裏切りの庭
季節の花々が咲き乱れる庭で、絵画から抜け出たかのような美しい男女が抱きしめ合う。
「エマ、君を愛している。しかし、彼女のことを捨てることは出来ないんだ。すまない。」
苦しそうに顔を歪めながら、男は言った。
男の言葉を受けた女は、涙ながらに頷く。
「私も愛しています。たとえそばにいることは出来なくとも、私の全てはユリス、貴方のものです。」
お互いの名前を呼び合い、きつく抱きしめ合う。
女の腹は、新しい命を宿し、まるみを帯びていた。
「……っ。」
絶望で、今にも叫び出してしまいそうな口を両手でおさえ、あちらに見つからないよう木を背にしてうずくまる。
裏切られた。
許せない。
醜い感情が、身体の中を渦を巻いて一気に駆け巡る。
彼を一心に信じ、愛していた、先程までの自分が恥ずかしく、なんと愚かしいことか。
嗚呼、これは罰なのだ。
嗚咽を必死に耐え、涙で歪む世界に瞼で蓋をした。
この世界に巫女として召喚されたのは、16歳の時のことだ。
私の家は母子家庭で、記憶のある限り昔から、私と母はずっと折り合いが悪かった。
仕事仕事でずっと家にいない母。
家事も苦手で、普段の食事、運動会ですらお金を渡されては、自分でコンビニで買ってくるようにと言われた。
授業参観なんて、見に来てくれたことは一度もない。
授業中、教室の後ろに立つ母親を見て手を振る友人達に、私はずっと嫉妬していた。
まわりの幸せそうな家が、羨ましくて仕方なかった。
私は何度も母に、優しい母親像を求めたけれど、母は私の求めに顔を歪めるだけだった。
私は私の求めに応じてくれない母が、大嫌いだった。
高校生になったある日、私と母は進路のことで酷い言い合いになった。
早く自立をして母のもとを離れたがった私と、大学に進学しろと言う母との話し合いは平行線で、最後の方はもうお互いに疲弊して、タガが外れてしまっていたのかもしれない。
私が今までずっと心の内にためていた聞くに耐えない言葉を母に浴びせると、母は静かに涙を流し、
ーーあんたなんか、産むんじゃなかった。
と、消え入りそうな声で、そう言った。
私は私の存在そのものを否定するその言葉に、身体中の血が一気に逆流するかのような怒りを覚え、中学の時に部活で使っていたスポーツバッグに着替えやら何やら詰め込むと、居間でうな垂れる母に声をかけることもなく、家を出た。
行くあても何もなかったけれど、もう二度と家には帰らないつもりだった。
だから、家のドアを一歩出たその瞬間、こうして異世界へと召喚され、巫女としての生活を保障されたことは私にとって渡りに船だったのかもしれない。
「どうしたの?あまり食べていないじゃない。具合でも悪いのかしら。」
心配そうにこちらを覗き込む王妃に、私はそんなことはないと言って、止まっていたフォークを無理に動かした。
煌びやかな食堂に、豪華な夕食が並んだ大きなテーブル。
四つの椅子にはそれぞれ国王、王妃、私と、王太子が座っている。
「間もなく結婚式もあるのだし、無理をしてはいけないわよ。」
結婚式…、ぎりりとフォークを握りしめた手のひらに爪が刺さって血が滲んだ。
式にさして興味のない国王は素知らぬ顔で食事を続け、王太子であるユリスは結婚式の言葉に反応し、こちらを見た。
「母様の言う通りだよサヤ。体調がすぐれないのならあまり無理はしないでくれ。私は今から君の花嫁姿を楽しみにしているのだから。」
白銀の髪の間から覗くエメラルドのような美しいこの瞳に、この世界に来たばかりの私はすぐに夢中になった。
日本ではモテる方ではなかったし、そもそも男の人となんて話したこともあまりなかったのだ。
そんな私が、この宝石よりも美しい容姿を持つ王太子に優しくされ、宝物のように大事に扱われて。
この世界に来てから今日までの2年間。
私はずっと勘違いをしていた。
彼は私を愛してくれているのだと。
「少し疲れているだけ。ぐっすり眠ればすぐに治るわ。」
「それならいいのだけど。君が心配だ。」
「ありがとう。大丈夫よ。」
巫女の仕事は難しいことではない。
ただ、幸せに暮らす、それだけ。
巫女がそこに存在し、心を乱すことなく過ごす。
ただそれだけのことで、その国は繁栄すると言われている。
そんなことがありえるのかと私は未だに半信半疑だけれど、私がこの国に召喚されてからは実際に、飢饉にさらされていた農村地帯は豊かになり、国は潤う一方らしい。
それがたまたまなのか、私の力なのか、それは私にはわからない。
「そういえば最近、エマの姿を見ませんが。忙しいのですか?」
城で暮らす、ユリスの乳母の娘の名前を出すと、皆一斉に手を止めてこちらを見る。
私はそれに気づかないふりをして話を続けた。
「折角ユリスが私の話し相手にと、幼馴染のエマを紹介してくれて、やっと仲良くなってきたと思ったのに。ここ最近会うことがなくて、とても寂しいのです。」
つとめて悲しげな顔を作って肩を落とすと、ユリスは立ち上がって私のそばにきて、肩を抱いた。
「エマは城を離れることになったんだ。親族に体調が悪い者がいてね。しばらくその世話をしに行くことになったんだよ。」
「そうですか。私たちの結婚式に来てくれるものだと思って楽しみにしていたのに。とても残念です。」
「友人なら、また別のものを紹介するから。」
「いいえ、必要ありませんわ。エマ以外。そうでしょう?」
「…っ。」
さぐるようにこちらを見るエメラルドの瞳に、私はこれまでのバカな自分を演じ、エマ以上にいい人はいないもの、と、拗ねたように唇を尖らせた。
王妃がほっと息をつく音が聞こえ、手を止めていた国王はまた何事もないかのように黙って食事を続ける。
優しい婚約者と母、寡黙ながらも頼りになる父。
ここには私が求めていた全てのものがあるはずだった。
けれど、気付いてしまえばもう遅い。
この3人はずっと私を騙していたのだ。
巫女である私の機嫌をそこねないように、大切にするふりをしながら、私の求める家族を演じていただけに過ぎない。
巫女を他国に流出させないように王太子と結婚させ、国が潤うようにバカな私を騙して偽物の幸せを与えていたのだ。
「貴方には私たちがいるじゃない。そうだ。また仕立て屋を呼んで、新しいドレスを作りましょう。貴方の美しい黒髪がはえるような生地はあるかしら。」
王妃の細く白い指は美しく、あかぎれ一つない。
それぞれの指には、爪よりも大きい宝石のついた指輪がはめられている。
そういえば、母がアクセサリーをつけているところを私は見たことがあっただろうか。
いや、なかったに違いない。
私たちには、そんな生活の余裕はなかった。
「サヤの可愛らしさに見合うような生地なんてこの世にあるのかな。」
耳元で、ユリスは甘い声でささやいた。
恥ずかしそうに顔を伏せるも、私の心はどこか遠くにいて、冷めた目でこの光景を見ている。
「まあ、ユリスったら。我が息子ながら婚約者にそんなに夢中でどうするの。サヤはみんなのものよ。」
「サヤは私のものですよ。母様。」
あの指輪の一つでもあれば、母の生活はどんなにらくになるだろうか。
母はわかりづらい人だった。
王妃のように私を可愛がることも、優しい言葉をかけてくれることもなかった。
でもそれは、私を愛してくれていないということに繋がるものではないのだと、今ならわかる。
母には、余裕がなかったのだ。
母が私を産んだのは17歳の時だったと聞いた。
相手は母の妊娠に恐れをなして逃げ出し、出産することを反対した祖父母とは私が生まれてすぐに決別し、母は私を一人で育てることにした。
中卒でろくな仕事はなく、頼れる人もいなくて、どんなにつらかったことだろう。
それでも母は、私を捨てることはしなかった。
私の前で弱音を吐くこともなく、不器用ながらも懸命に、私を育ててくれた。
あれだけしつこく私に大学へ進学するように言ったのは、誰よりも学歴の大切さを知っているからだと、今の私ならわかるのに。
授業参観の日、どうして来てくれなかったのだと泣いて怒る私を、母は悲しそうな顔で見ていた。
泣き疲れて眠った私のそばで、ごめんねと言って母が泣いていたことを、本当は知っている。
運動会の日の朝、台所にはこげた卵焼きがあった。
母はそれを私から隠すように立ち、お弁当を買っていきなさいと私にお金を渡したけれど、その手には絆創膏がまかれていた。
本当はわかっていた。
全部わかっていたのに、私はいつも不満ばかりで、我が儘で、どうしようもない娘で、別れの前には聞くにたえない言葉を母にたくさん吐きかけた。
ーーーお母さんが私のお母さんじゃなかったら良かったのに。
お母さんのもとに産まれて、幸せだと思ったことなんて一度もないわ。
どうして私を産んだのよっ。
今でも私の耳には、私が吐き出した醜い言葉たちの記憶が残っている。
「サヤ、部屋まで送るよ。」
「ありがとう。」
食堂から自室までの帰り道。
長い廊下をユリスに肩を抱かれ歩く。
ちらりと盗み見た彼の横顔は、窓から入る月明かりに照らされて、彫刻のような美しさがいっそうすごみをましている。
思えば、この人も可哀想な人だ。
きっと私がこの世界にくる前から、エマとは恋人同士だったに違いない。
けれど、国のために、或いは自分のために、私と結婚することにしたのだろう。
この国では国王であろうとも妻を二人持つことは叶わない。
ましてやこの世界では、巫女の幸せが国の繁栄に直結すると信じられているのだ。
堂々と妾をもつことも難しい。
幼馴染であり、大切な恋人とおもてだっては一緒になれないということは、どれほどの絶望を彼にもたらしたのだろうか。
彼がエマと抱きしめ合う姿の記憶はまだ新しく、私の胸を焼き尽くすような嫉妬心をわきおこすけれど、それと同時に今までずっと彼の愛を疑わなかった自分に恥ずかしさも覚えた。
こんなに美しい人が自分を好きになってくれるなど、よくも勘違いが出来たものだ。
思えば私はこの2年間、ずっと、自分のことを幸せだと思い込むようにしていた気がする。
まるで何かから逃げるように。
そう、母のことを考えなくてすむように。
「結婚式のドレスのことだけど、また仕立て屋を呼んでもらってもかまわないかしら。」
「どうしてだい?デザインが気に入らなかった?」
母は、突然いなくなった私のことをどう思っているだろう。
汚い言葉を吐きかけて、勝手に消えた娘のことなんてもう忘れているだろうか。
「いいえ。デザインは王妃様が選んでくれたんだもの。とても素敵だったわ。」
忘れていてくれたらいいのに。
「じゃあ、どうして?」
こんな親不孝な娘のことなんて、全部綺麗に忘れて、幸せになってくれていたらいいのに。
でも母は、きっと私を忘れてはいない。
部屋の前まで着くと、私はユリスの手から逃げるようにして距離を取り、扉を背にして、目の前に立つ彼の瞳をじっと見つめた。
「私と彼女は同じ体型だけれど、今の彼女ではあのドレスを着ることは難しいわ。サイズを手直しするか、新しく仕立て直すしかないかも。」
「それはどういう意味だ…?」
彼の焦ったような顔は初めて見た。
いつも作ったような微笑みを浮かべている顔が崩れるのは、少し気分が良かった。
「そのままの意味よ。私を愛しているふりはもうしなくていいの。今までごめんなさい。エマとお幸せに。」
「サヤ、何を言っている?私は君を愛しているんだ。エマとはなんでもない!」
「ユリス、私知ってるの。もう、ぜんぶ、知ってるのよ。」
「サヤっ。」
伸ばされた手から逃げるように扉の内側に入ると、私は内鍵をさっと閉めた。
扉の向こうではユリスが何度も扉を強く叩きながら、私の名を呼んでいる。
「サヤ!お願いだ。ここを開けてくれっ。私の話を聞いて。」
「もう貴方の話は聞きたくないの。」
私の目からはいつの間にか涙がこぼれ落ち、床にシミを作っていた。
「君を愛してるんだ。全ては君の勘違いなんだよ。」
全てに蓋をして、幸せになるふりをすることも出来たかもしれない。
でも、私はそれをしなかった。
「今までありがとう。でももう、私は貴方の役には立てない。だからいいの。本当に愛する人と幸せになって。お願い。」
巫女の幸せが国の繁栄に直結するというのなら、私はもう彼の役には立てないだろう。
何故なら、私は彼を本当に愛していた。
だからこそ、彼の裏切りが許せない。
こちらの世界に来たばかりの私は言葉もわからず、パニックにおちいり、毎日泣いてばかりだった。
そんな私に彼は辛抱強く付き合い、落ち着くまでずっとそばにいてくれたのだ。
たとえあれが偽物の献身だとしても、私は彼なしではあの時期を乗り越えることは難しかっただろう。
愛してるからこそ許せない。
愛してるからこそ幸せになって欲しい。
相反する気持ちが混ぜ合わさって、彼への気持ちはぐちゃぐちゃだけれど、夢物語から目が覚めた今だからこそ、私はやっと自分がやらなければいけないことに気づけたのだと思う。
私は、母に謝らなければいけない。
ずっと目を背けていたことに、向き合わなければいけない。
以前、ユリスは私に、元の世界に戻る方法はないと言ったが、今にして思えばそれは怪しいものだ。
彼は、私を元の世界に返す気などなかったはずだ。
元の世界に帰る方法があったとしても、私に言うわけがない。
この世界にはこの国以外にもいくつもの国がある。
元の世界に帰る方法が、どこかで教えてもらえるかもしれない。
こちらの世界に来た時にもってきたバッグを取り出すと、私は重たいドレスを脱いでジーパンにTシャツ、スニーカーと、随分と久しぶりな服装に着替えた。
ドレスも宝石も何もかも、ユリスからもらったものは全て置いていこう。
無一文で、この世界の常識も何も知らない私が外の世界へ飛び出すことは、無謀以外の何ものでもないだろう。
不安で胸が押しつぶされそうになりながらも、私はシーツとシーツのはしをぎゅっと繋ぎ、ベランダからそれをたらした。
幼い私を連れて、家を飛び出した母は、どんなにこわかったことだろう。
お金もなく、頼れる人もおらず、腕の中に抱いた命の重みに、母は何をおもったのだろう。
ねえ、お母さん。
私、お母さんにどうしても言いたいことがあるの。
ひどいこと言ってごめんなさい。
産んでくれてありがとう。
お母さんの子供にうまれて良かった。
どうしてもそのことを伝えたいの。
だからどうかもう少しだけ、この親不孝な娘のことを待っていて。
外の風は冷たく、不安からか、寒さからか、震える身体に鞭を打ち、私はシーツをつたって地面へと降り着いた。
遠くから騎士たちが走ってくる音が聞こえたが、その姿が見えるよりも前にその場を立ち去った。
見知らぬ世界。
今まで一度たりとも王宮の外に出たことはない。
恐怖で今にも後戻りしてしまいそうな自分の気持ちには気づかないふりをして、暗いくらい夜の闇の中へと走っていった。
「サヤ、絶対に逃がさない。」
扉を蹴破り入った主人のいない部屋。
彼が何をおもってその言葉を言ったのか、私は知らない。
巫女のいなくなったその国は、次々と天災に襲われ国は荒れたという。
近隣諸国では、奇妙な服を着た可愛い黒髪の少女の姿が度々目撃されたが、ある日をさかいに彼女の姿はなくなった。
噂では、どこかの王族に監禁されたとか、もしくは遠くの国に旅立っていったと言われているが、どれもさだかではない。
真実は誰にもわからない。