えてなかったのだと、情けなくなった。
だからなのか、今度は涙だけじゃなく、声が出てしまいそうで、ぐっと食いしばり僕は男だから、長男だから、声は出してはならんと、俯き耐えるしかなかった。
「心配かけてごめんな」
聞きたかった平太の声と共に、平太の腕が僕の首に周り、肩を震わせた僕を平太が優しく包む。僕は更に出る涙と鼻水に抗いながら
「うう‥‥一緒に行こうって、言えなくてごめん‥‥。止めてやれなくて‥‥ごめん。他の‥‥方法を考えてやれなくて‥ごめん」
あの時に言えれば良かったことを謝った。
「俺が無茶をしたんだ。若を巻き込まなくてよかったよ」
自分の方が大変な思いをしてたのに、僕のことを心配してくれる僕の友達は、僕よりずっと優しい。
帰ったのは、もうお天道様が顔を覗かせる時間だった。
「神様、ありがとうございました」
『よいよい。若は“願うこと”に苦しめたか?』
苦しめた、という表現が、何だか悩むことを肯定してくれていると感じた。
「はい」
『なら、やはりよいのだ』
平太の家族達は、尾関先生の神様が平太を救ってくれたと信じている。だから、改めて感謝を祈りに来た平太に神崎さんが「私の神様は“またぎ”の神様なのよ。お願いをしてみたら?」と、こっそり平太に耳打ちしたらしいと、僕の神様が教えてくれた。
次の日、平太の家の前には、立派な猪が一匹。
神崎さんの神様が、僕に言った。楽しそうに、そして悩ましげに。
『平太には我が何の神かは心に秘めるようにと、娘にちゃんと言付けておるからまだばれとらんのじゃ。我はここに居る間は川魚が食べたいからのう。ふふふ。ああ、なぜ我は川魚の神ではないのかのう』