精神性ケロイド
「根黒くーん!」
帰りがけの校舎の廊下でのことだった。
根暗な俺は今日も一人、陰気にとぼとぼと歩いていると、唐突に背に声を掛けられたのだった。
普段呼ばれることなどないものだから、慌てて振り返ってみると、そこにはくりくりしたまぁるい瞳の愛らしい、黒髪ぱっつんのクラスのアイドル、七原愛瑠が微笑み、姿勢を斜に後ろ手を組んでいた。
「え、ええと……七原さんが俺を呼んだのかな?」
「そうだよ、根黒くん。ちょっとお話があるんだ」
腰を折る愛瑠のつぶらな茶目が不意に迫るものだから、返す言葉も見つからずに惑っていると、続け様に手を取られる。
「こっちに来て?」
「あわわわ……」
白くて小さくて柔らかい、絹の手触りのマシュマロといえば近いのかもしれない。
こんな手触りがこの世にあるのかと、それが愛瑠の手を握った俺の感想。
先行く愛瑠の黒髪からは梔子の香りが漂い、まさに幸せを運ぶ天使の訪れを感じさせて――
天使……幸福の象徴だったっけ?
愛瑠に連れて来られた場所は、人気の少ない校舎裏だった。
理科準備室の裏手にある、我が校のあってないような七不思議、恋の叶うとされる桜の木の下で足を止める。
互いに正面を向け合い、頭一つ下では愛瑠の小さな顔が俺を見上げる。
そんな愛瑠の真っすぐな視線は、恋や好きという言葉を知らない俺には刺激が強すぎて、瞳孔はあてどなく眼球を泳ぎ回る。
これからどうなるか想像もつかずに、ただただ頭の中は真っ白だった。
「根黒くん……あのね? 良かったら愛瑠と……付き合って」
「え……ふえ?」
ええと……いま愛瑠はなんて言ったんだ?
教室では遠目に見ていた憧れのアイドル。
同じクラスでありながら陰陽のように、陽の下に輝く愛瑠と草陰に隠れるようにして生きてきた俺。
なんら接点のないはずの愛瑠が、俺と付き合いたいと言っている。
「ねぇ……どうなの? 根黒くん」
「そりゃあもちろん……嬉しいよ」
「嬉しいって? それはつまり?」
「ええと……俺なんかで良かったらお願いします」
「嬉しい!」
俺の返事を聞くや否や、愛瑠は胸の中に飛び込んで、潤んだ上目を向けてみせた。
「こんな記念すべき日に、根黒くんと付き合えるなんて幸せだよ」
「あはは……俺も幸せ……って、記念すべき日?」
「うん。今日はね、愛瑠の誕生日なんだよ」
「そ、そうなんだね。おめでと」
「だからさ、ね? 分かるよね? 根黒くぅん?」
愛瑠は更に顔を寄せてきて、艶めく唇が間近に迫る。
吐息が肌を撫でる程の近距離で、これはまさか……キスして欲しいということなのか?
分からない……分からないけど、そんな雰囲気。
臆病を押さえ込んで瞼を閉じると、愛瑠を迎えんと唇を突き出した。
「いやぁあああ!」
いつの間にか、目下に見ていた愛瑠を見上げている。
なぜなら俺は、地面に尻もち着いたからだ。
なぜ尻もちを着いたのか、愛瑠に思い切り突き飛ばされたからだ。
「キモいキモいキモい! 勘違いしてんじゃねぇよ! 誕生日つったらプレゼントだろうが!」
「ぷ、ぷれぜんと?」
「駄目だこいつ……簡単にいくと思ったのに、こじらせた童貞ってマジできもい!」
意味も分からずに唖然とする中、愛瑠の背後の校舎の陰から、わらわらと現れる女生徒たち。
彼女らは一様に嫌らしい笑みを浮かべていて、呆けた俺を見下ろしている。
「愛瑠ぅ、失敗してんじゃねぇよ」
「だってさ、キスしてくるとかありえなくない?」
え? これは何? いったいどういうことなの?
「こ、これは?」
「あー、もういいよ。財布にもなれないゴミなんてさ」
「ゴ、ゴミ?」
「カツアゲとか犯罪じゃん。愛瑠は犯罪をするゴミは嫌いなの。だから善意でお金を貰うの。でも根黒くんは、無理やりキスを求める犯罪者のゴミ野郎だったね」
唾を吐きかけられ、慰謝料という呈で財布の中身をすげ取られ、後には一人ぼっちで校舎裏に取り残される。
ゲームが好き、カレーが好き、スノボが好き。そんな好きなら俺も知ってる。
けれど陰キャで地味な俺は、ある感情でのみ発生する好きという言葉を、未だ一度も体験したことはない。
「う、うぅ……悔しい……」
好きという感情を逆手に取って金を奪った愛瑠。
生まれもっての根暗を助長した、俺の人生最悪の記憶。
どうすることもできなくて、土を掴んだ俺は涙に暮れる。
「ハァイ……」
「え?」
確か誰もいなくなったはずでは?
見渡してみると、そこには既に校舎も桜の木も消え失せて、深淵の暗闇の中にただ一人、黒の衣装を身に纏う淫らな女だけが浮かび上がる。
「あなたは?」
「ミストっていうのぉ、君はぁ?」
「根黒です。根黒正人」
ミスト……どこかで聞いたような名前な気がする。
しかし頭ははっきりしなくて、まるで夢の中にいるようだ。
戸惑う俺を見るミストは、くすっと悪戯に笑みを零すとその場に屈んで、俺と視線を同じにした。
けれど陰気な俺はやっぱり目を合わせることができなくて、下ろした視線は意図せず豊満な胸元に向いてしまった。
「あらぁ? おっぱいが好きなのぉ?」
「あ、いや……これは偶然で」
「気分はどう?」
「今は最悪です……」
「むしゃくしゃする?」
「どうだろう……初めての感覚だし」
「そんな時ってぇ、なぁんかどうでも良くなっちゃわなぁい?」
「え?」
見上げると、舌なめずりするミストが流し目を送る。
その手はハリのある大腿を這い上がり、五指をうねらせ腰を沿う。
淫靡な体を撫で回す内に、たわわな胸を支える紐が、肩からするりとずれ落ちた。
「うあ……」
「悔しくってぇ、もどかしくってぇ、堪えようのない乱れた感情ぉぉぉ。私の淫らな体で発散しちゃえばぁ?」
誘惑は理性を問うものだ。
太らないように食べるのを控えよう。家計の為にギャンブルは控えよう。社会性の為に淫らな行いは控えよう。
しかしそもそもの理性が崩された状態で、こうも大胆に迫られてしまったら。
耐えられない。人は誘惑に勝つことなんかできない。
ミスト……確か敵の名前だった気がする。
愛瑠は金を、ミストは精気を。
好きという感情を逆手に取って奪い取る悪魔たち。
でもいいよ、もはやどうでも。
生まれてこのかた好きを知らない、俺なんかの好意で良ければ――
ちゃりん。
その音は戒め。
揺れ動く心を射止める、愛する者の呼び声だった。
「貴様ぁあああ! この私が成敗してくれるぅううう!」
どこからか咆哮を上げて、腰の剣を抜き取る女は横一閃、淫らなミストの体を切り裂いた。
「きゃあ! な、何者ぉぉぉ!?」
怯むミストへ続け様に切っ先を突き付ける女。
鎧として機能するかも分からない、破廉恥なビキニのようなアーマーを着る銀髪の騎士。
「リ、リムル!?」
「ネクロに手を出すのは私が許さん! なぜなら私はこの世の誰より、ネクロのことが好きだからだ!」
俺は知ってた。
好きという感情を貰い、そして抱いたんだ。
夢魔に襲われる悪夢の中でさえ現れる程に、俺はリムルという女性を好いたんだった。




