不透明で不明瞭な不完全狂詩曲
誰かのための文章です。
そして、その人に伝えたい訳ではありません。
筆者の主観です。一般論ではありません。この文章自体に何が言いたいか、と問われれば言い返す言葉はありません。主張は特にありません。
そう、ボヤキです。
戯言です。
こんばんわ、こんにちわ、おはようございます。
残念な戯言遣い、アルファタウと申します。
では、本文。
去る者がいる。
そして追えない僕がいる。
いやいや僕は追従して終えないし、何もできないのが大前提だ。
それは何者にも成れない僕だから、なのだと思う。
物語の、いや言語化されてもいない頭の中の映像で、登場人物たちが喋って動かない。事件が起こらない。
the fish was launched on the pier.魚はどうなるでもない、ただ死んでいく。魚になんの価値も付加できない。それは作り手として失格だ。そんな奴はそもそも作り手でもない。
物語の定石など関係ない。いや、そんな場面を描いても、そもそも喋っていない。
これは、あるあるだろうか。
動け動け。無理矢理にでも動かしたい。捻くれた思考回路が囁き続ける。こうなったら仕方ない、無理矢理動かざる得ない場面に放り込もう。
安直な僕はすぐさま行動を起こす。よし手っ取り早く、命のやりとりだ。
用意した分かりやすい敵役。しかし対峙した主人公の足がすくんで動かない。いや、主人公は恐怖も何も感じていない。そこにあるのは、ただの木偶だ。
いつの間にかYour defeat.そんな文字が画面一杯に、頭の中に広がっていく。
まだ“時間”が動いてくれているだけマシかもしれない。動かせずにいると段々と自分の中でいつの間にか物語が、主人公が風化して、その欠片すら思い出せなくなっていく。
これは主人公の性格に成りきれない自分だからだろうか。そもそも、主人公の性格なんてものをひねり出している時点で絵書きたい物語だっただろうか。
筆が……足が動かないとなると、それは困ったことになる。
その場から一歩も動けないとなると、精神的な場面にも肉体的な場面にも対応できないからだ。物語を作る人間としては、動かない登場人物ほど面倒なものはない。
そもそも映画のように、間一髪でその状況を打破する英雄的な行動は誰も彼も出来る事じゃない。劇的というはまったくもって作為的なのだ。
そんなことは、物語を紡ぐ人間なら解りきっていることだ。
何度も繰り返されてきた問答、プロセス、思考回路、アルゴリズム、思考にノイズという名の雑念が混じる。
と、現実に自分はこういう状況下で、僕の望んだ様に動けるだろうか、いや、動いているだろうか。
そういう場面において“動けない”と“動かない”は、まったく別の意味になってくる。
物語にとって、動くとは言葉で記号だ。そして動かないというのも言葉で記号だ。
物語創作だけではない。愚直な僕の頭の中に一つの思案。
では、現実では?
なんて驚くほど冷たい設問の言葉なんだろう。
言い換えよう、己自身ではどうなのだ?
現実は、驚くほど自動的だ。自動的でないなら、壊れていく。人も物も、概念さえも。
変貌と変化をし続けるのだ。世界も僕──己自身も。
現実世界で“動かない”という記号は、何処までが自動的なんだろうか。
結局、僕は追えないのだ。ただ、終わっていく“それ”を、もしくは“それら”を見送るしかない。
それは動けないのと、ほぼ同意気だ。
きっと傲慢なのだ。
買ってくれないお菓子を買ってくれと駄々を捏ねる子供と一緒だ。そんな例えで誤魔化しきれないくらいに醜悪なんだと思う。
けれど反射的にまた別の思案している。
それらが伝えてくれたことは、嘘だっただろうか。
確かに演じ、虚を吐き、誤魔化していただろうこともあったが、その中で僕が感じたことは偽物だったとは思えない。
虚構の中で、何を伝えてくれたかを思いだそう。
僕の中で、あれら全てが思い出補正がかかる前に。
綺麗事に成ってしまう前に。
都合のいい自己解釈で、自分が納得する前に。少しでも心地よかった幻想が、残酷な現実とお別れを突きつけてきた事実を理解して、かみ砕いて、自分は無力だと思い知ろう。
そして、思い出を補正するとしよう。
いつだって、そうやって、無力な自分を卑下して終わるのだ。
脳内で再生された言葉と思い、それにあの場面の映像は偽物だったか?
その言葉はいったい誰の為にかけられたのか。
それは言葉を読んだ人間にしか決めれないのと同じだ。
その思いはどのように生まれたのか。
それは重いと行動が直結していない嘆きに近い。
その場面に直面して、何か出来るか出来ないかに年齢は関係ないと思われる。もしも年齢が関係するとしたら、“何が”出来るかの時間制限があるかどうかの話になってくるだけだ。
でも僕は“動けない”のは、歳のせいにしたい気分だ。そういう時代だ。
何も出来ないことに無力を感じるなら、それは否定したい。
無力かどうかは、さらに関係のではないだろうか。無力かどうかは結果に起因するし、無力を感じるかどうかは直面している当人の問題だからだ。
では、僕は何にこんなにも嘆いているのだろうか。
世界の状況か、それとも安月給の現実か、どうにもならない人間関係だろうか。
ふと思った。
いや、きっと魔がさした。
これでは、憧れたあの作者の、あの作品の、あの文脈たちの方がまるで現実的ではないか。もしくは、この世界は誰かが書いた小説のようじゃないか。
いやいや、この文章は老頭兒が過ぎて懐古主義に陥っているだけだ。そう考えて納得する僕はちゃんといるし、ちゃんと在る。
いや、それにしたって世界があんまりにもどうかしている。そう考えてしまう僕もいる。
後者の僕は果たして本当に現実をみて受け入れられないだけなのだろうか?
この世界が誰かの小説なら、あの名文で待ち合わせをして逢瀬を楽しみたいけれど、そんな余裕もないし、想像も間に合わない。
僕には時間がない。正しく言うなら、人生は有限なのだ。時間には限りがある。
どうも僕が生きている世界と時代は、小説の中、物語の様になってしまった、と感じるのは事実だ。そんな風に感じることが多くなってきた。
戦争に負け復興した平和な国で、宗教によるテロが起こり、大地震に何度も襲われ、世界的な経済危機を搔い潜り、タイミングを見計らったように周期的な流行り病である。
この列島が常夏になった設定の有名アニメよりも、中二的に感じてしまう。ロボットも巨大人造人間も出てこないからこの世界と現実は皮一枚でつながっているのかもしれないけれど。
世界に病が蔓延して、馬鹿馬鹿しいくらいにその病に振り回され、疲労している世界。といえ、生活を続けなくてはならない世界。
この世界は一体なんの冗談で生まれたんだ?
神様の冗談で生まれた世界になら、英雄の一人や二人用意してくれてもいいのにとも思う。
いや、いて欲しいと願うのだ。いると信じたいのだ。
ただ見えないだけだと、信じたい。
何処にいるのだと問われても、その答えを僕は知らない。たぶん誰も知らない。何処にもない、という答えが正しいとも理解しているし、“だから”この世界が現実なのだと思えてならない。
きっと大人に成りきれない、割り切れない僕の中の“何か”が渇望しているのだ。しかし“青臭い”、“餓鬼”、“子供っぽい”と切り捨ている自分がいる。
それをただただ“青臭い”、“餓鬼”、“子供っぽい”と切り捨ててはならないと痛感もしている。そう感じたなら、それを否定してはならないと思うし、現実と折り合いをつけないとならない。
例えて言うなら、カミュやベケットが描いた“不条理”が具現化したみたいだ。なら、あれの役割はB級映画のゾンビだ。登場する理由もなく、舞台上にあがる資格云々を無視して、突然現れたのだから。
不条理は当人にそれを感じないから不条理だというのに、この世界のシステムは何処かおかしい。皮肉が効き過ぎているし、自身のシステムにジレンマで組み込んでいるようだ。いや、それは僕の主観だろう。
これは一体どんな作者が描いたのか気になるところではあるが、ただの数式の羅列が呈示されるだけだろうと思うので、時間を割くほどではない。
そんなシステムでも癒されている人はいるし、誇りを持って生きている人たちもいるのだ。
そんなシステム……物語の途中、上手くやった人物がいたとしよう。立ち回り、もがき苦しみ、そして手に入れたものは多く、順風満帆な人物がいたとしよう。その人は英雄に成りえない。
それでも、英雄として僕の前に現れないのは何故なんだろう。
きっと大人になれない夢見がちな、現実を見ることも出来ない中途半端な僕の愚痴なのだろう。
またついでとばかりに愚直に思う。
そもそも英雄という概念自体が、虚構なのではないだろうか。
そして同時に、きっと英雄はいるのだと強く願う自分もいる。サンタクロースを信じているのは子供も大人と一緒だ。
救われたいのだ。
助けて欲しいと願っている。そんな願いが英雄の虚像を生み出しているのではないだろうか。
上記を前提として、ここからは思考実験だ。英雄はいるとして、いるんだと信じて仮定しよう。
英雄がいる世界。
誰もを救う、救える概念の存在。
何でもいいのだ、誰かの、見知らぬ他人を救える存在ならば。誰かの心の支えになっている存在なら、それを英雄と呼んでもいいし、有名人でもいいし、アイドルでも、スポーツ選手でも、サンタクロースでも、独裁者でもいい、そう、VTuberでもいいんだ。
そんな人物が立ち止まってしまい、一歩も動けなくなる事態とはなんだろうか。一歩も動きたくなくなる状況とは何だろうか、それらを当てはまるには怠惰でもなく、傲慢でもなく、事実として。
英雄が助けてくれと言ったなら、それは誰が救うのだろう。
そう思うと、この世界が誰かの書いた小説なんかじゃないと思える。
英雄が瀕死になったなら、その英雄を救うのは絶対に僕ではない。また別の英雄だ。でも僕にとってはその英雄は、英雄としてみれない。
やはり英雄などいない。
誰かが誰かを救おうなんて、そんな概念自体がおこがましいのだ。
誰かが言っていた。
己を救うのは己自身だけなのだと。
超人などにはなれないけれど、確かにそうなのだろう。
何者にも成れない僕だから、言いたいことなどない。
言えることなどない。
ボヤキと愚痴と戯言にまみれた駄文を綴るしかできない。そんな無力な僕は、嘆いているだけなのだ。
僕は追えない。
何処にも行けない。
何にも成れない。
だから僕は、ここで、僕で在り続けるんだろう。
諦めから始まる、継続維持。進みも出来ないし、後退も出来ない。
きっと開き直りとは言えない。それは何処かに向かうエネルギーがあるから。
諦めたからといって、生きることをやめることも出来ない。それは、まだ僕で悲しんでしまう人がいるから。
だったら、ここで踏ん張るしかないのだろう。
去る人を追いかけることは出来ない。
この場所で見送るしかない。