第一問 どこで番号札を落としたか
養老須磨子は、アラームの音で目を覚ました。時刻は午前七時。
携帯端末を手に取り、画面を見ると、メッセージが届いていた。
お母さん>起きてる?
須磨子は端末を操作した。
養老>うん
お母さん>八時頃、迎えに行くからね
養老>うん
須磨子はしばらく布団でぼんやりしていたが、意を決して上半身を起こした。掛け布団を蹴り飛ばし、服を脱ぐ。
クローゼットから制服を取り出して、袖を通す。洗面所へと向かい、顔を洗った。鏡には、目つきの悪い短髪の女が映っている。
持ち物を整理して、準備は完了。
適当に時間を潰していると、気付けば時刻は七時四十五分。
彼女は鍵を持って玄関を開けると、外へ出た。
廊下を歩き、エレベーターに乗って一階へとおりる。
自動ドアをくぐり、マンションの前の歩道で待機。
天気は晴れ。静かな朝である。
今日は、T高校の入学式。
(この一年、辛かったな)
そう、去年、須磨子は多忙を極めた。
志望高校のランクを突然二つ上げたせいで、半年ほど一日十時間は勉強する日々が続いたのだ。
(それもこれも、全部あいつのせいだ)
五分ほどその場で待っていると、黒のラパンがやってきて、須磨子の目の前で止まった。助手席側の窓が開いて、母が笑顔を見せる。
「おまたせ」
「うん」
須磨子が助手席に乗り込むと、車はすぐに発進した。
「ってやば、須磨子、あれ持ってきたよね?」
「あれって?」須磨子はシートベルトをしめながら尋ねた。
「番号札。たしか、持ってないといけないんでしょ?」
「あーうん、大丈夫……、たぶん……」
「いま確認して。昔っから忘れっぽいんだから」
「はいはい……」
須磨子はポケットに手を突っ込んだ。指先に硬い物が触れたので、それを取り出す。掌ほどのサイズのそれは、白くて薄い楕円形で、表面に黒字で番号が書いてある。
「あったよ」
「そ。よかった」
「うん」
「……須磨子も高校生かぁ」
「だね」須磨子は手をブレザーのポケットに突っ込んだ。
「なんだか感慨深いよぉ。ついこの間まで、よちよち歩きの赤ちゃんだったくせに」
「中学の入学式のときも同じようなこと言ってたよ、お母さん」
「そうだっけ?」
「うん」
「よく記憶していらっしゃる」母は運転しながら左手で須磨子の頭を撫でた。
「危ないよ……」
「やっと高校生になったんだからさ、イメチェンしたら?」母は息をついた。「須磨子が短髪以外の髪型にしてるところ、わたし何年も見てないんだけど」
「私も見てないなぁ」
「あと、目つきが鋭すぎるよ須磨子は。常に睨んでるみたいで、怖い」
「……そう? 私は嫌いじゃないんだけど、自分の目」
「あとあと、雰囲気が暗い。話しかけにくいオーラが滲み出てるのよ、貴女から。せっかく容姿は整ってるんだから、もっと愛想よくしたほうがいいよ」
「……」
「あとあとあと、言葉遣いがさ、もう少し……、こう……、女の子らしい口調を心掛けられないの? 変な奴だと思われるよ、それ」
「あの……」須磨子は微笑んだ。「どうしたの、突然……」
「これから輝かしい高校生活を送る須磨子に、助言しているのよ」母は溜息をついた。「いいなぁ、高校生。私も、もう一回やりたいなぁ……」
「そう……」
「あ、そうそう、張り切って入学式から友達つくろうとするの、やめたほうがいいわよ。こいつ必死だなって、見くびられるからさ。どうしても話しかけたいなら、入学式って何時からですか? みたいな事務連絡から切り込むのよ」
「大丈夫、一言も発さずにやり過ごすから」
「……ったく」
しばらく雑談していると、車はT高校の駐車場に到着した。車外に出て、辺りを見渡す。
T高校の敷地は巨大な正方形となっていて、辺の中心から垂直に伸びるメインストリートが図形を真っ二つに分断している。分断された東側の敷地には、校舎や体育館があり、西側には部室棟や剣道場、柔道場、射撃部の施設などがある。おおよそ、課外活動に利用するか否かで分けられているようだ。
駐車場を出て、幅十メートルほどのメインストリートを横切る。メインストリートには、イチョウの樹がズラリと並んでいて、等間隔にベンチが備えられている。レンガ調の地面が中々洒落ていた。
(誰もいないな)
須磨子と須磨子の母以外、周りに人影はない。
(まぁ、まだ入学式まで一時間近くあるからな)
人ごみに揉まれるのが嫌なので早めに出発したのだが、どうやらそれが功を奏したようだ。
母と並んで歩き、真っすぐ体育館へと向かう。体育館の出入口に備えられている受付で、須磨子は名前を記入し、資料を受け取った。
体育館の中はガランとしていて、少しだけ肌寒かった。手前に保護者用のパイプ椅子群があり、奥に新入生用のパイプ椅子群がある。壇上には花が並べられていた。
「それじゃ、私は適当に座って待ってるから」
そう言うと母は保護者用の椅子に腰かけた。
須磨子も自分の席を探す。
(えっと、番号札……)
自分の席の位置は番号札に記載されている。須磨子はブレザーのポケットに手を突っ込み、目的の物を探した。
(……あれ?)
硬い感触が伝わってこない。
手を引き抜き、反対側のポケットも探る。が、こちらからも番号札は出てこなかった。
(おいおい……)
胸ポケットも確認する。
ない。
内ポケット。
ない。
スカートのポケット。
ない。
反対側……。
ない。
念のため、ブレザーのポケットの中身を全て出した。
しかし、出てきたのは携帯端末とハンカチ、財布、マンションの鍵だけ。
念のため、ハンカチと財布に番号札が紛れ込んでないか確認する。
しかし、やはり無い。
(どっかで落としたんだ)
須磨子は舌打ちをした。
(えっと、番号札を最後に見たのは……)
母の車の中だ。
つまり、
(落とした可能性のある場所は、お母さんの車の中か、駐車場から体育館までの間、そのどちらか)
須磨子は、その場でしばらく立ち尽くしていた。
(ったく、どうして割と重要な持ち物を落とすんだ……)
もう一度だけ、ポケットの中身を全て確認する。
ブレザーのポケットには、携帯端末、ハンカチ、財布、マンションの鍵。
胸ポケットと内ポケット、スカートのポケットには、そもそも何も入っていない。
(探しにいく、か……)
だが、そのためには体育館から出ていかなければならない。
つまり、保護者用のパイプ椅子群を横切る必要があるわけで、そうなれば、母が須磨子の姿に気付くのは必至。
(絶対事情を聞いてくるよなぁ、お母さん)
母は、須磨子の落とし物癖、忘れ物癖を非常に問題視しているので、番号札を紛失したことがバレたら、まず間違いなく不機嫌になるし、注意される。
(できれば、それは避けたいところ……)
しかし、番号札が無いと、自分の席の位置がわからない。
(……とりあえず、いったんトイレいこ)
須磨子は動き出した。
【2】
トイレから出てきた須磨子は、ハンカチで手を拭きながら体育館の中を眺めていた。
(ちょっと人、増えたな)
新入生用のパイプ椅子群に、ぽつぽつと生徒の姿があった。
(……あ!)
起死回生のアイデアが須磨子の脳裏に突然浮かんだ。
(そうか、たぶん、椅子は五十音順で並べられてるから、生徒の苗字を確認すれば、私の席の位置がわかるかも)
思い立ったが吉日、須磨子はすぐに行動した。
まず、生徒の苗字を確認し、席が五十音順か否か判断する。
が、五人の苗字を調べたところで、須磨子はもう嫌になってしまった。
(恥ずかしいなぁ)
生徒の苗字を確認するためには、その人の正面に立ち、胸元にある新入生用の飾りの名札をガン見する必要がある。
(こんなこと続けてたら、ヤバい奴だと思われる)
須磨子は溜息をついた。
(いいや。もう、探しにいこう。このままじゃ座れない……)
踵を返そうとした、そのとき、
「あの」と、声をかけられた。
須磨子はゆっくりと振り向く。
目の前には、男が立っていた。
きめ細かい白い肌。
くねくねとウェーブした前髪。
はっきりとした目と、スラリとした鼻筋。
身長は、須磨子の頭ひとつ分ほど高い。
「これ、君のじゃない?」
そう言うと、男は番号札を差し出した。
「……え?」
「この番号札、君のでしょ?」男は口元を上げた。「違った?」
「あ、いや……、たぶん、そうです」
「だよね」
「……」
「いや、受け取ってくれないかな」
「あ、はい」須磨子は男から番号札を受け取った。
「じゃあ」
そう言うと、男は背を向けてその場を去った。
(……ビビった)
突然、えらく容姿の整った男が話しかけてきたのだ。
須磨子は少しだけ汗をかいていた。
男から渡された番号札を頼りに、須磨子は自分の席を見つけ出し、座ることができた。
座ってから、ようやく気が付く。
(私、お礼言ってないじゃん)
須磨子は思わず舌打ちした。
そこまで頭が回らなかった。
(嫌だなぁ……、頭の回転が遅い奴だって、絶対そう思っただろうな)
須磨子は、その男の胸元にあった名札を思い出した。
(月見里……恭介。ツキミザトキョウスケって読むのかな)
携帯端末をポケットから取り出して検索してみたところ、月見里と読むようだ。山が無いと月見ができるから、月見里と読む、と解説されている。
(こういう言葉遊びみたいな苗字って絶滅しないかな……。小鳥遊しかり、わかりづらいだけだと思うんだが)
若干気持ちの悪いことをしている自覚があったが、須磨子は月見里恭介の名前でネット検索をかけた。入学式が始まるまで暇なので、仕方がない。
すると、検索結果の一番上に、水泳大会のHPが出てきた。アクセスすると、何やら関東水泳大会の記録が表示されたので、少し調べてみる。
ややあって、彼の名前を発見した。どうやら、中学のとき月見里は、メドレーリレーの選手だったようだ。さらに、彼の所属するチームはその大会で優勝していることがわかった。
(へぇ……)
水泳か、と須磨子は心の中で呟く。
(忌々しいあいつも、確か水泳部だったな)
そこまで考えて、須磨子は首を振った。息を吐き出して、頭をからっぽにする。
(……わざわざお礼を言いにいくのも、大げさだよな)
月見里の顔を思い出す。
(ま、向こうは既に私のことなんて忘れてるだろうし、いいか)
そう結論付けて、須磨子は入学式が始まるのを待った。
【3】
入学式は無事終わった。入学式といってもメインは事務連絡にあり、推奨される高校生活の過ごし方、単位の取り方、進級の条件、理系と文系の選択、進学・就職について、などなど、眠くなる話を延々と聞かされただけだった。
新入生たちが一斉に立ち上がり、体育館から退出していく。須磨子は人が減るのを待つため、携帯端末をいじりながらしばらくその場で待った。
そのとき、隣のパイプ椅子に誰かが座った。
ふわりと薄く甘い匂い。
(まさか……)
横を向くと、案の定、そこには月見里恭介が座っていた。
「こんにちは」
「……こんにちは、月見里さん」須磨子は少し汗をかきながら、続ける。「あの……、さっきの番号札、どうもです」
「あーお気になさらず」月見里は目を丸くした。「よく、僕の苗字読めたね」
「え?」
「みんなツキミザトって呼ぶんだ、初見のとき僕のこと」月見里は微笑んだ。「初めてかも、一発で読めた人」
「ああ、いや、たまたま知ってただけ」須磨子は心の中で舌打ちした。迂闊だった。
「ふぅん?」月見里は目を細めた。「君の苗字も凄いね……。養老って……、インパクトあるなぁ」
「はぁ」
「ねぇ、突然だけど、もしかしてさ、君、お姉さん居る?」
一瞬、須磨子は反応できなかった。
その話題が出てくることを、彼女は全く予想していなかった。
「……姉を、知っているんですか?」
須磨子の姉は、須磨子のひとつ年上で、現在高校二年生。実家から千葉県内の進学校へ通っている。幼少期こそ姉妹として普通に仲が良かったが、ここ数年は殆ど口をきいていない。
(できれば、もう二度と口をききたくないな)
須磨子がT高を志望した理由が、これだった。
つまり、母が「T高に受かったら一人暮らしをしてもいいよ」と言ったので、姉と距離をとるために猛勉強し、無事合格し、現在に至るのだ。
「うーんと、なんて言ったらいいのかな」月見里はポケットに手を突っ込んだ。「水泳大会でさぁ。あ、僕、水泳やってるんだけどね。何度か見かけたことがあるんだよ、君のお姉さんを」
「はあ」
「珍しい苗字だったから、たまたま覚えてて……、で、同じ苗字の君を発見して、もしかして妹なのかなって」
「たぶん、はい、あってると思います……」
「やっぱり?」月見里は微笑んだ。「ねぇ、連絡先教えてくれない? 君のお姉さんのさ」
「ああ……」なるほど、と須磨子は頷く。話の方向性が見えた。「別に、いいですけど」
「ほんと? やった」
「そんなに可愛かったですか」皮肉交じりに尋ねる須磨子。
「え? ま、まぁ、そうだね、美人だよね」月見里は口元を上げた。「そういえば、そんなに似てないよね、君と、君のお姉さん」
「私と姉、どちらのほうが、人に好かれやすいと思いますか」
「ええっと……」月見里は苦笑した。「なんだろ、なんか棘があるな……。僕、なにか失礼なことした?」
「いえ、これが素なんで、気にしないでください」
「面白い人」月見里は微笑んだ。「もうちょっと話そうよ」
「ええ……?」
須磨子はチラリと後ろを見て、母親を探した。
パイプ椅子は、既に八割ほど空席となっているので、すぐに見つかる。
案の定、母は遠くからこちらをガン見していた。
(見るなよ……)
とりあえず、須磨子は姉に許可をとってから、姉の連絡先を月見里へと送信した。
「ありがとう、養老さん」月見里は端末をポケットに仕舞うと、立ち上がった。「ちょっと飲み物買わない? 奢るよ」
「自分で払うから、奢らなくていい」
須磨子も立ち上がって、彼の後を追う。歩きながら財布を取り出した。トイレの脇にある扉を開けて、体育館の外に出ると、目の前に自販機があった。
須磨子はポケットから財布を取り出そうとした。
「……あれ」
「どうしたの?」
反対側のポケットも確認する。
「いや、財布が無くて……」
「財布なら、持ってるじゃん」
「え? あ……」
須磨子の右手にはしっかりと財布が握られている。
彼女はドッと汗をかいた。
「眼鏡をかけたまま眼鏡を探す、みたいな?」月見里は口元をあげた。
「……ベッドにスマホを投げようとしたら、逆の手に持ってた飲み物をベッドに投げちゃった、みたいな」
「……? ……」
月見里はコーヒー、須磨子はポカリを購入した。
「チラっと見えちゃったんだけど、なんか、養老さんやけにお金もってない?」
「ん? ああ……」須磨子は財布の中身を見た。五万円ほど入っている。「仕送りの金、貯金箱に移すの忘れてた」
「仕送り?」
「うん」
「寮?」
「違う」
「もしかして、一人暮らし?」
「そゆこと」少し自慢げな須磨子。
「うわぁ、珍しいね……」月見里は目を丸くしている。「一人暮らしの高校生って、たしか相当レアだったと思うんだけど。親が億万長者なの?」
「そんなことは無いよ」
実際、須磨子の母は市役所職員、父は金融庁職員なので、億万長者とは程遠い。
「そっか、一人暮らしか……」月見里はニッコリと微笑んだ。「それなら、放課後は毎日みんなで養老さんの家に寄って、どんちゃん騒ぎだね」
「嫌だよ、そんなの」
「僕、麻雀卓もっていくから」
「嫌だっつの」
その後、二人でしばらく雑談した。受験勉強のこと、水泳部のこと、趣味のこと、家族のこと……。
(私って、こんなにお喋りな奴だっけ)
やはり、若干アガっているのだろう。もっと冷静で理性的で機械的な人間になりたいのだが、なかなか難しい。
そのとき、ガチャリと音がして、男子生徒二人が談笑しながら扉から出てきた。彼らは、須磨子と月見里の姿に気付くと、会話をやめ、自販機へと向かった。須磨子と月見里は、彼らのために道を空けた。
一瞬、沈黙。
「……それじゃ、そろそろ解散しようか」月見里はポケットに手を突っ込んだ。「養老さん、お母さんを待たせてるみたいだし」
「あ、うん……」
どうやら、さきほどの須磨子の視線の動きを、月見里は観察していたようだ。
「またね、養老さん。同じクラスになれるといいね」
「……さよなら」
背中を向けて歩き出す月見里。
(……)
気付けば須磨子は、口を開いていた。
「月見里君」
「ん?」月見里がこちらに振り向いた
「えっと、別に、大したことじゃないんだけど……」
「うん」
「……」
まずい、特に用があるわけでもないのに声をかけてしまった。
なにか言わなければ。
必死に話題を考える須磨子。
そのとき、ふと思いついた。
「私の番号札って、どこで拾ったの?」
「え?」
そうだ、番号札だ。
紛失したと思っていたのに、月見里が持っていたので、なにか可笑しいな、と思っていたのだ。
すっかり忘れていた。
「番号札。月見里君が届けてくれたけど、どこに落ちてたの?」
「ああ……」月見里は頷いた。「えっと、女子トイレの前に落ちてたよ」
「女子トイレ?」
「うん」
女子トイレの前……?
(それは、えっと……)
番号札を落としたのは、駐車場から、体育館までの間のはず。
(……)
なのに、番号札が落ちていたのは、体育館の中にある女子トイレの前。
「……どうしたの?」月見里は須磨子の顔を下から覗き込んでいる。
「……えっとね……」須磨子は彼の顔の近さに驚いて、一歩引いた。「たぶん私の勘違いなんだけど、番号札を落としたのは、駐車場か、駐車場と体育館の間かなぁって、ずっと思ってたから……」
「というと?」月見里は何故か興味津々といった様子で尋ねた。
「うんと、どこから話せばいいのかな……」不毛なことをしているな、という自覚を抱きつつ、須磨子は説明をする。「朝、ポケットに番号札があることを、私は車の中で確認したんだ。それで、T高に到着して、駐車場を出て体育館へ私は向かったわけ」
「うんうん」
「で、受付を済ませて、体育館の中に入ってから、ポケットを確認したら、なぜか番号札が無くなってたんだ。何度も隈なく探したのに見つからなかったから、間違いない」
「ふぅん……?」月見里は少し微笑んだ。「それじゃ、番号札は体育館の外……、つまり、駐車場と体育館の間に落としたはずだね」
「でしょ? なのに、体育館の中の、女子トイレの前に番号札が落ちてたって……、その、月見里君は言うわけで、これは、その、どういうことかなって……、まぁ、そんだけ」
「なるほど……」
「……」
「……」
「ま、たぶん、私がちゃんとポケットの中を探せてなかっただけだね」須磨子は苦笑すると、片手を軽く上げて月見里の横を通り過ぎようとした。「それじゃ……」
「ねぇ、養老さん」月見里は微笑んだ。「ちょっとさ、上着を脱いでくれる?」
「は?」須磨子は目を丸くした。
「……」
「……」
「……あの、別にやましい気持ちはないからね。こんなところで変態を発揮するわけないじゃん」月見里はニコニコしている。「嫌なら断ってくれてもいいよ」
「いや、まぁ、いいけど……」
須磨子は怪訝な顔をしながら、渋々ブレザーを脱いだ。
「で?」須磨子は脱いだブレザーを畳みながら尋ねる。
「そのブレザー、ちょっと貸して」
「はぁ……」
月見里はブレザーを受け取ると、ポケットを調べ始めた。
須磨子は徐々に後悔し始めていた。
(変な奴……)
もし、月見里が特段に容姿の整った男でなければ、須磨子はさっさと帰っているだろう。
しばらくブレザーをまさぐった月見里は、一度クスっと笑うと、ブレザーを須磨子に返却した。
「……なるほどなるほど」月見里は微笑んだ。「やっぱり、そういうことだ」
「どういうこと?」
「この事件の問題点は、ズバリ、番号札を落とした場所です」
「事件……?」
「しまったはずの番号札が無い、落とした可能性があるのは、駐車場から体育館までの道すがら」月見里は前を向いた。「なのに、実際に番号札が落ちていたのは女子トイレの前。……養老さんは、この矛盾をどう説明する?」
「矛盾も何も……、私の探し方がイマイチだっただけでしょ?」須磨子は少し考える。「本当は、番号札はポケットの中に入ってて、私がそれに気づかなくて、で、トイレに行ったときにポロっと落したんだ」
「でも、ポケットの中はちゃんと探したんだよね、養老さんは」
「うーん、まぁ、そこだけ腑に落ちないけど、探し漏れがあった以外に、説明のしようが……」
「うん、それじゃあ、ポケットの中はちゃんと探していた、と仮定したら、どんな可能性がある?」
「そんなこと言われてもねぇ……」
「大丈夫、想像力を働かせれば、わかるから」
「……」
須磨子はムッとした。
(こいつ、さては……、既に答えがわかっているな?)
目を細め、月見里をじっと見据える。
(それで、答えのわからない私を見て、内心ほくそ笑んでいるんだ。こんなのもわからないのかって……)
彼女は、月見里に聞こえないように深呼吸をすると、うっすらと微笑んだ。
(いいだろう……)
須磨子はゆっくりと口を開いた。
「……ひとつ考えられるのは、月見里の言っていることが嘘、という可能性かな」
「へえ?」月見里は眉を上げた。「続けて?」
「本当は女子トイレの前に番号札は落ちていなくて、駐車場に落ちてたんだ。で、月見里はそれを拾って、私に届けた」
「なんのために、僕は嘘をついたわけ?」
「うんと……、それは……、私と仲良くなりたくて、適当なことを口走っちゃったとか?」
月見里は吹き出した。「凄いね、一目ぼれってこと?」
「まぁ、そういうことになるかな」
「面白い」月見里は微笑んだ。「ほかには?」
「ほかには……、うーん……、ほかには……」須磨子は腕を組んだ。「たとえば、外に落ちていた番号札を誰かが拾って、女子トイレの前まで運んで、そこに落とした、とか」
「なんのために、そんなことを?」
「えーっとぉ、つまり、その、嫌がらせだよね。私に対する」
「嫌がらせをしたいのなら、拾った番号札をわざわざ女子トイレの前まで運ぶのではなく、隠したり持ち帰ったりしたほうが効果的なのでは?」
「そこは、気が変わったとか、良心の呵責とかで、説明できる」
「うん、まぁ、確かに」月見里は微笑んだ。「で、養老さんは嫌がらせをされるようなことをしたわけ?」
「特にしてないと思うけど……、ほら、私って目つき悪いから、それが癪に障った人がいるのかも」
「凄い目だね。接客のバイトとか出来ないじゃん」月見里は飲み終わった缶コーヒーをゴミ箱に入れた。「で、ほかには?」
「ほかに……、いや、もう無いけど……」須磨子は思いついた。「あ、そうだ。番号札が、こう、一人でに動いた可能性もあるよね」
「一人でに……? トイ・ストーリーみたいな?」
「えっとね、そういうことじゃなくて……」須磨子は自分の発想の言語化を試みた。「えええっと、つまり……、誰かの靴の裏に、偶然わたしが落とした番号札がハマって、それで、偶然女子トイレの前に落ちた、みたいなことを言いたかった」
「よくそういう突飛なことを次々と思いつけるね」月見里は目を丸くした。「ほかには? って聞くだけで、無限にアイデアが出てくるじゃん」
「いや、もう打ち止め」須磨子は溜息をついた。「なぁ、答え教えてくれよ。わかってるんだろ? どういうことなのか」
「まぁね」月見里は微笑んだ。「ヒントは、財布」
「財布……?」
「そろそろ、僕、帰るから。答えがわかったら、連絡してよ」
「え、ちょっと」
「じゃ」
そう言い残すと、月見里はあっさりと去っていた。
(財布……?)
須磨子はポケットから番号札を取り出し、眺めた。
白くて薄い楕円形のプラスチックに、番号が記載されている。
しばらく須磨子はその場で考えたが、やがて諦め、母親を探すことにした。
須磨子は番号札を持った手をポケットに突っ込んだ。
【4】
母を発見した須磨子は、二人で体育館を出て、メインストリートを横切り、駐車場へと歩いた。
車のドアを開けて、助手席に乗り込む。同時に、母も運転席に乗り込んだ。
「で」母はエンジンをかけながら言う。「なんだったの、あの子」
「あの子って?」須磨子はシートベルトをしめながら返事をした。
「須磨子と話してた、あのイケメンよ。アイドル顔よね。可愛い感じ。それに、スタイルも良かったわ。180センチぐらいあるんじゃない?」
「うーん、175ぐらいだと思うけど」
「高校一年生でそれだけあれば、十分十分」母は車を発進させた。「名前は?」
「月見里っていう人。向こうから話しかけてきた」
「向こうから?」母は目を丸くした。「さすが、私の娘……。優秀な男が集ってきてしまうのね、こちらにその気がなくとも」
「まるで蛾みたいだね、それ」
「……」
母は目を細めてこちらをじっと見た。
「前を向いて運転して」須磨子は携帯端末を操作しながら言う。
「……どうしてこんなに捻くれちゃったのかしら」母は溜息をついた。「高校生活中に、上手いこと人格が矯正されるといいんだけど……」
「そうだね~」
「出た、その反応……」母は舌打ちをした。「口先では同意するけど、内心では全く納得してないのよね、須磨子はいつも。それ、バレバレだから。演技力的にも性格的にも、貴女は人を騙すことに向いてないわ」
「もう、うるさいな……。じゃあ、どうすればいいわけ?」
「もっと人と接しなさい。そうすれば、摩擦で自然と角がとれていって、社会的な人格が出来上がるの。いわゆる、丸くなるってやつ。簡単でしょ?」
「ふぅん……。まぁ、参考にするよ」
母は運転しながら左手で須磨子の頭を撫でた。
「危ないよ……」
「須磨子、高校生活って、本当にあっという間よ。あれ、ついこのまえ入学式だったのに、もう卒業? って本当にそんな感じ」
「……」
「悔いのないようにね。寂しくなったら、いつでも一人暮らしなんてやめて、帰ってきていいんだよ?」
「あいつが家に居るのに、私が帰るとは思えないけど……」
あいつとは、姉のことである。
「いいから」母は鬼の形相で須磨子を睨んだ。「わかった?」
「……はい」
マンションの前に到着したので、須磨子は車からおりた。車が見えなくなるまで手を振ってから、マンションの自動ドアをくぐり、エレベーターに乗り、二階へとあがる。廊下を歩き、奥から二番目の扉の前に立つと、須磨子は鍵を開けて中に入った。
1LDKの須磨子の部屋。玄関で靴を脱ぎ、扉を開けると六畳のリビングがあり、左手には洋室、右後ろにシャワールームが備えられている。
(とりあえず……)
須磨子は制服を脱ぐことにした。
洋室に入り、クローゼットを開ける。
(……おっと、そうだ、番号札……)
その存在をすっかり忘れていた。
もう使わないので、さっさと捨てなければ。
ポケットに手を突っ込み、番号札を取り出そうとする。
(……ん?)
ブレザーのポケットから出てきたのは、ハンカチと財布、携帯端末だけ。
スカートのポケットにも手を突っ込む。
ない。
胸ポケット。
ない。
上着の裏……。
(ないぞ……)
念のため、再度ブレザーのポケットの中を探す。
しかし、やはり出てこない。
(……どゆこと?)
須磨子はしばらくその場で突っ立っていた。
(確かに番号札はブレザーのポケットに入れたよなぁ……)
舌打ちをして、溜息をつく。
(わからん。……とにかく、いったんシャワー浴びよう)
須磨子はブレザーを脱いでハンガーにかけた。靴下を脱いで、スリッパを履く。
(おっとと)
須磨子はハンガーにかけられたブレザーに手を伸ばした。ポケットの中から財布と携帯端末を取り出そうとする。
そのとき、
手から何かが零れ落ちた。
なにか硬い物がぶつかる音。
楕円形のそれは、床をコロコロと転がると、須磨子から一メートルほど離れた場所で停止した。
「……」
手から落ちたのは、番号札だった。
無くしたと思っていた、番号札だった。
「……」
須磨子は、
大きな溜息をついた。
しょうもない。
心底馬鹿馬鹿しい。
くだらない。
「いや、本当にしょうもないな……」
そして、すべてを理解した。
つまり、こういうことだ。紛失したと思われる番号札を体育館の中で探していたとき、番号札は須磨子の手の中にあったのだ。それに気づかず、ポケットの中身を隈なく調べた須磨子は女子トイレへと向かった。そして、おそらく、そこで須磨子は本当の意味で番号札を紛失した。トイレのドアを開けるときか、ハンカチを広げたときか定かではないが、そこで番号札が手から零れ落ちた。そして、落ちていた番号札を月見里が拾った、ということ。
(そうか……、だから、財布がヒントなのか)
自販機で飲み物を買う際、須磨子は財布を手に持ったまま財布を探し、月見里にからかわれた。
番号札を手に持ったまま番号札を探したのと全く同じミスである。
「しょうもない」
須磨子は小さく吹き出した。
しょうもなさすぎて、少し可笑しい。
月見里に報告してやろう。
これで少しは私を見直すだろうか。
何かが始まる予感がする。
(何かって?)
わからない。
わからなくていい。
高校生活は、これから始まるのだ。
【続】