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おやすみのチュウ

 身を縦に掌を構えるオルルは腰を落とし、床を擦るような足取りでラーズを中心とした半径を牽制する。

 対するラーズは微動だにせず、二つの眼は正面を向いたままだ。


「眼中にないといいたげですわね」

「あたいは下等種族と違って優れているのさ」


 何やら得意げなラーズだが、しかし彼女は蜘蛛人間。


「蜘蛛の目は八つあると言われてるよ!」

「ちょ……あたいの秘密を……」

「更に前の二つは恐らく主眼。残りの目は大した視力がないはずだ!」

「待て待て! お前さん……もの知り博士か何かかい?」

「有難いですわ、ネクロ様!」


 緩やかな動きから一転、オルルは高速の足捌きで地面を滑り、ラーズは首を右に左に、忙しなく動きを追う。


「素早く動けば主眼に頼らざる負えない。どっしりと構えるその仕種は、自分のペースに巻き込む罠ということですわね」

「おのれ……正々堂々と勝負し――」

「オルル! 惑わされないで! 相手は蜘蛛だ! 蜘蛛糸に絡め取るように、罠に嵌めるような戦法を企んでいるに違いないよ!」

「ああもう! 口を挟むんじゃないよ!」


 怒りに燃える主眼が俺に向き、その瞬間オルルはラーズの懐に飛び込んだ。

 しかし残る六つの目のいずれかは、オルルの姿を朧げながら捕えたのだろう。

 ラーズの固めた拳はオルルの右顔面を殴り飛ばし、勢いよく地面に倒れ込む……ような流れに見えてしまうほどに。

 紙一重で体を落とし、殴打を躱すと地に擦るほどに顔を寄せるオルル。

 片側が下がればもう片側が上がるシーソーのように、頭部が下がったことで振り上げられる神速の右足底は、無防備なラーズの左脇を豪快に突き刺した。


「お……おげ……」


 卍蹴り。

 躰道に見る超高速のカウンター蹴撃。

 ただえさえ不意を突くカウンターは柔な打撃でもダメージが通りやすい。それを腕の三倍の威力はあるとされる蹴り技で叩き込む。

 オルルのレベルは187。単純に考えれば、三倍の561レベルの拳の殴打をカウンターで貰ったということだ。


「これは確かに……レベルなんて関係ない……」


 蹴り終えたオルルは余韻を残さず元通り、掌を前に腰を落とし身構える。


「エルフ族は耳も長ければ足も長いのですわ。体の構造を最大限利用する、それが江流布神拳の原理なのですわ」

「うぎぎぎ……」

「左あばらは全て粉砕しましたの。立っているのがやっとかしら?」

「ぎ……しししし……」

「……何が可笑しい」


 砕けた体では戦闘不能。それが俺の知る世界の常識で、この世界には魔法がある。しかしそれすらも超越した領域。

 左脇は歪にへこんだままに、背筋を伸ばしたラーズは不気味に笑う。


「なぁ、物知り博士さんや。この世界で、何が最強の技術だと思うかい?」

「それは……なんだろう……躰道? 空手? 八極拳? ブルース・リーのジークンドーも強いだろうし……」

「あなたの相手は私ですわよ。そして最強の武術など、この世にはありませんわ。武術の優劣ではなく、その者個人がどれだけ修めたか。どの武術であろうと、選んだ道を信じて極めた者が強くなれるんですのよ」


 そうだ。オルルの言う通りだ。

 よくよく異種格闘では、どの武術が強い弱いだとか言うけれど、その武術を司る神が戦う訳でもなし、結局は個人の力量の問題じゃないか。


「そんなものはない。オルルが強いから、だから江流布神拳が際立つんだ!」

「ネクロ様……とても嬉しいお言葉でしてよ」


 決して敵から視線は逸らさないが、震えるオルルの体が、その喜びの程を如実に表している。


「ししし……これはこれは……お涙頂戴の感動の答えが出たようだね」

「そんな下らない問答で、何が知りたいのかさっぱりですわ。今から武術を学ぶ時間など、あなたには残されていないでしょうに!」


 オルルは体移動と共に、前手を右に左に変化する。江流布神拳に利き手はなく、左右どちらの構えにもスイッチする。

 その一連の動きは流の字を冠するに相応しい、水のように変幻自在の体捌き。

 近接格闘技では考えられない遠間から瞬く間に接近すると、対峙する者の視界から消えるように体を落としたオルルは――


「これは……何……」


 地面すれすれの視界の中に、転がる球体を垣間見た。


「爆弾だよ。最強は武器術さね」


 直後に爆音が轟いて、ラーズもろとも爆風に巻き込まれる。

 土埃が舞い上がり、面した館の硝子は粉々に砕け散った。

 皆は咄嗟に盾になり、更に薄緑の幕が半球状に俺たちを覆う。


「これは……」

「レフレクシオ、魔法の壁だよ」

「ドール! 咄嗟にこんなことを……」

「気は張っていたの。でも……オルルは包んであげられなかった」

「そうだ……オルルは!?」


 盾になる皆の体を掻き分けて、飛び出した俺はバリアの内壁に張り付いた。


「オルル!」


 バリアの向こう側は土煙で覆われて、何がどうなっているのかも分からない。

 あれほどの至近距離で爆発を受けて、まさかオルルは……

 そう思った矢先、透いた壁一枚隔てた目先のところで、オルルの背がバリアに寄り掛かった。


「オルル! 良かった! 無事だったんだ……ね……」


 愛する俺の声が届いたのか、振り向くオルルの顔半分は焼き爛れ、天に伸びるエルフの尖耳は、千切れて下方に垂れ下がる。


「ネ……ネグロ……ざま……」

「そんな……オルル……」


 少し劣勢になってからで良いと、その思いで控えたファッシネイション。

 その判断は間違いだった。

 ラーズは出会って即座に魅了しておくべきだった。


「どこだ……ラーズはどこにいる!?」


 煙幕のように土煙に身を隠すラーズ。四方八方に能力を飛ばしてみるが、ラーズは惚れたような素振りを見せてこない。


「まさかバリアが能力を邪魔して……ドール! バリアを解くんだ! ハルモニアも早くオルルを治療して――」


 こつんと、何かが当たる音が下方から聞こえた。

 足元を見てみると、バリアの壁面に向かって転がる、無数の爆弾が開花の時を刻んでいる。


「ネクロくん! これじゃバリアを解けないよ!」

「壁越しでは治療もできません!」

「そんな……これじゃオルルを見殺しに……」

「ネクロくん!」


 叫んだドールの細い指先は、俺の頭のすぐ右隣を指し示した。


「……聞いてあげて」


 ドールの指す方に目を送ると、そこには抉れた眼窩から、血涙を流すオルルがいて、爛れた口元は、何か言いたげに細かく震えていた。


「オルル……オルル……聞こえないよ……」


 顔を寄せると、オルルは口を突き出して、でも上手く聞こえなくて、バリアに張り付いたその時だった。

 オルルは何も言わずに、バリア越しにキスをして微笑んだ。


 その後に俺はごめんねと、その呟きはオルルの耳に届いたのだろうか。

 謝罪は爆音に掻き消され、バリアは紅色に染められた。

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