敵わない
愧死とは、恥ずかしさのあまりに死ぬことをいう。
人は恥の為に死ぬと、何かで聞いたことがある。
ならば今の俺は恥に死にたい。
手に持つマグには乳白色の体液が沈んでいる。
失神から回復した皆の意見を押し通され、夢魔を嵌める罠には本物のおせーしを利用する羽目になった。
あくまで牛乳程度では騙せないかもしれないという懸念を鑑みてだが、涎を垂らす面々を見る限り、彼女らの下心は丸見えだった。
マグを片手に個室に籠り、扉一枚隔てた先では荒い息遣い聞こえた。
そして今、致し終えた俺は王子の枕元にマグを置く。
何が好きでこんなことせにゃならんのだ。
「ほんと疲れた。これで夜まで様子を見よう」
「はぁ……はぁ……」
「あのマグの中にネクロくんの……」
「濃厚な匂いがここまで届くのじゃぁ、ふんすふんす」
「じゅるり……涎が止まりませんわ」
「体の内からウズウズするぜ」
「あのさ……そんな息を荒くしてたら夢魔に気付かれちゃうよ」
宥めて宥めて、なんとか皆を王子の部屋から追い出した。
監視に残るのは俺に加えて、小柄なドールに付き合ってもらうことする。
「ずるい! ずるいずるいずるいずるいです!」
「ドールゥウアアア! ネクロ殿に手を出したらタダじゃ済まさんぞぉおおお!」
「殺す殺す殺す殺す殺すデスわ……」
「ちくしょおおお! なんででっかく生まれちまったんだぁあああ!」
凄まじい怒気を湛える皆にあかんべーを返すドールは得意げだ。
邪気に嫉妬に、ぐちゃぐちゃな空気が取り巻くが、そうなることは言わずもがなお見通し。
「まあまあ……落ち着いてよ。俺はワードローブの中に隠れて、小柄なドールには壺に入ってもらうからさ」
「えっ!? 嘘! 一緒じゃないの!?」
「一緒だなんて一言も言ってないよ……」
関節が外れたと錯覚するほどに肩を落とすドール。
その無様を残りの女たちはげらげらと嘲笑った。
そんな仲良しとも言えない、奇妙な集団を見るセルフィの首は傾げている。
「あの……この関係性は一体」
「一言で言えば……いや、一言じゃ無理だった」
「なんだか大変そうね……初対面では酷いこと言っちゃったけど、転生者としてお互い――」
「有難いけど、その先は言わないでおいた方がいいよ」
既にセルフィの背後には、笑いの失せた女たちの影が差している。
「あ、安心して……私はあなたのことなど眼中に……じゃなかった、私みたいな女なんて相応しくないもの……あはは」
造り笑顔を張り付けるセルフィの肩を抱き寄せるハルモニア。
よくできましたと言いたいのだろう、懇ろに栗髪を撫でると、満足げにその場を去った。
「よし、じゃあ早速隠れるよ。トイレには行けないから事前に行っておくんだよ」
「心配してくれるなんて優しい! でも大丈夫だよ。ネクロくんのを見た時にいっぱい出したもん」
何を?
その後は一人では入れないと駄々をこねるドールの脇を抱えて壺に入れ、俺もワードローブに身を隠す。
あとは扉の隙間から覗き見て、夢魔の訪れを待つのみだ。
とはいえ、そもそも夢魔かどうかも分からないし、その中でワルキューレ・アナテマのミストである確率は低いかもしれない。
けれど、僅かな可能性でも試さなければ。
その先にリムルやエイルが待っているのなら。
隙間から覗く景色は細く狭く、ぎりぎり王子の枕元が見える程度だ。
足元の方までは見えないが、壺から顔を覗かせるドールなら全景を見渡せるはず。
観察してから暫く経ち、そろそろ肩肘凝って伸びもしたくなる頃合い、臼を擦るような鈍い物音が一つ聞こえた。
注意深く音を探ると、ひたひたと微かな足音が聞こえてくる。
まさか夢魔が訪れたのか? しかしその足音は不思議なことに、段々と大きくはっきり聞こえてきて――
まさか……俺の方に近寄ってきてる?
咄嗟に口を両手で押さえて息を殺す。
けれど足音は止むことなく、遂には扉の側にまで近付くと、微かな息遣いまでもが聞こえてくる。
う、嘘だろ?
ドールの方からは見えてない?
などと思考を巡らせている内に、扉はゆっくりと開かれた。
「ひぃぃぃ……って……あれ?」
「ご、ごめんね? やっぱり一緒に入りたいの……」
目下には眉根を垂らすドールが佇んで、榛色の瞳は頼りなげに揺れている。
「遊びじゃないんだってば」
「うぅ……ごめんなさい」
珠のような涙を瞳いっぱいに浮かべるドール。
駄目だとは分かっているけど、こんな顔をされてしまったら。
「ほら早く。夢魔が来る前に」
「う、うん!」
ドールの小柄な体はふわりと舞い、俺の横にぴったりとくっついた。
このとき俺は不覚にも、ちょっぴり可愛いなと思ってしまった。
「ドキドキする……」
「俺もだよ。いつ敵が来るか分からないからね」
「もう……そんなんじゃないのにな」
ドールが何を言いたいか、鈍い俺だってさすがに分かるさ。
そして今この現状が、途轍もなく危険だということも。
「内緒にしなきゃ駄目だよ」
「分かってるって~」
「本当に本当に……口が裂けても皆に言っちゃ駄目だ」
「……嬉しい、心配してくれてるんだね」
ドールもドールで、何が危険かをちゃんと理解してる。
そして分かっていても止められないのがファッシネイション。
「ネクロくん」
「あまり話さない方が……」
「ネクロくんネクロくん……」
「ドール?」
「ドールはこんなに幸せで――」
はっとして、俺はすぐにドールの口に手を添えた。
続く言葉はフラグともいえる、リムルとエイルを殺した禁忌の文言。
「むぐむぐ……」
「静かに、この先は喋るのを控えよう」
「むぐ」
改めてワードローブの隙間から部屋を凝視するが……
ドールの茶の髪から昇る芳香は、艶っぽくも柑橘のように初々しく、こうして他に集中するような事柄がなければ、どうかしてしまうほどに濃厚だ。
ドールの方も俺の胸に顔を押し付けて、すんすんとしきりに鼻を鳴らしている。
俺にいい匂いがあるのかは知らないが、ドールからすれば俺の存在を感じれるものならば、なんでも心地良いのだろう。
ふとした動きで、あらぬ部分がドールの体に触れてしまった。
思わず体が反応して、もどかしい気持ちが込み上がる。
ドールは埋めた顔を見上げると、その顔は驚きから、徐々にとろんと蕩けていった。
つま先立ちのドールが目蓋を閉じて顔を寄せる。
甘い吐息が鼻孔と官能を大いにくすぐる。
まずい……いま求められたら断れる自信がない。
そう、頭ではいけないと分かっていても、体がいうことをきいてくれなくて、ドールの艶めく桃の唇に、本能のまま吸い寄せられる。
ちゃりん……
その音は戒め。
傾けた首に掛ける、愛する者の呼び止める声。
桃色の脳内はまっさらに冴え渡り、一度はドールの肩に伸ばした手を己の胸元に運ぶと――
リムルの納まるペンダントを、ぎゅっと力強く握り締めた。
「駄目だよ。ドール。今は敵に集中しよう」
瞳を開いたドールは悲し気に眉を下げると、再び俺の胸に埋まった。
「か、勝てない……ドールはネクロくんを想えば無限に強くなれるよ。天使にも魔物にも魔王にも負けない。でも……死人にはどうやって勝てばいいの……」
先程までは温かかった胸元が、今は涙に濡れて冷たくなった。




